一昨日報じられていたのだが、1984年度以降に行われた大学入試センター試験(厳密に言えば、1989年度迄の呼称は「共通第1次学力試験」。)では、解答用紙のマークシートに受験番号をマークし忘れたり、誤記したりした受験者を全員割り出し、0点にする事無く通常通り採点していた事が判明。共通第1次学力試験が導入された1979年から5年年間は、この手のミスは一律0点としていたが、「余りに気の毒。」という事から今の方針に変えていたという。今春のセンター試験でも約7千件のミスが在ったが、全員救済されたそうだ。23年間もこういった措置が採られていたとは全く知らなかった。
この事に付いて、賛否両論渦巻いている様だ。「学力とは無関係のミスを救う配慮で在り、英断で在る。」といった好意的な声が在る一方で、「ルールを守れなかったという現実を前にして、過保護過ぎるのではないか?」と批判的な声も在る。元記事で文部科学省の人間が、「大学受験生を大人と見て自己責任を負わせるべきなのか、それとも子供と見て手を差し伸べるべきなのか、判断が難しい。」とコメントしているが、その気持ちは理解出来る。
確かに自分やその身内がこの手のミスをしたと考えると、救済措置は天からの救いと欣喜雀躍するに違いないとは思う。でも、厳しい言い方を敢えてすれば、救済措置は過保護なのではなかろうか。
「学力と無関係なミス。」というのはその通りかもしれない。しかし、「この様にしなければならない。」というルールが厳然として存在し、皆が等しくそれを守った上で試験を完了させるというシステムになっている以上、”守った人間”と結果的にとは言え”守れなかった人間”が区別されてしまうのは致し方無いのではないか。
非情な事を書いているのは自覚しているが、社会に出ればこういった救済措置が待っている事はそうは無いだろう。人間はミスをした事で、それ以降は用心深くなり、ミスをしない努力を自然と為す様になるのではないか。「羹に懲りて膾を吹く」という喩えも在る。逆に子供だからといって、過度な救済措置を採ってしまう事は、彼等の為にならない甘えを生み出してはしまわないだろうか。こういう御時世だからこそ過保護さは、社会への不適応さを増させるだけではないかという気がするのだ。
そこで皆様にズバリ聞きます。「この救済措置をどう思いますか?」
今回はかなり、私見の分が悪そうな気もするが・・・。
この事に付いて、賛否両論渦巻いている様だ。「学力とは無関係のミスを救う配慮で在り、英断で在る。」といった好意的な声が在る一方で、「ルールを守れなかったという現実を前にして、過保護過ぎるのではないか?」と批判的な声も在る。元記事で文部科学省の人間が、「大学受験生を大人と見て自己責任を負わせるべきなのか、それとも子供と見て手を差し伸べるべきなのか、判断が難しい。」とコメントしているが、その気持ちは理解出来る。
確かに自分やその身内がこの手のミスをしたと考えると、救済措置は天からの救いと欣喜雀躍するに違いないとは思う。でも、厳しい言い方を敢えてすれば、救済措置は過保護なのではなかろうか。
「学力と無関係なミス。」というのはその通りかもしれない。しかし、「この様にしなければならない。」というルールが厳然として存在し、皆が等しくそれを守った上で試験を完了させるというシステムになっている以上、”守った人間”と結果的にとは言え”守れなかった人間”が区別されてしまうのは致し方無いのではないか。
非情な事を書いているのは自覚しているが、社会に出ればこういった救済措置が待っている事はそうは無いだろう。人間はミスをした事で、それ以降は用心深くなり、ミスをしない努力を自然と為す様になるのではないか。「羹に懲りて膾を吹く」という喩えも在る。逆に子供だからといって、過度な救済措置を採ってしまう事は、彼等の為にならない甘えを生み出してはしまわないだろうか。こういう御時世だからこそ過保護さは、社会への不適応さを増させるだけではないかという気がするのだ。
そこで皆様にズバリ聞きます。「この救済措置をどう思いますか?」
