気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

宇治巡礼14 白川金色院跡

2023年02月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院から宇治川沿いに上流へ県道3号線を約600メートルほど進み、「院ノ御所山」と伝承される槇ノ尾山を右に過ぎて次の信号で右折すると、白川谷と呼ばれる南北に細長い小盆地に至ります。その地域のほぼ中央に、白川金色院と呼ばれる寺院の遺跡があります。

 白川金色院は、平安時代後期の康和四年(1102)に藤原頼通の娘の四条宮藤原寛子(ふじわらのかんし)によって平等院の奥ノ院として創建されたといいます。これは、室町時代の長禄四年(1460)に白川金色院が焼失してすぐに再建された際の、寛正四年(1463)の「白川別所金色院勧進状」に述べられた内容であり、文献史料のうえではこれが白川金色院の由来に関する最初の記述として知られます。

 現地にはかつての惣門であった立派な門と、寺の鎮守であった白山神社とが残ります。惣門をくぐって宅地の間をまっすぐ進むと、最初の辻に遺跡の案内板と上図の遺跡標石があります。

 

 遺跡標石の辻で右に折れ、次の分岐で左の緩やかな下り坂に入ってゆくと、白山神社の境内地になりますが、その左側の窪地が上図のように見えてきて、かつての白川金色院の園池跡と伝わっています。車やバイクで来た場合は白山神社の境内地が終点となるので、園池跡横のスペースに停めて遺跡地を歩いて回ることになります。

 就職して間もない頃に初めて車を買い、当時住んでいた奈良市から各地へ史跡探訪目的のドライブを楽しんでいた時期に、琵琶湖方面へ行く時は宇治田原から太陽が丘の東麓の林道を経て白川谷を抜け、宇治谷から奈良街道に出て山科へ回るコースをとりましたが、その途中で必ずこの白川金色院跡に立ち寄って一休みしていました。

 なので、この白川金色院跡とは、もう30年余りの付き合いになります。初めて行ったのが平成2年の秋でしたから、まだ発掘調査が行われる前でした。発掘調査は平成5年から始まってほぼ10年にわたって続けられ、平成14年まで10次に及んで多くの知見が得られ、それまで幻に過ぎなかった藤原摂関家の壮大な寺院の様相が明らかになっています。

 

 私が大学生の頃にこの白川金色院跡について知ったのは、ゼミの恩師であった井上正先生に「奥州平泉の無量光院跡は宇治の平等院鳳凰堂の模倣だった、そして今も残る中尊寺金色堂は、宇治の白川金色院の模倣だね」と教えられたのが最初でした。

 中尊寺の金色堂と言えば、藤原時代盛期の仏教文化を代表する遺構で、金箔と宝飾に包まれた豪華な設えと仏像の荘厳さで知られて国宝に指定されています。そのモデルとなったのが宇治白川の金色院の本堂であった、というのですから、大いに興味を掻き立てられました。寺が明治の廃仏毀釈で廃されて建物は全て失われた、と知っても、その跡地に一度は行きたい、と思い続けました。就職後に買ったばかりの車で勇んで白川谷へと繰り出して、遺跡に初めて立った時の感動と深い感慨は、いまもなお胸に鮮やかです。

 その頃に見た遺跡の風景は、ほぼそのまま現在も変わりません。10年10次にわたった発掘調査が完了した後、遺跡群は地中に埋め戻されて保存され、発掘調査区域の地面も原状に復されたからです。上図は白川金色院の坊院であった福泉坊の跡で、奥の建物の右側が中之坊跡や蔵之坊跡にあたります。上図の左側へさらに歩くと、平成9年の第5次発掘調査によって遺構が確認された、白川金色院の本堂たる文殊堂の跡地に至ります。

 

 本堂であった文殊堂跡から東側の山裾に行くと、上図の九重石塔や五輪塔群が林間に静まっています。九重石塔はいまでは四条宮藤原寛子の供養塔と言われていますが、実年代は鎌倉時代後期から室町時代にかけてのものなので、実際には中世期に寺の中心塔婆として建てられたもののようです。もとはすぐ北側の高台の上に建っていたのを現在地に下ろしたといいます。
 一度その高台の上に登ったことがありますが、頂上に平坦面が残っていて、そこに建っていたのならば、周囲からよく見えただろうと思います。

 並ぶ五輪塔も中世期以降の遺品で、寺の関係者の墓塔および供養塔として寺内各所の坊院に散在していたものを、明治期の寺の廃絶後にここに集めたもののようです。

 

 白川金色院は明治の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、その際に分離された鎮守の白山神社がいまも現地に鎮座しています。私の何十回にもわたる白川金色院跡行きというのも、実態としてはこの白山神社参拝でありました。

 一度、兼務の神主さんに現地でお会いした事があり、その際に白山神社はもとはここではなく、槇ノ尾の「院ノ御所山」に鎮座していたと伝えられる、と伺いました。槇ノ尾の「院ノ御所山」は白川谷の北側の境界点にあたり、もとは四条宮藤原寛子の別荘跡であったと言い伝えられますが、そこが白山神社の元位置なのであれば、おおもとは藤原寛子自身が祀った神祇祠であった可能性が考えられます。

 その槇ノ尾の「院ノ御所山」は、いまでも宇治行きの際には時々横を通りますので、機会があれば登って遺跡面を確かめてみたいと思っています。

 

 白山神社は高台にあるので、鳥居からの石段も御覧の通り長いです。社伝によれば、白川金色院の鎮守社として久安二年(1146)に加賀の白山神を勧請したのが始まりといいます。

