平等院から宇治川沿いに上流へ県道3号線を約600メートルほど進み、「院ノ御所山」と伝承される槇ノ尾山を右に過ぎて次の信号で右折すると、白川谷と呼ばれる南北に細長い小盆地に至ります。その地域のほぼ中央に、白川金色院と呼ばれる寺院の遺跡があります。
白川金色院は、平安時代後期の康和四年(1102)に藤原頼通の娘の四条宮藤原寛子(ふじわらのかんし)によって平等院の奥ノ院として創建されたといいます。これは、室町時代の長禄四年(1460)に白川金色院が焼失してすぐに再建された際の、寛正四年(1463)の「白川別所金色院勧進状」に述べられた内容であり、文献史料のうえではこれが白川金色院の由来に関する最初の記述として知られます。
現地にはかつての惣門であった立派な門と、寺の鎮守であった白山神社とが残ります。惣門をくぐって宅地の間をまっすぐ進むと、最初の辻に遺跡の案内板と上図の遺跡標石があります。
遺跡標石の辻で右に折れ、次の分岐で左の緩やかな下り坂に入ってゆくと、白山神社の境内地になりますが、その左側の窪地が上図のように見えてきて、かつての白川金色院の園池跡と伝わっています。車やバイクで来た場合は白山神社の境内地が終点となるので、園池跡横のスペースに停めて遺跡地を歩いて回ることになります。
就職して間もない頃に初めて車を買い、当時住んでいた奈良市から各地へ史跡探訪目的のドライブを楽しんでいた時期に、琵琶湖方面へ行く時は宇治田原から太陽が丘の東麓の林道を経て白川谷を抜け、宇治谷から奈良街道に出て山科へ回るコースをとりましたが、その途中で必ずこの白川金色院跡に立ち寄って一休みしていました。
なので、この白川金色院跡とは、もう30年余りの付き合いになります。初めて行ったのが平成2年の秋でしたから、まだ発掘調査が行われる前でした。発掘調査は平成5年から始まってほぼ10年にわたって続けられ、平成14年まで10次に及んで多くの知見が得られ、それまで幻に過ぎなかった藤原摂関家の壮大な寺院の様相が明らかになっています。
私が大学生の頃にこの白川金色院跡について知ったのは、ゼミの恩師であった井上正先生に「奥州平泉の無量光院跡は宇治の平等院鳳凰堂の模倣だった、そして今も残る中尊寺金色堂は、宇治の白川金色院の模倣だね」と教えられたのが最初でした。
中尊寺の金色堂と言えば、藤原時代盛期の仏教文化を代表する遺構で、金箔と宝飾に包まれた豪華な設えと仏像の荘厳さで知られて国宝に指定されています。そのモデルとなったのが宇治白川の金色院の本堂であった、というのですから、大いに興味を掻き立てられました。寺が明治の廃仏毀釈で廃されて建物は全て失われた、と知っても、その跡地に一度は行きたい、と思い続けました。就職後に買ったばかりの車で勇んで白川谷へと繰り出して、遺跡に初めて立った時の感動と深い感慨は、いまもなお胸に鮮やかです。
その頃に見た遺跡の風景は、ほぼそのまま現在も変わりません。10年10次にわたった発掘調査が完了した後、遺跡群は地中に埋め戻されて保存され、発掘調査区域の地面も原状に復されたからです。上図は白川金色院の坊院であった福泉坊の跡で、奥の建物の右側が中之坊跡や蔵之坊跡にあたります。上図の左側へさらに歩くと、平成9年の第5次発掘調査によって遺構が確認された、白川金色院の本堂たる文殊堂の跡地に至ります。
本堂であった文殊堂跡から東側の山裾に行くと、上図の九重石塔や五輪塔群が林間に静まっています。九重石塔はいまでは四条宮藤原寛子の供養塔と言われていますが、実年代は鎌倉時代後期から室町時代にかけてのものなので、実際には中世期に寺の中心塔婆として建てられたもののようです。もとはすぐ北側の高台の上に建っていたのを現在地に下ろしたといいます。
一度その高台の上に登ったことがありますが、頂上に平坦面が残っていて、そこに建っていたのならば、周囲からよく見えただろうと思います。
並ぶ五輪塔も中世期以降の遺品で、寺の関係者の墓塔および供養塔として寺内各所の坊院に散在していたものを、明治期の寺の廃絶後にここに集めたもののようです。
白川金色院は明治の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、その際に分離された鎮守の白山神社がいまも現地に鎮座しています。私の何十回にもわたる白川金色院跡行きというのも、実態としてはこの白山神社参拝でありました。