今回はかなり、私見の分が悪そうな気もするが・・・。

以前、「民間企業に勤める会社員は、連日の様に残業で遅く迄残っているのに、公務員は定時に帰っているのだから気楽なもの。」といった趣旨の記事を書いた所、或る方から「民間企業の会社員は気の毒だと思うのですが、でも、そもそも遅く迄残業をするのが当たり前という考え方は違うのではないでしょうか。民間の会社員だろうが公務員だろうが、定時にスパッと帰れる組織というのが”本来は”健全だと思います。」という書き込みを戴き、「確かにその通りだなあ。」と思わされた事が在りました。
「社会に出れば救済は無い。だから、救済の必要を生じさせない注意力を、若い内から養った方が良い。」という思いを自分は書いたのですが、これも上記した様に「救済が無い事が致し方無い事。」という考え方が確かに自分の中には在りましたね。本来は長野県知事の康夫ちゃんでは在りませんが、「しなやかな社会」の方向に向かうのが、より過ごし易いとは思います。
偽造マンションについては購入者には落ち度はないと考えています。理由はgiants-55さんとほぼ同じです。
「権利の享受ばかりを主張し、義務を負わない人間が増えて来ている今だからこそ、義務をしっかり負わせる必要も在る」(抜粋でありながら一部を省略し申し訳ありません)
それはわたしも感じています。けれどそれは今、センター試験の時に行わなければいけないものでしょうか。
もっと幼い頃から家庭、学校で少しずつ教えていくことで良い方向に改まっていくのではないかと思います。
人間誰しもミスはあります。そのミスが悪意や無責任さから発生したものでない場合は助け合い許しあうことが、社会の幸福に繋がるように思います。
むろんだからいくらでもミスしてよい、ということではありません。誰しも自分の立場と環境で最善をつくすべきではあります。
「社会に出れば救済はない」ということが当たり前のように語られることに寂しさを感じます。
なんだか少々大げさな表現になってしまいました・・・。
先ずは誤解が在りました事を御侘び申し上げます。と言うのは、受験番号のマークや記名等は”実試験時間”(純粋に問題にとっかかれる時間という意味。)内に組み込まれていると思っていたからです。自分が大学受験をしたのはもう二昔も前というlong long agoな出来事でしたので、うろ覚えな記憶を辿ってそう思っていたのですが(実試験内にマーキング等の時間が組み込まれていたのは、共通一次試験では無く、私大の試験だったかもしれません。何しろ大昔の話なので(^o^;;;。)、少なくとも今のセンター試験に於いては違っているんですね。申し訳ございませんでした。
そうなると、仰る様に「マーキングしなかった受験生に、問題をより多く解ける時間が生じる”可能性”が在る。」というのは無い事になりますね。
「細心の注意を払ってケアレス・ミスを為さなかった受験生はサヨナラ負けを食らったチームの選手」という比喩も、読み返してみると一寸おかしいですね。試験に受かるだけの点数を取っているので在れば、合格している訳ですから。
唯、「相手打者を打ち取ったと思ったのに、直前にタイムがかかっていたという事で、相手打者の打ち直しが認められた」様な”複雑な”感情を持つ受験生も居るのではないかという気がします。センター試験の案内に、「受験番号のマークミスが在った場合、採点出来ない事が在ります。」と記されているという事は、「マークミスが在っても、採点する可能性が在る。」と読み替える事が出来、「”厳密な”ルール違反では無いものの、何かしっくり来ないなあ。」という違和感が、きちんと記した大多数の受験者の中には、湧く人も居るのではないかと。
確かに、合格するだけの学力が在る受験生が、学力を判断する部分”以外で”落とされてしまうのは酷だとは思います。自分を含め、今回の措置に異論&反論を持っておられる方の多くも同じ気持ちは在るのではないかと。