 久安二年(1146)当時、白川金色院の開基である四条宮藤原寛子は既に没しており、その後に摂関家を継いだ藤原忠実(ふじわらのただざね)の活躍期になっていましたから、おそらくは藤原忠実あたりが、大伯母にあたる藤原寛子への供養の意味で白山神社の勧請に関わったものかと思われます。あるいは藤原寛子の別荘跡「院ノ御所山」にあったという白山神社を現在地に移したのが実態であったかもしれません。

 

 白山神社の拝殿と本殿(上図左端奥)です。拝殿は鎌倉時代の建治三年(1277)の建立で、珍しい茅葺の住宅様式を示して国の重要文化財に指定されています。一説では、拝殿はかつての宇治離宮つまり現在の宇治神社の建物であったかとされていますが、確証はありません。

 それよりも、この白山神社の拝殿が、神社の拝殿には珍しい「一間四面堂」と呼ばれる仏堂の形式に準じて建てられているのが、個人的には大変に興味深いです。御覧のように四面が障子戸で区画されて、藤原時代の各地の荘園に在ったという仏堂の一形式である「惣堂」の姿を思わせます。
 藤原時代仏教美術史専攻の身としては、こうした建築遺構に触れることで、当時の仏堂建築のイメージがなかなかにリアルに感じられるため、こうした建物は見ているだけで楽しくなります。それで、この建物を昔からずうっと気に入っております。

 若い頃は、京都および琵琶湖方面へのドライブの途中に立ち寄って、この場所まで登って拝殿の縁側で一休みしたり、弁当を食べてまったりと過ごし、白川金色院の往時を偲んでいたりしたものです。

 

 かつて白川金色院の本堂として豪華絢爛さを誇ったと伝わる文殊堂も、発掘調査によって南に外陣が付く「一間四面堂」の形式であったことが判明しており、よく似た平面構成の現存建築として同じ藤原時代の兵庫・鶴林寺太子堂(国宝)が挙げられています。文殊堂跡からは瓦が全く出土せず、その屋根は檜皮葺であったと推定されていますが、鶴林寺太子堂も檜皮葺で共通しています。

 そして、現地においてはこの白山神社拝殿が、平面的にも規模的にもよく似ています。おそらくは、文殊堂の形式に倣って建てたのではないかな、と個人的には思っています。
 藤原時代に限らず、江戸時代までの社寺は神仏混交の形態を維持して仏堂と社殿が似たような建物であった事例は多かったのですから、ここ白川金色院においても、江戸時代まで残っていたらしい本堂の文殊堂と鎮守白山神社の拝殿がよく似た「一間四面堂」タイプであるのも、偶然の一致では無いと思います。おそらく、外観もよく似ていたのかもしれません。

 現存していれば、平等院の奥ノ院として観光の名所になっていた筈の白川金色院です。奥州平泉の中尊寺金色堂のモデルとなったという金色の本堂文殊堂、それを取り巻く多数の堂塔坊舎および庭園の姿を、出来たら見てみたいなあ、と思います。どなたか、タイムマシンを発明してくれないでしょうか。

 

 白川金色院の地図です。平安京の時代には各地に多数が建立された藤原氏関連の寺院も殆どは遺跡すら残っていない現在にあって、京都府下でも数えるほどしか確認されていない、藤原摂関家ゆかりの寺院遺跡です。

 2024年度の大河ドラマ「光る君へ」の主人公紫式部関連の観光スポットとして平等院鳳凰堂が注目されることになると思いますが、平等院の奥ノ院として華やかさを誇ったという白川金色院の遺跡も、あわせて知名度を上げるのでしょうか。

 

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(車輌目次表紙)BC自由学園 ルノーR35軽戦車(リボンの武者版)

2023年02月12日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  グンゼ産業 (商品コードG762)

  制作期間   2022年2月17日~21日、3月11日

  製作記事   作りました 完成しました

  総評・備考
 ルノー R35は、フランスが第二次大戦前に開発し運用した軽戦車である。ガルパンではアニメの最終章第1話にマジノ女学院チームの所属車として登場し、コミックでも「激闘!マジノ戦ですっ!!」にて同チームの主戦力として活躍する。ほかに「リボンの武者」にてBC自由学園チームや愛媛ケバブハイスクールチームの車輌として登場するなど、複数のチームで使用されてガルパンのフランス戦車の代名詞的存在になっている。
 適応キットはエレールおよびそのOEM販売のグンゼ産業の製品が従来は知られていたが、最近はタミヤの新製品(下のキット一覧の4)が知名度を上げつつある。いずれも形状はほぼ同じで、劇中車および作中車の再現はストレート組みで充分に楽しめる。またホビーボス製品(下のキット一覧の3)は、軽戦車クラスではまだ珍しいフルインテリアキットでエンジンも再現されている。なおエレールおよびそのOEM販売のグンゼ産業の製品は、主砲の21口径37mmピュトーSA18を長砲身の37mmSA38に換装したタイプも作れるため、コミック「激闘!マジノ戦ですっ!!」に出るR35武装強化型も再現可能である。

  公式および適応キット一覧(2023年1月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャン△の聖地を行く27 その1  赤坂台ドラゴンパークへ

2023年02月11日 | ゆるキャン△

 2022年10月22日、秋の山梨ゆるキャン聖地巡礼の三日目の朝、宿の「東横イン甲府駅南口2」を8時45分に出発しました。この日もタイムズさんのレンタカーを利用するので、宿から徒歩5分未満の至近にあるタイムズレンタカー甲府駅前店に向かいました。

 

 宿の前から北には甲府駅南口のロータリーが見えます。私の山梨県ゆるキャン聖地巡礼は、甲府を宿泊地として各地へ公共交通機関またはレンタカーにて行くケースが殆どですので、宿は甲府駅付近にとることが多いです。