一度、兼務の神主さんに現地でお会いした事があり、その際に白山神社はもとはここではなく、槇ノ尾の「院ノ御所山」に鎮座していたと伝えられる、と伺いました。槇ノ尾の「院ノ御所山」は白川谷の北側の境界点にあたり、もとは四条宮藤原寛子の別荘跡であったと言い伝えられますが、そこが白山神社の元位置なのであれば、おおもとは藤原寛子自身が祀った神祇祠であった可能性が考えられます。
その槇ノ尾の「院ノ御所山」は、いまでも宇治行きの際には時々横を通りますので、機会があれば登って遺跡面を確かめてみたいと思っています。
白山神社は高台にあるので、鳥居からの石段も御覧の通り長いです。社伝によれば、白川金色院の鎮守社として久安二年(1146)に加賀の白山神を勧請したのが始まりといいます。
久安二年(1146)当時、白川金色院の開基である四条宮藤原寛子は既に没しており、その後に摂関家を継いだ藤原忠実(ふじわらのただざね)の活躍期になっていましたから、おそらくは藤原忠実あたりが、大伯母にあたる藤原寛子への供養の意味で白山神社の勧請に関わったものかと思われます。あるいは藤原寛子の別荘跡「院ノ御所山」にあったという白山神社を現在地に移したのが実態であったかもしれません。
白山神社の拝殿と本殿(上図左端奥)です。拝殿は鎌倉時代の建治三年(1277)の建立で、珍しい茅葺の住宅様式を示して国の重要文化財に指定されています。一説では、拝殿はかつての宇治離宮つまり現在の宇治神社の建物であったかとされていますが、確証はありません。
それよりも、この白山神社の拝殿が、神社の拝殿には珍しい「一間四面堂」と呼ばれる仏堂の形式に準じて建てられているのが、個人的には大変に興味深いです。御覧のように四面が障子戸で区画されて、藤原時代の各地の荘園に在ったという仏堂の一形式である「惣堂」の姿を思わせます。
藤原時代仏教美術史専攻の身としては、こうした建築遺構に触れることで、当時の仏堂建築のイメージがなかなかにリアルに感じられるため、こうした建物は見ているだけで楽しくなります。それで、この建物を昔からずうっと気に入っております。
若い頃は、京都および琵琶湖方面へのドライブの途中に立ち寄って、この場所まで登って拝殿の縁側で一休みしたり、弁当を食べてまったりと過ごし、白川金色院の往時を偲んでいたりしたものです。
かつて白川金色院の本堂として豪華絢爛さを誇ったと伝わる文殊堂も、発掘調査によって南に外陣が付く「一間四面堂」の形式であったことが判明しており、よく似た平面構成の現存建築として同じ藤原時代の兵庫・鶴林寺太子堂(国宝)が挙げられています。文殊堂跡からは瓦が全く出土せず、その屋根は檜皮葺であったと推定されていますが、鶴林寺太子堂も檜皮葺で共通しています。
そして、現地においてはこの白山神社拝殿が、平面的にも規模的にもよく似ています。おそらくは、文殊堂の形式に倣って建てたのではないかな、と個人的には思っています。
藤原時代に限らず、江戸時代までの社寺は神仏混交の形態を維持して仏堂と社殿が似たような建物であった事例は多かったのですから、ここ白川金色院においても、江戸時代まで残っていたらしい本堂の文殊堂と鎮守白山神社の拝殿がよく似た「一間四面堂」タイプであるのも、偶然の一致では無いと思います。おそらく、外観もよく似ていたのかもしれません。
現存していれば、平等院の奥ノ院として観光の名所になっていた筈の白川金色院です。奥州平泉の中尊寺金色堂のモデルとなったという金色の本堂文殊堂、それを取り巻く多数の堂塔坊舎および庭園の姿を、出来たら見てみたいなあ、と思います。どなたか、タイムマシンを発明してくれないでしょうか。
白川金色院の地図です。平安京の時代には各地に多数が建立された藤原氏関連の寺院も殆どは遺跡すら残っていない現在にあって、京都府下でも数えるほどしか確認されていない、藤原摂関家ゆかりの寺院遺跡です。
2024年度の大河ドラマ「光る君へ」の主人公紫式部関連の観光スポットとして平等院鳳凰堂が注目されることになると思いますが、平等院の奥ノ院として華やかさを誇ったという白川金色院の遺跡も、あわせて知名度を上げるのでしょうか。