自分としては上記した様に、「アンフェアに思える。」という面よりも、将来大きなミスを犯さない為にも、出来るだけ若い内に”例えどんな状況下に在ったとしても”ミスの可能性を減じられる”土壌”を作っておいた方がベターなのではないかと、自分の過去の失態を踏まえて考えた次第です。
これからも宜しく御願い致します。
昨年、実際にセンター試験を受けた身から言わせてもらうと、やはりこういった救済はあっても良いと思います。まずは、書かれている方もいますが、受験とは『受験とは学力を見るもの』です。大学側も、学力の高い人材をほしがっています。大学は『大事な場面で名前を書き忘れない、ケアレスミスをしない学生』を望んでいるのではありません。受験において一番大事である学力とは全く関係ない部分で、優秀な人材をつぶしてしまうことは、あまりに酷です。
『受験番号をマークしなかったことによって、問題を一問でも多く解くことができる』と書いていらっしゃる方がいますが、そんなことは絶対にありません。なぜならば、受験番号をマークするのも、選択教科をマークするのも、テスト開始時間の数分前にテスト監督の指示によって行うからです。だからマークするもしないも、問題を解く時間に変わりはありません。
そして、試験終了には、僕の記憶では、『選択教科のマーク欄のみ、挙手をすることで書き直すことができた』と思います。さらに、センター試験の案内には『受験番号のマークミスがあった場合、採点できないことがあります』という内容が書かれています。つまり、絶対に0点になるとは書かれていないのです。これは、小学校の、おそらく低学年時に言われた『名前をちゃんと書かないと0点にするぞー』と先生に言われた試験とは、違うものなのです。
最後に、『何となく救済された受験生はサヨナラヒットを打った選手で、細心の注意を払ってケアレス・ミスを為さなかった受験生はサヨナラ負けを食らったチームの選手って感じがどうしてもしてしまいます。』ですが、こういった感覚が理解できません。受験とは、自分のこれまでの努力をどれだけ発揮できるか、が問われます。その受験生がサヨナラ負けを食らったように感じようが感じまいが、どちらにしろ、その人の努力が足りないのだと思います。学力を問う受験だから、学力で負けているのは、サヨナラ負けではなく完全に負けです。僕は高3の時、よく先生から『受験は自分との戦いだ』と言われました。もっと努力し、その努力が発揮できたなら、他の人がどうであれ、合格できるものだと感じています。
長々と失礼いたしました
こういった話になると、どうしても「自己責任」という言葉と結び付いてしまいますね。以前書いたのですが、自己責任という言葉が他者をバッシングする為のエクスキューズになっている風潮にはゲンナリした思いが在ります。自己責任という名の下に、他者を面白おかしくバッシングする・・・これは明らかにおかしな事だと思います。
意見が分かれる所では在りましょうが、”耐震構造偽装マンション”を購入した人達に対して、「一般より安いマンションを購入したんだから、それは自己責任で在って、被害者面をするな!」という声が在りましたが、これも個人的には違うだろうと思うんです。偽装が見抜ける図面&書類を貰っていて購入したという訳ではないだろうし、万が一不備の在る図面&書面を貰っていたとしても、素人がそれを見抜くのは至難の業と言えるでしょう。「個人で然るべきチェックをプロににして貰わなかったからいけないのだ。」と言われてしまえばそれ迄ですが、そこ迄は普通しないでしょうし・・・。
それと比べると、ケアレス・ミスをした受験生の場合は、個人的には自己責任を問われても仕方ないのではという気がします。自分もかなり昔では在りますが、あの極度に緊張する試験会場に身を置いた事が何度か在ります。ですから、ケアレス・ミスをしてしまう受験生が居る事も理解出来るのですが、やはり最低限度のルールを意識的にでは無いにせよ守”れなかった”場合には、守った人間との間に差が生じてしまっても仕方ないのではなかろうかという思いがどうしてもしてしまうんですね。