 8時55分にタイムズレンタカー甲府駅前店が開いたので手続きをして、8時57分に出発しました。
 この日は、秋の山梨ゆるキャン聖地巡礼の仕上げとして、原作コミック第13巻に描かれる各務原姉妹の花見ドライブコースの未訪部分を回り、これに周辺の聖地スポットなどを追加で巡る行程にして、昼過ぎまでの半日程度をあててゆく予定でした。巡礼スポットの大部分が韮崎市域に含まれるため、これからのレポートは韮崎編として綴ります。

 

 この日利用したタイムズさんのレンタカーは、マツダ2でした。以前はデミオと呼ばれていたグレードのマイナーチェンジ版であるそうですが、大き目の車体の割にはキビキビとした走りを見せ、20代の頃に運転していたファミリアの動きを思い出させて懐かしい気分にもなりました。

 

 9時26分、最初の聖地スポットである赤坂台総合公園の駐車場に着きました。甲府盆地を眼下に望む高台に位置し、上図に見える高さ33メートルの展望塔が目印です。甲府市街から国道52号線をたどるだけで簡単に行けますが、高台にあるのでかなり長い間、登り坂を走ります。国道52号線の赤坂台総合公園入口信号交差点で右折して次の交差点が、赤坂台総合公園の北西隅にあたります。その北側に、私が停めた上図の駐車場があります。

 

 赤坂台総合公園の北西の出入口です。地元ではドラゴンパークと呼ばれて親しまれています。原作コミック第13巻62ページから64ページまでの、各務原姉妹の花見ドライブ中の昼食休憩場所がここにあたります。

 

 公園の北西隅に建つ展望塔は、公園のランドマークとなっています。原作コミック第13巻63ページのアングルで撮りましたが、各務原姉妹が昼食のサンドイッチを食べて花見も楽しんでいた場所はこの範囲とは違う場所のようでした。現地の案内マップを見ると公園の南に「ピクニック広場」があるので、その辺かなあ、と思ってそちらに向かいました。

 

 思ったよりも広い公園です。上図はメインの「芝生広場」で野球、サッカー、陸上競技など、たいていのスポーツのグラウンドに使用出来る多目的ゾーンであるそうです。
 南の「ピクニック広場」へ行きましたが、作中で描写される景色が全く見当たらないため、あれ違うのかな、南側ではないな、と考えつつ、園地の芝生の上を今度は東側へ移動してみました。

 

 すると芝生広場の東端あたりに、上の奇妙な石のオブジェというか、曲がりくねった列石がありました。最初に見た途端、なんだこれは、と首をかしげましたが、回り込んで上図のアングルで見た時に、既視感を覚えました。
 あっ、これだったのか、原作コミック第13巻62ページ3コマ目にて各務原姉妹の左奥に描かれる妙な物体はコレだったのか、と思い至りました。それで各務原姉妹の昼食休憩の場所も絞り込めました。

 

 さらによく見ると、水面を進む龍のような形に見えました。そうか、これはドラゴンの石製オブジェなのか、と思い、ここがドラゴンパークと呼ばれるのも、このドラゴンのオブジェがシンボルになっているからか、と悟りました。

 この石のドラゴンがある場所は、公園駐車場からは最も離れた所ですが、上図のように公園の周縁帯に並ぶ桜並木を三方に一望出来る絶好のポイントです。だから各務原姉妹がここで花見昼食を楽しんだわけか、と楽しく納得出来ました。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その2

2023年02月10日 | ガルパン模型制作記

 ズベズダのT-60の製作にとりかかりました。組み立てガイドの図のステップ1から3まで進めました。

 

 ステップ1では車体を組み立てます。底面のパーツに左右の側面パーツを貼り合わせます。

 

 貼り合わせると車体の輪郭が一気に立ち上がってきて、だいたいの外観がイメージ出来ました。以前に作ったT-70に良く似ている気がしました。それもそのはず、T-60の武装と装甲を改良強化したのがT-70で、車体形状はあまり変わっていません。

 

 上部転輪のパーツは、ここでは取り付けずに保留にしました。

 

 ステップ2に進みました。車体の上面部分を組み立てます。パーツがどれも大雑把な造形にみえてしまい、これらの組み立ての結果がどのような出来になるのかが、ちょっと予想出来ず、一抹の不安を感じてしまいました。

 

 特に不安を覚えたのは、上図の操縦手の視察窓ハッチの部分でした。御覧の通り、車体と一体成型になっていてヒンジ等のモールドもありました。にもかかわらず、ハッチのパーツが別にあって取り付け指示があるのでした。

 

 そこで、元のモールドを全て削り取って、御覧のように綺麗にヤスリがけ処理を行ないました。

 

 それからハッチのパーツA8を取り付けました。

 

 次に迷ったのが排気管のB12の取り付けでした。上図のように排気口を真後ろに向けてセットしましたが、これは間違いで、正しくは左側へ斜めに付くのでした。ガイド図では分かりにくい箇所でした。

 

 ステップ3に移りました。車輪類などを組み立てます。パーツはどれも大雑把な造りで、かつての東欧メーカー製品の精度はこんな感じだったのか、と改めて感じました。

 

 転輪も組み立てましたが、パーツの造形は御覧の通りでした。俗に「香ばしい」とも形容される、昔の東欧プラモデル製品の大らかな出来具合が大変によく分かりました。これに続けて作るキットが、細部の精巧さやモールドの精密さで定評のあるミニアートの製品ですから、同じT-60でも全然違う出来になるんじゃないかな、と不安をより感じずにはいられませんでした。  (続く)

 

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宇治巡礼13 恵心院

2023年02月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治橋の上流、宇治神社の南隣に、恵心院(えしんいん)という真言宗智山派の寺院があります。境内地が朝日山の西麓にあるため、山号を朝日山とします。地元では「花の寺」として知られていますが、歴史的には宇治でもかなり早い頃に成立した寺であるようです。