確かに試験事態は100点満点の内容を収めていた受験生が、ケアレス・ミスによって0点になってしまうのは酷だとは思います。心情的に言えば、小泉今日子さんの歌詞では在りませんけれども、「見逃してくれよー♪」と言いたくなるのは、自分が当事者だったとしたら恐らく叫ぶ事でしょう。
個人的には自己責任という意味合いよりは、ケアレス・ミスを為した当人にとって、早い段階での痛い思いをする事が、結果的には将来の大きなダメージを防ぐ事になるのではないかという思い、そして、これは老若男女を問いませんが、権利の享受ばかりを主張し、義務を負わない人間が増えて来ている今だからこそ、義務(ルールに定まった形でマーキングを行なう。)をしっかり負わせる必要も在るのではないかと考えました。
唯、「給料の対価として担当している仕事のミスと同列に扱うのはどうか。」というのも確かに在りますね・・・。
陰の流行語大賞ともいえるこの言葉にどうしても馴染めません。
小さなミスで一年間の努力と苦労が水泡に帰す、そのような事態を簡単な方法で救済出来るのであれば、推奨はしないまでも受け入れては良いのではないでしょうか。
「社会にでれば・・・」というご意見もわかりますが、仕事上の小さなミスで即解雇になることは滅多にないでしょう。たいての場合は、庇いあうという意味でなく、仲間と助け合いフォローしあって、組織全体の利益を考えるものだと思います。
試験の際はおそらくは試験官が何度も「名前は書きましたか」等、確認してくれるケースが多いと思います。にもかかわらず無記名があるということは、その受験生は極度の緊張状態にあったのではないでしょうか。
「給料の対価として担当している仕事」とのミスとは比較できないかと思います。
人生・社会勉強は学生になてからでも働き出してからでもいくらでもできます。失敗し、恥をかき、目上に叱られることで成長していくものではないでしょうか。
「全員を救済できない可能性、ちゃんと記名した受験生との不公平感」ということもわかりますが、判明した分だけでも救済すること方が得るものが大きいと思います。
そうなんですよね。これが幼稚園児や小学生が対象の話だったら、「年端も行かない子供に、ケアレス・ミスの責任を全部おっ被せてしまうのは酷だろう。救済措置は英断だ。」と思うのですが、大学を受験する年頃と言えばもう充分大人ですからね。これは若い人だけではなく老若男女全てに言えるのですが、「権利だけを必要以上に訴え、そのくせ義務を負わない」人間が余りにも目立つ気がします。受験して、合格点を取れば入学出来る「権利」が在る一方で、ルールを遵守するのは「義務」ではないかと。半端では無い緊張感を伴う試験場で、誰しもポカミスを仕出かしてしまう可能性は否めませんが、とはいえ同じ環境下でしっかりとルールを遵守(注意力を研ぎ澄まして遵守)して
いる人達の方が多数を占めている訳で、やはり救済措置はどうかなあと思ってしまうんです。
syuu様も書かれておられる様に、実社会に出ると学生時代に想像していた以上に、己がケアレス・ミスを救済してくれる可能性は少なかった事に気付かされました。早い内(若い内)にミスをしていれば、それ以降はミスをする可能性が格段に減るのではないか。大きなミスを仕出かす可能性が減じられるのではないか。絶対にミスがゼロになる訳では当然在りませんが、そんな気が自分はします。これは自分の経験を踏まえてですが。
書き込み(トラックバックして戴いた記事も)を拝読させて戴きましたが、心情的には今回の救済措置を「優しい心遣いだなあ。」と好意的に感じはするんですよね。自分も上記しました様におっちょこちょいな性格ですから(笑)、ケアレス・ミスをした受験生をとやかく言える立場では無いし、批判する気も無いですしね。
唯、学生時代に想像していた”以上”に、社会に出るとケアレス・ミスへの救済措置が無いという現実に気付かされ、果たして善意で行なっている救済措置が、長い目で見た場合に当該受験生の注意力を磨く機会を減じさせ、将来的に”より”取り返しの付かない大失敗の芽を生じさせてしまうのではないかと、老婆心ながら思ってしまうんです。
世知辛い世の中だからこそ、こういったニュースは公的に捉えたいのですが・・・。
これからも宜しく御願い致します。
だとしたら、やはり皆公平にダメなものはダメ。の方がいいと思います。だって、これから大学を卒業して、社会に出たら、そんな救済措置なんて滅多にお目にかかれるものじゃないですもの。
「うっかり」の常連としては、気分的に救ってもらいたいと思います。
厳しい社会では、一度「うっかり」ミスをした人間が、救済されずに捨てられるということもあるかもしれません。
センター試験にその厳しさを要求してもいいのかどうか。0点にすれば、志望校へ行くのはほとんど無理でしょう。会社で言えば、馘首です。相手に損害を与えたり、自分の会社に重大な被害を与えれば、そういう厳しい処置も当然でしょう。センター試験の名前の書き忘れと同等に評価していいのかどうか。「うっかりミスをした」ものをすべて厳罰にしていたのでは、多分会社は保たないでしょう。
「学力と関係ない」ということで言えば、「うっかりミス」1回のために重要な人材をつぶしてしまう可能性もあります。学生時代は、社会に出るための準備段階であろうと思います。厳重注意は必要だとしても、厳罰に処すのもどうかと思います。
ここで、0点にすれば、日本から「うっかりミス」がなくなるというのであれば、それも良いのかもしれません。しかし、センター試験という極度の緊張感の中で、名前を書き忘れると点数がつかないということは承知しながらのミスでしょうから、平時のうっかりミスと同等に考えるのも難しいかと思います。
平等性が保てないということに関して、誰しもうっかりミスをするという可能性はあるという意味では、必ずしも平等性を欠いているとは思えません。
「うっかりミス」救済は、「うっかりミス」で何度も許してもらったことのある私の自己弁護的な意見です。
長々と失礼しました。
記事でも最後に書きました様に、私見に対して「非情過ぎる。」という異論&反論が多数を占めるに違いないと期待?していたのですが、今の所は予想外の結果に驚いております。
恐らくこの件は、「自身が受験生乃至は受験生に近い年代だったり、身内に受験生を抱えた方。」と、「そうではない方」とでも大きく意見が分かれるのではないかという気がします。
上記しました様に、自分が前者の場合で在れば、今回のニュースに否定的な気持ちはそれ程湧かなかったかもしれません。否定的乃至は積極的な賛意は示せないという方も、心情的には救済措置を認めたいという思いは皆さん持っておられるのだと思います。しかし、諸々の点を考え合わせると賛成は出来兼ねる・・・そういった複雑な思いが在るのでしょうね。
心情的には救済を認めたいですが、公平性を考えたら救済措置をすべきではないかなと思います。
実際にはまあ在り得ない事とは思いますが、1問の出来如何で合否が分かれ兼ねない大学受験ですので、今回の救済措置報道で「じゃあ、最悪救済して貰えるのならば、受験番号等のマークは後回しにして、問題解きにとっかかろう。最悪、書き漏れ(塗り漏れ)が在ったとしても、救済して貰えるのだし。」という受験生が絶対に出て来ないとは言えないかもしれません。
それに人為的な行為の介在を許せば許す程、其処には予想していなかったミス&混乱が生じるケースは増える事は在っても、減る事は無いと自分も思います。
変な喩えかもしれませんが、同点で迎えた9回裏の攻撃で、2アウト満塁のカウント2-3から、投手が投じた球を見送った所、審判は「ストライク!」のコールで試合は延長戦に突入・・・そう思った瞬間に、当該打者が審判に「いやあ、今のタイミングでタイムを要求し忘れてしまったんで認めて下さいよ。」と要求し、それが通ってしまい、仕切り直しでサヨナラヒットを打ってサヨナラ勝ち。厳しい言い方ですが、何となく救済された受験生はサヨナラヒットを打った選手で、細心の注意を払ってケアレス・ミスを為さなかった受験生はサヨナラ負けを食らったチームの選手って感じがどうしてもしてしまいます。