 伝承によれば、空海によって開かれたといい、唐の青龍寺に似ていたため、龍泉寺と名付けられたそうです。寺伝によれば、平安時代の寛弘二年(1005)に恵心僧都源信により再興されたといい、恵心院の名もそれに因むもののようです。中世戦国期に兵火に掛かって衰退し、廃絶しています。

 

 なので、現在の寺観はそれ以降の江戸時代の再興によって整えられています。明治までは黄檗山萬福寺の総門と同じような黄檗洋式の立派な表門が存在したのですが、大破して取り壊され、それ以降は上図の薬医門が山門として機能しています。

 この門は、天正十七年(1589)に再興寄進として、豊臣秀吉及び徳川家康から合わせて30石を賜って建てたものであり、平成四年に解体修理が行われて柱以外は新材に交換されましたので、新しい時期の建物に見えます。現在は北向きに建ちますが、江戸期の承応元年(1652)の付箋がある境内図をみますと、天正十七年の竣工時には西向きに建っていたことが分かります。
 その後、延宝四年(1676)に現在の本堂が建てられた際に伽藍のレイアウトを改めた形跡がうかがえるので、その際にこの門も向きを変えたのかもしれません。

 

 延宝四年(1676)に建てられた現在の本堂の正面部分です。外観全体を撮りたかったのですが、周囲に樹木が茂って建物が見渡せる状況ではありませんでした。

 この本堂は、須弥壇室と護摩壇室とが左右非対称で建てられた和様仏堂で、内部空間にかなりの改造が加えられていますが、江戸期仏堂の典型的な一例として価値があり、京都府の有形文化財に指定されています。建物は、江戸期に宇治代官職を任された上林家の一門衆によって造営され、大工は黄檗山萬福寺伽藍の建設に携わって代々が萬福寺大工を世襲した、五ヶ荘の秋篠兵庫藤原吉兼が担当したことが棟札裏面の記載によって知られます。

 恵心院は、江戸時代の初期において上林家を通じて江戸幕府との関係があり、徳川将軍家や上林家より度々祈祷を依頼されていたことが寺伝や古文書類によって知られます。
 さらに恵心院文書には、春日局(徳川家光の乳母)の書状写や、松平大河内隆綱(老中松平伊豆守信綱の義弟)の書状、天英院近衛熙子(このえひろこ・徳川家宣の正室)からの下賜品記録状などが含まれ、徳川将軍家および幕閣との繋がりが深かったことが分かりますが、その関係性がいかなる事情によって生まれてきたのかについては、あまりよく分かっていないようです。

 

 なので、恵心僧都源信の頃の恵心院のイメージというものも、あまり実感出来ません。ただ、現在も寺の本尊として祀られる十一面観音立像は十世紀後半頃の作風を示し、源信の活躍時期とも一致しますので、寛弘二年(1005)に源信が寺を再興した際の造立である可能性が考えられます。

 さらに恵心院の境内からは、御覧のように宇治川をはさんで西に平等院の境内地が望まれ、鳳凰堂の屋根も見えます。平安時代の宇治において、恵心院は源信中興の天台浄土道場として重きを成していた筈なので、同じ天台浄土教の寺院として藤原摂関家が発願建立した平等院が、恵心院と向かい合う場所に寺地を定めたのも、偶然の結果ではないと思われます。

 なにしろ、平等院の開基である藤原頼通自身が天台浄土教の熱心な信者であり、源信の信奉者でもありました。そして藤原頼通に任されて鳳凰堂に建築と仏像の双方によって西方極楽浄土の理想像を現出せしめた仏師の定朝は、若き修行僧の頃に比叡山延暦寺にて源信が主催した「霊山院毎日作法」という儀式の供養当番を務めた一人でした。

 なので、平等院が恵心院との関連性によって創建されたのは間違いないだろう、という説を私は昔から何度も繰り返しているのですが、職場でも研究者仲間うちでも「それは思い込みだろう」と一笑に付されたまま、現在に至っております。

 

 恵心院の地図です。いまでは江戸期創建同然の寺とみなされ、それ以前の歴史像が見えにくくなってしまっている恵心院ですが、位置といい、源信が中興した時期の本尊仏像を伝えていることといい、平安期には平等院と同等かそれ以上に重要な寺院であった可能性があります。その可能性に夢を馳せてみるのも一興でしょう。

 

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(車輌目次表紙)BC自由学園 オチキスH39軽戦車(フェイズエリカのこぼれ話版)

2023年02月08日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  グンゼ産業 (商品コードG761)

  制作期間   2022年2月13日~17日、3月8日

  製作記事   その1 その2 その3 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンのコミック「フェイズエリカのこぼれ話」にてBC自由学園チームのムールの搭乗車として登場するオチキスH39軽戦車は、史実での公式名称はオチキスH35である。そのエンジンを新型に換装し、武装をもとの短砲身37ミリ砲SA18から長砲身35口径37ミリ砲SA38に強化した型を便宜上「H39」と呼んだが、そのタイプが作中車に該当する。
 適応キットはエレール、およびそのOEM販売を行なったグンゼ産業の製品がよく知られるが、それらは既に廃番となって中古市場でしか入手出来ないため、下のキット一覧にはそれ以降に販売された製品を並べた。H38/H39のコンバーチブルキット、ドイツ軍が接収してロケットランチャー「ヴルフラーメン40」を装着した状態のキット、の2種類に大別されるが、いずれも必要な部品のみでH39の標準型に仕上げることで、作中車を再現出来る。

  公式および適応キット一覧(2023年1月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く26 その9  エコパ伊奈ヶ湖から桃花橋へ

2023年02月07日 | ゆるキャン△

 エコパ伊奈ヶ湖の続きです。森林科学館を見てから、南にある総合受付グリーンロッジへ向かいました。上図の駐車場の奥にある大きな三角屋根の建物です。

 