御三方の書き込み及びトラックバックして戴いた記事(センター試験で救済♪&センター試験の救済2)を拝読させて戴きました。人生の岐路とも言える受験に関わる話故、今回のニュースには様々な思いや御意見が在るのだなあと改めて思い知らされました。
自分も嘗ては共通一次試験を受けた身ですので、あの何とも言えない緊張感は今でも忘れられません。「これで人生の全てが決まってしまうんだ。」(今となってみると、そこ迄決定的なものでは無かったと思っていますが、若かったあの当時は真剣にそう信じていたものです。)と椅子に座っても落ち着かず、胸はずっと高鳴っていました。唯でさえおっちょこちょいな自分ですから、書き漏らし等のケアレス・ミスを為してしまう可能性は充分在り得たと思うし(実際にやっていたかもしれません。)、そういったケアレス・ミスをした人間をどうこう言える資格が在るとも思っていません。
今回のニュースを最初に目にした時、「世知辛い世の中に在って、久し振りにジーンと来る話だなあ。」と好意的に捉えたのは事実です。もし、自分乃至は身内が同じ様なケアレス・ミスを為したとしたら、救済措置が講じられた事に感謝感激するのは想像に難く無いですし(笑)。それに、トラックバック先の記事で、「全ての受験生に”等しく”救済措置が講じられる可能性が在るのだから、今回の措置は不公平では無いと思う。」という御意見が在り、この点も「確かにそうだなあ。」とも思いました。
でも、自分が学生時代には諸手を挙げて賛成出来たで在ろう今回の措置も、社会人生活をそれなりに送って来た今では、100%賛成出来ない自分が居ます。記事でも触れた様に、現実社会に在ってケアレス・ミスに対する救済措置が講じられる可能性が、ゼロでは無いものの極めて少ないという事を嫌という程思い知らされて来たからなんです。それが仮にうっかりミスで在っても、厳然と撥ねられてしまう現実。当ブログを以前より読んで戴いている皆様ならば御承知とは思うのですが、「自己責任という名の下に、他者を面白おかしくバッシングする風潮には憤りを感じている。」自分ですが、とはいえ自らが為したケアレス・ミスに関しては、それが非情と捉えるか否かに拘らず、厳しくその責任が問われる部分も在るのは事実かと。
これが幼稚園や小学校の入試での出来事で在れば、「未だ幼い子供にケアレス・ミスの責任を背負い込ませてしまうのは可哀想。救済措置が講じられるのは致し方無い。」と全面的に思うのですが、こと大学入試の受験者は大人と見做しても良いと思われ(これは当時の自分もそう思っていました。)、受験という重要なイベントだからこそ、通常以上の注意力が求められるのではないかと思うんです。
そして一番自分が思っているのは、振り込め詐欺だ何だと世知辛い事件が多発する御時世だからこそ、従来以上に全ての物事に注意力を払う癖を身に着けた方が良いのではないかと。試験の主催者は勿論善意でやっている事なのですが、無闇に救済措置を講じる事で、注意力を研ぎ澄ます場を失わさせてしまってはいまいか。結果的に社会に出て騙されてしまう可能性を高めてはいまいか。善意の行為が、最終的に当人達に悪い方向に働いてしまう懸念を覚えるんです。
「羹に懲りて膾を吹く」という諺が在りますが、自分も入試では無いのですが、若かりし頃に一寸したケアレス・ミスを仕出かして、大変な目に逢った事が在ります。当時は本当に悲惨の一言でしたが、それ以降は用心深さが増した様に思います。今となってみれば、「若い時点でああいった経験をしていて良かった。もしあの経験が無かったら、甘い認識を持ったまま社会に出て、その結果もっととんでもない目に逢っていたかもしれない。この年になって、そんな経験をする事になれば、立ち直れなかったかも・・・。」と思ったりもします。
心情的には今回の措置に賛成したいものの、当人達の”先”を考えると諸手を挙げて賛成とは言えない・・・そんな複雑な心境というのが本当の所かもしれません。
>mogami様
恐らく今回の措置に反対乃至は積極的には賛成出来ない方々の中には、自分やmogami様の様に嘗て苦い思いをしたものの、尚且つその後の社会経験を経た上で、「当人達の将来を思うと、断腸の思いだけれども諸手を挙げて賛成とは言えない。」という気持ちが少なくないのではないでしょうか。