 コミック第13.5巻6ページ4コマ目に、そのままのアングルで描かれます。森林科学館を管理棟と間違えた志摩リンが、あっちだったか、と気付いてそちらへ向かうシーンです。

 

 エコパ伊奈ヶ湖の管理棟にあたる、総合受付グリーンロッジの外観です。今回はキャンプで来たわけではなく、単なる見学で来ましたから受付での手続きは不要でしたが、受付に行ったら案内資料とか園地マップとか貰えそうだな、と気付いて志摩リンモードで近づきました。

 

 コミック第13.5巻7ページ1コマ目に、そのままのアングルで描かれますが、施設前の立標や入口上の看板の施設名は変えてあります。
 受付に行き、案内資料と園地マップをいただきながら、キャンプ場の概要を問い合せて教えて貰いました。それによれば、キャンプ場エリアは当然ながらキャンプ利用客以外は入れませんが、それ以外の園地内は散策路や展望所もあって自由に入れる、ということです。

 既にゆるキャンにて描写されていることは向こうも知っていて、コミック第13.5巻も窓口の横に飾ってありました。それで、作中に描かれる景色や場所についても、園地マップにてそれぞれの位置を教えて貰いました。全部回ると急ぎ足でも30分はかかりますよ、と言われました。もう時間が無かったため、志摩リンが行った展望所へ行くのは次の機会に回しました。

 

 次第に暗くなってゆく空に追われるようにして15時35分にエコパ伊奈ヶ湖を出発、もときた九十九折の林道を一気に降りて県道108号線を東へ下り、途中で110号線へ左折し、そのまましばらく北進しました。110号線が東にカーブした地点で12号線に左折して北進を続けると、曲輪田新田の信号交差点に出ました。そこで左折して西へ進むと、やがてこの日の巡礼ルートの最終目的地、桃花橋ループ橋梁が見えてきました。

 道なりに進んで右に入り、そこからさらに右折して、上図の桃花橋公園への道に入りました。桃花橋公園は、桃花橋ループ橋梁の下にある公園です。原作コミック第13巻55ページにて志摩リンが訪れた桜の名所の一つです。

 

 桃花橋公園の駐車場に車を停めて時計を見ると16時7分でした。画像はデジカメの特性によって明るく見えますが、実際には薄暗い黄昏時でした。何とか間に合ったな、と思いつつ、公園内を一通り回りました。

 

 頭上に桃花橋の大きなループ橋梁がぐるりと回っていました。平成10年に竣工したもので、正式名称は「白根ループ橋」です。このループ橋の道路は農道にあたり、富士川西部広域農道(ウェスタンライン)の関連事業農道に分類されています。「田園居住空間整備事業白根地区集落道1号」が正式名だそうです。

 

 公園の高所に東屋があり、駐車場から散策路が通じています。原作コミック第13巻55ページ5コマ目にて志摩リンが登っていったのもその散策路でしょう。同じアングルからの景色を撮りましたが、もう少し地面に寄せて低い位置から撮れば作中の図になったと思います。
 公園内の枯木は殆どが桜でした。開花期には花見客で賑わうことでしょう。

 

 志摩リンは桜を見て撮った後にループ橋を渡って富士川西部広域農道(ウェスタンライン)を走ってゆきましたが、私はもと来た方向へ引き返し、上図の富士の高嶺の薄影を右手方向に眺めつつ、甲府盆地へ東進して甲府市街へ向かいました。
 桃花橋公園を16時17分に出て、甲府駅南口のタイムズさんに着いてレンタカーを返却したのは17時ちょうどでした。それから甲府駅ビル内のレストランで夕食をとり、宿には18時25分に入りました。この日の午後いっぱいをあてた富士川街道・西郡路ルートの聖地巡礼も、かくして無事に完了しました。

 よって、これにてレポートの富士川街道・西郡路編を完結とし、翌日からの経路は項を改めて綴ります。  (了)  

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その1

2023年02月06日 | ガルパン模型制作記

 ガルパンコミックの「リボンの武者」には、アニメ本編には登場しない数多くの軽戦車が登場します。殆どが第二次大戦中に活躍した各国の陸軍の車輌です。
 ガルパンの戦車や車輌をプラモデルで再現する場合、この「リボンの武者」の登場車輌群がアニメ本編の登場車輌群よりも車種が多いので、制作の幅もそれだけ広がって色々と楽しめます。「リボンの武者」自体は既に連載を完了して全16巻にて完結しましたが、私自身の「リボンの武者」の車輌群の製作はまだまだ続きます。

 

 今回はプラウダ高校選抜のカチューシャ義勇軍が使用していたT-60軽戦車を作ってみようと思います。御覧のように、強襲戦車競技大会の第七試合にてアンツィオ高校チームと対戦した際に、カチューシャ義勇軍側の用心棒として参戦した大洗女子学園カバさんチームのエルヴィンと左衛門佐が搭乗したのが、T-60軽戦車の初登場シーンでした。

 

 カチューシャ義勇軍は、ヤイカ率いるボンプル高校チームとの対戦試合ではT-70軽戦車を使用していましたが、強襲戦車競技大会においては前の型であるT-60軽戦車を使用しています。なぜT-70からT-60に変更したのかは、作中では語られていません。

 

 T-60軽戦車は生産時期により前期型と後期型に分かれますが、作中車は転輪がディスク型であるので、T-60Aの1942年型がモデルであろうと思われます。

 

 T-60Aの1942年型の適応キットは、いまではミニアートやホビーボスの製品が知られて販売されていますが、それ以前にはズベズダからも出ていました。上図がその製品で、半年ぐらい前に中古ショップでたまたま見かけて買っておいたものです。その後、ミニアートの製品も入手しましたので、T-70軽戦車の時と同じように、異なるメーカーの品が1つずつ手元に揃いました。
 そこで今回も、T-70軽戦車の時と同じように、異なる2つのキットでなるべく同じような仕上がりを目指してみることにしました。