最近の学校では差別を生むからとして、運動会のかけっこで順位付けを撤廃したりという類の話を良く耳にしますが、社会に出れば嫌が上でも何等かの順位付けは在る訳で、過度に現実とは乖離した社会、即ち”無菌室”で育てる様な方向性はどうかと自分は思っています。
今回の措置も心情的には賛意を持てない訳では無いのですが、現実社会を考えると、ましてや当該者がもう大人と解しても良い年頃なので、厳然とした対応が採られる事は致し方無い様に感じますし、それが結果的には当人達への愛情でも在る様に思います。
>おりがみ様
自分も含めて好い加減な親が増えて来ている世の中ですから^^;、余計にそういった予備軍を生み出さない為にも厳しい措置が在っても良いのではないかなあという気がします。
唯、上でも書きました様に、幼稚園児や小学生に対して、自己責任を負わしてしまうのは可哀想ですし、おりがみ様達がきちんと対応(救済)されているのは自分も微笑ましく思います^^。
>げどー様
仰る様に「他者に迷惑をかけている訳では無い。」というのは在りますね。その点も、今回の措置を考える上で判断を悩ましくさせている所では在るかもしれません。
今回の措置を初めて知って、嘗てケアレス・ミスをした覚えが在るのに大学に合格した経験を持っている人にとっては、「そうだったのか・・・。」と思ったかもしれませんし、その温かい心遣いに胸を打たれて、優しい気持ちになれるかもしれません。それはそれで良い事だなあとは思うのですが、上記した様に当人達の”先”を考えると、厳しい措置が採られる事も或る意味愛情で在る様にも感じられるんです。これは、自分自身の過去の失敗を踏まえてもいるのですが。
諸手を挙げて賛成はし難い。でも、こういったニュースを見聞すると、人の温かさを再認識してジーンとしてしまう自分も居る。難しいです^^;。
で、主題のセンター試験に関してですが、個人的には「救済で仕方ないかな」と思います。確かに「甘い」という意見もあるかと思いますが、なにしろセンター試験が万が一0点だと、その年の受験すべてが終わってしまう。判別できて救済できるものはしてあげても良いかなと思います。
あと、ここで救済したからといって特に誰かに大きな迷惑をかけるわけでもないですし。受験のときに電車を間違えて電車を止めてもらったとかだと他の乗客に迷惑をかけるわけですが、この場合はそういうこともないし。
これは、確認をスルーした保育士のドジでもあるのですが、書いてない親御さんに限って「うちの子の~がないんですけど」とか言ってきたり・・
まぁどっちにしろ保育士はお詫びして探し回るコトになります。(⊃Д`)゜。・゜
そういう事をこの記事から連想しちゃったのです。
パンツやシャツに名前が書いてなくても保育士はなんとか対応してあげられます。それが仕事ですから。
コトがテストとなるとそういうわけには行かないでしょうね。
なんかピンボケなコメントでスイマセン。
センター試験とは重要度が比較にならないものの、
テストでは「名前をかかない」「指示どおりに記述していない」ものは基本的に0点にしています。
もちろん、その点を十分に理解させて、の上ですが。
おっしゃるように、社会に出ると救済措置があることの方が少なく、
私も同様に厳しい措置をとられ、当時は納得できない思いもありましたが、
今思えば、特例を許したら全て許さざるを得ないことにもなりかねず、仕方のないことだと思っています。
私が学生を指導する上で、最も重視しているのは、
「落とし前と決着を自分でつけさせる」ということです。
「誰か何かしてくれる」という姿勢がアリアリなのが若者の特徴(私もそうでした)なので、
「自分の尻は自分で拭く」ということをしっかり植え付けることは、大人になって自立した日々が送れると確信しているからです。
ですから、ここは頑固に対処すべきなので、
繰り返し十分に試験前、試験後に説明と確認がなされた前提であれば、
今回のような救済は必要ないと思います。