 

 製作はズベズダのキットからとりかかりました。御覧のようにパーツ割りが大まかでパーツ数も少なく、組み立ても1、2時間ぐらいで終わってしまいそうな、楽なキットに見えたからです。実際には全然楽ではありませんでしたが・・・。

 

 ロシア語表記の説明および組み立てガイドは一枚の紙を三つ折りにして表は3ページに分けてありましたが・・・。

 

 裏面の組み立てガイド図はステップ1から9までを一枚の内に並べてありました。ざっと見渡しても、難しそうな箇所が見当たらず、最低限の数のパーツを組み付けたら完成、というようなシンプルなイメージしか湧きませんでした。そのシンプルさが、実は曲者であったことに気が付いたのは、組み立てを始めてすぐのことでした。  (続く)

 

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宇治巡礼12 興聖寺

2023年02月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治の平等院と宇治川を隔てて向かい合う位置の高所に、興聖寺があります。山号の仏徳山(ぶっとくさん)は伽藍の東に聳える大吉山の別名が仏徳山であるのに因みます。曹洞宗を開いた道元が曹洞禅の道場として深草に最初に設けた興聖宝林寺が4代を経て廃絶したのを、400年を経た江戸時代の慶安元年(1648)に淀藩主の永井尚政(ながいなおまさ)が道元の再来を思わす曹洞禅識僧の万安英種(ばんあんえいしゅ)を招聘して再興し興聖寺と号し、現在に至ります。

 上図は寺号標と慶安年間(1648~1651)建立の表門です。石材を組んで建てられているので石門とも呼ばれます。

 

 総門より、伽藍の正門に相当する山門まで、上図の緩やかな登り道の参道が続きます。琴坂と呼ばれています。左右の木々は桜、山吹、姫ツツジ等が見られて花の名所でありますが、それ以上に秋の紅葉が素晴らしく、宇治を代表する紅葉の名所として知られます。

 琴坂の名は、参道脇を流れるせせらぎの音を琴の音色になぞらえてのものであるそうです。

 

 伽藍の正門に相当する山門です。竜宮造の門で、天保十五年(1844)に改築されたものです。宇治市の有形文化財に指定されています。竜宮造は中国式の門で、日本では禅宗各派の寺院に多く用いられています。

 

 山門から中に進んで中雀門と呼ばれる薬医門をくぐると、正面に上図の法堂が見えます。興聖寺の本堂にあたります。右手前には石塔の相輪部分が見えますが、これは宇治川の塔の島に建つ十三重石塔の九重目のもとの笠石と相輪です。現在の塔の島十三重石塔の九重目の笠石と相輪は、明治期の再建に際して新たに復元製作されたものです。

 

 鐘楼(宇治市指定有形文化財)は慶安四年(1651)の建立で、これに懸かる梵鐘(宇治市指定有形文化財)も同年の鋳造になります。淀藩主永井尚政の再興事業に関連する遺構であり、江戸期より「興聖寺の晩鐘」として「宇治十二景」と「宇治十境」の一つに数えられています。

 

 本堂の法堂(はっとう)(宇治市指定有形文化財)は一見すると大型の御殿か書院造のような姿で、寺院の本堂らしくない雄大な外観を示します。

 

 それもそのはず、上図右端の木札の説明文にあるように、かつての伏見桃山城より移築されたものと伝わります。慶安元年(1648)の移築の際に寺院本堂として使用するべく改築されたといいますが、主に母屋の内部空間を寺院堂宇の内陣、外陣の構成に変えたのでしょう。

 

 なので、外回りの廊下や障子戸などに、以前の建物の面影がしのばれます。その建物がかつての伏見城の書院であったと伝わりますが、その内外にて慶長五年(1600)の伏見城の戦いと呼ばれる合戦が行われ、徳川家家臣にして城代を預かる鳥居元忠以下は西軍諸将の連合軍に攻め寄せられ、籠城戦に持ち込むも果たせず、落城して討死、800人余りが運命を共にしたとされています。

 ですが、伏見桃山城はその合戦で炎上して残余の建物は無かったことが石田三成の書状等から知られるため、この建物が本当に伏見城からの移築であれば、伏見城の戦いの後の慶長七年(1602)より藤堂高虎が徳川家康の命で再建にあたった建物のほうである可能性が高いと思います。

 その再建伏見城は元和五年(1619)に廃城が決まりましたが、元和九年(1623)の徳川家光の将軍宣下の際に「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」とあって、一度は再利用していますから、完全に廃城となったのはその後のことでしょう。その頃に残存していた建物を、淀藩主の永井尚政が貰い受けて慶安元年(1648)の興聖寺再興にて本堂に転用した、という流れでしょうか。

 

 その法堂の正面廊下の天井は、伏見城の戦いの際に敗れた東軍の鳥居元忠率いる守備兵が自害した際の血が付いたままの床板を供養のために天井板として使っているということで、血天井と呼ばれています。各所に白墨で血の場所が示されていますが、いまだに赤っぽく見えているので、本当に血であるのかは不明です。

 そもそも、各地に伝わる血天井に関しては、史料および考古学的に正しく裏付けられたものが全く存在しないことが分かっており、実際に血液鑑定を行って確認したというケースも皆無です。戦没者供養のために意図的に作られた手形や足形であった可能性も否定出来ません。

 京都では、伏見城から移した血天井と伝わるものが興聖寺以外に4ヶ所知られています。宝泉寺、養源院、正伝寺、源光庵です。これらの寺になぜ血天井が移されたのかが科学的に解明されない限り、真相は闇の中のままでしょう。

 

 法堂の北に続く僧堂(宇治市指定有形文化財)の内部です。この建物も慶安元年(1648)の建立ですが、元禄十五年(1702)に改築されています。御覧のように曹洞禅道場としての伝統を受け継いで、いまも僧侶たちが開祖道元以来の「只管打坐(しかんたざ)」の精神に没入し修行に励んでいるそうです。

 興聖寺は、曹洞宗においてはいまも開祖道元第一創設の寺院として重んじられています。既に江戸期の寛文四年(1664年)に畿内の触頭寺院となっており、格式の高さがうかがえます。

 触頭寺院とは、江戸時代に幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のことです。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を図るのが職務でした。 室町幕府が設置した僧録に該当する機関として江戸幕府が設けたものです。
 その延長上において、延享四年(1747)には永平寺の末寺に組み入れられ、現在では永平寺に次ぐ曹洞宗の重要拠点として機能しています。
 その歴史的価値をふまえて、境内は京都府の興聖寺文化財環境保全地区に指定されています。宇治市の観光寺院としては平等院と並ぶ双璧であり、禅に関心を寄せる外国人観光客も多いそうです。

 

 興聖寺の地図です。国際観光地でもある宇治の名所群に隣接し、平等院とは宇治川をはさんで東西に向かい合う位置にある孤高の禅刹として、最近は人気が出てきているそうです。

 

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(車輌目次表紙)BC自由学園 M5A1軽戦車(フェイズエリカのこぼれ話版)

2023年02月04日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.97 (商品コード35097)

  制作期間   2022年2月9日~10日、3月8日

  製作記事   その1 その2 その3 完成です!!

  総評・備考
 M5A1軽戦車は、アメリカが開発し第二次大戦中に連合国軍が使用したM5軽戦車の改良型である。砲塔の右に出っぱりがあるのが特徴で、ガルパンではコミック「フェイズエリカのこぼれ話」にてBC自由学園チームのボルドーの搭乗車として登場する。
 適応キットはタミヤとAFVクラブから出ており、タミヤ製品は3種類(下のキット一覧の1から3)とも「ヘッジロウカッター」と呼ばれるボカージュ突破用の鋤状部品を車体先端にに取り付けるが、その「ヘッジロウカッター」のパーツC4を取り付けないでホールドだけを再現すれば、作中車の姿に仕上げられる。またAFVクラブ製品(下のキット一覧の4)は形状からみて作中車のモデルではないかと推定され、これを選べば再現製作も楽であるが、どこにでも売っている品ではないので入手が難しい。

  公式および適応キット一覧(2023年1月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く26 その8  エコパ伊奈ヶ湖にて

2023年02月03日 | ゆるキャン△

 山梨県立県民の森、エコパ伊奈ヶ湖の第1駐車場は、園地内のほぼ中央に位置して周囲に総合受付や関連施設が集まっています。キャンプ以外での利用客や観光客もここに車を停め、上図の森林科学館などを見物したりしています。森林科学館は、レストハウス伊奈ヶ湖の東側に位置しています。

 

 駐車場の東側に建物がありますが、周囲の樹木が建物を覆い隠すように繁っているので、外観がよく見えませんでした。一見して、森林科学館の建物はあれなのかな、と疑問に思ったほどです。

 

 コミック第13.5巻5ページ3コマ目にもそのままの景色が描かれています。志摩リンがレストハウスの店先からそちらへ移動していますが、リンはキャンプ場の受付がある管理棟だと思っていたようです。 

 

 建物の中へ入ると、まさに森林科学館でした。現地の自然環境や植物、生息する動物についての展示がありました。

 

 コミック第13.5巻5ページ4コマ目にも内部空間がそのままに描かれています。中央の大きな切株のオブジェ、手前のパネルの「樹洞は森のシェアハウス?」の文字も忠実に再現されています。

 

 「樹洞は森のシェアハウス?」の樹洞は、大きな切株のオブジェにて大きいのと小さいのが2つ再現されていました。志摩リンが覗き込んだ時に、中にリスかモモンガみたいな小動物が居ましたが、現実にはそんな小動物は居ませんでした。

 

 これが小動物のシーンです。たぶん志摩リンの妄想イメージなのでしょうが、「ここは管理棟じゃないよ」とわざわざ教えてくれています。樹洞の位置やサイズが忠実に描写されていますので、現地で実際に見ると妄想イメージもリアルに感じられてしまいます。

 個人的には、樹洞というとフクロウが入っている穴、というイメージがありました。子供の頃、よく家の裏山に登って、木々の樹洞にフクロウが潜んでじっとこちらを凝視していた、という経験を何度かしているからです。

 

 展示室の一角には、伊奈ヶ湖やその西の櫛形山系の立体模型がありました。上図左下に伊奈ヶ湖を含めたエコパ伊奈ヶ湖の園地が見えます。櫛形山系の山々への登山路がエコパ伊奈ヶ湖から通じていて、ここが登山者のルート発着点になっていることも知りました。聞けば、櫛形山への登山とキャンプをセットで楽しむ方が少なくないそうです。

 

 現地に生息する動物のはく製展示です。シカ、カモシカ、キツネ、イノシシ、そしてクマです。さすがにニホンオオカミはいないようです。昔はいたんだろう、と思いますが。  (続く)

 

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アンツィオ高校 ランチア1ZM装甲車 完成です!!

2023年02月02日 | ガルパン模型制作記

 銃塔組み立ての続きです。ステップ42の工程を進めます。

 

 銃塔が組み上がりました。

 

 銃塔を車体にセットして、塗装前の組み立て工程を完了しました。

 

 塗装を行ないました。車体カラーは劇中車に合わせて調色しました。ミスターカラーの16番の濃緑色に524番の枯草色を少し混ぜました。

 

 車輪のタイヤ部分は、キットの塗装指示ではホワイトですが、劇中車のタイヤ部分は完全に隠れていて色が不明です。それで、第一次大戦期の白いタイヤに無理に合わせることもないか、と割り切って、アンツィオ高校チームの他の車輌と統一しておくことにしてポスカの黒で塗りました。

 

 銃塔の機銃は、劇中車では車体カラーと同じような色に見えなくもないのですが、これも割り切って28番の黒鉄色で塗りました。

 

 車体背面の機銃も同様でした。

 

 前面の大型ライトは内側を8番のシルバーで塗り、レンズのクリアパーツをはめ込みました。

 

 右側面のライトも同じように塗ってレンズのクリアパーツをはめ込みました。

 

 車輪を取り付けました。

 

 塗装後の組み立てが完了しました。

 

 デカールを貼りました。劇中車シーンでは右側面観しか出ていないので、校章マークの位置も右側面だけが判明しています。それに合わせて、モデルカステンのガルパンデカールセットVol.3より最大サイズのものを2枚使用して貼りつけました。

 

 左側面にも校章マークは有る筈ですが、左右対称の位置にすると左側面では乗降ハッチに重なります。そこで前にずらしてハッチに重ならないようにしました。ガルパン車輌の左右側面のマークは位置が非対称であるケースが少なくないので、今回の車輌も非対称で良いだろう、と割り切りました。

 

 最後に薄くつや消しクリアを吹き付けて仕上げました。

 

 かくして、アンツィオ高校チームのランチア1ZM装甲車が最終章仕様にて完成しました。製作期間は、2022年5月2日から9日までの8日間でした。組み立てに6日、塗装に1日、塗装後の組み立てとデカール貼り付けに1日かかりました。

 今回はCSMより新たに発売されたキットを使用しました。ラトビア共和国の新興メーカーの意欲的製品群の一つだけあって、キット自体の出来も精度も大変に良く、扱いやすく、組み立て易く、組み立ても楽に進んで綺麗に組み上がりました。改造箇所も二ヶ所だけで済みますので、ガルパン車輌の入門キットとして最適かと思います。
 デカールのほうは、モデルカステンのMGデカール ガールズ&パンツァー Vol.3が必要となりますが、2023年1月現在においてモデルカステンのオンラインストアにて購入可能となっています。なるべく、買えるうちに買っておきましょう。

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宇治巡礼11 橋寺放生院

2023年02月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治橋の東詰から朝霧通りを20メートルほど歩くと、左手に上図の橋寺放生院の山門が建ちます。山号は雨宝山(うほうざん)、常光寺(じょうこうじ)を寺号とする真言律宗の寺院ですが、歴史的かつ現在の通称は「橋寺(はしでら)」で、地元民もそう呼びます。

 

 寺伝では、推古天皇十二年(604)の創建、聖徳太子を開基としますが確証はありません。境内に現存する「宇治橋断碑」の碑文には、大化二年(646)に元興寺の僧道登が宇治橋を架けた旨が記されており、その宇治橋の管理のために創建された寺ではないかという推測がなされていますが、これも仮説の域を出ません。

 橋寺の存在が知られるのは平安時代からで、いまも本堂に現存する安然様の不動明王立像の様相をみますと、少なくとも十二世紀頃には天台宗に属したようです。その後いったん衰微し、鎌倉時代の弘安四年(1281)に西大寺の僧叡尊が再興しています。現在も本尊として祀られる地蔵菩薩立像もこの時の造立とされ、再興造仏の次第が叡尊の自叙伝である「金剛仏子叡尊感身学正記(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき)」に記されています。

 その五年後の弘安九年(1286)に叡尊は宇治橋を復興させ、それに合わせて宇治川の中洲(現在の塔の島)に浮島十三重石塔を造立し、当寺で放生会を行いました。これによって「放生院」の院号を付され、後宇多天皇より寺領300石を下賜され、宇治橋の管理を命じられましたので、それ以降は「橋寺」の呼称で親しまれました。

 

 中世戦国期における橋寺は、宇治橋を管理する職務により地元の自治組織であった宇治会合(えごう)つまり宇治衆との関係があったようです。文明十一年(1479)には宇治衆と隣の三室戸衆との境界争いに端を発する騒乱に巻き込まれ、三室戸寺と論争になり攻められて放火され、壊滅してしまいました。これに怒った宇治衆は三室戸寺に報復して炎上させています。

 その後、室町幕府の援助により復興されましたが、江戸時代の寛永八年(1631)に火災に遭い、伽藍を焼失しています。その際に寺の重要な記録類も失われたようで、いま古文献史料が伝わらないのもそのためでしょう。
 なので、現在の寺観は江戸時代以降の再整備によるものです。山門と本堂の他は庫裏と小さな鎮守社があるのみです。本堂前に建つ上図の五輪塔は中世期の遺品で、おそらくは鎌倉時代の叡尊の再興事業に関連するものかと推定されます。

 

 境内の一角にある覆堂には、「宇治橋断碑」が収められています。宇治橋の開創に関する顕彰碑であり、江戸時代の寛政三年(1791)に境内から偶然に発見されたといい、原碑部分が上の三分の一程度残っているだけなので、断碑と呼ばれます。残りの三分の二は「帝王編年記」に収録される文章をもとにして原碑の失われた部分を推測して補ったものです。
 原碑は文章形式や書体からみて八世紀頃のものとされ、現存する最古級の石碑のひとつであります。昔から日本三古碑のひとつとされ、国の重要文化財に指定されています。

 この「宇治橋断碑」はいつでも見られるものではありません。3月から5月までと、9月から11月までの時期に限って公開されています。古代の貴重な遺品であるために撮影は不可なので、じっくり見て脳裏に焼き付けておくしかありません。

 

 橋寺の地図です。京阪宇治駅より歩いて3分、宇治橋の東詰の至近です。

 

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