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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

宇治巡礼12 興聖寺

2023年02月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治の平等院と宇治川を隔てて向かい合う位置の高所に、興聖寺があります。山号の仏徳山(ぶっとくさん)は伽藍の東に聳える大吉山の別名が仏徳山であるのに因みます。曹洞宗を開いた道元が曹洞禅の道場として深草に最初に設けた興聖宝林寺が4代を経て廃絶したのを、400年を経た江戸時代の慶安元年(1648)に淀藩主の永井尚政(ながいなおまさ)が道元の再来を思わす曹洞禅識僧の万安英種(ばんあんえいしゅ)を招聘して再興し興聖寺と号し、現在に至ります。

 上図は寺号標と慶安年間(1648~1651)建立の表門です。石材を組んで建てられているので石門とも呼ばれます。

 

 総門より、伽藍の正門に相当する山門まで、上図の緩やかな登り道の参道が続きます。琴坂と呼ばれています。左右の木々は桜、山吹、姫ツツジ等が見られて花の名所でありますが、それ以上に秋の紅葉が素晴らしく、宇治を代表する紅葉の名所として知られます。

 琴坂の名は、参道脇を流れるせせらぎの音を琴の音色になぞらえてのものであるそうです。

 

 伽藍の正門に相当する山門です。竜宮造の門で、天保十五年(1844)に改築されたものです。宇治市の有形文化財に指定されています。竜宮造は中国式の門で、日本では禅宗各派の寺院に多く用いられています。

 

 山門から中に進んで中雀門と呼ばれる薬医門をくぐると、正面に上図の法堂が見えます。興聖寺の本堂にあたります。右手前には石塔の相輪部分が見えますが、これは宇治川の塔の島に建つ十三重石塔の九重目のもとの笠石と相輪です。現在の塔の島十三重石塔の九重目の笠石と相輪は、明治期の再建に際して新たに復元製作されたものです。

 

 鐘楼(宇治市指定有形文化財)は慶安四年(1651)の建立で、これに懸かる梵鐘(宇治市指定有形文化財)も同年の鋳造になります。淀藩主永井尚政の再興事業に関連する遺構であり、江戸期より「興聖寺の晩鐘」として「宇治十二景」と「宇治十境」の一つに数えられています。

 

 本堂の法堂(はっとう)(宇治市指定有形文化財)は一見すると大型の御殿か書院造のような姿で、寺院の本堂らしくない雄大な外観を示します。

 

 それもそのはず、上図右端の木札の説明文にあるように、かつての伏見桃山城より移築されたものと伝わります。慶安元年(1648)の移築の際に寺院本堂として使用するべく改築されたといいますが、主に母屋の内部空間を寺院堂宇の内陣、外陣の構成に変えたのでしょう。

 

 なので、外回りの廊下や障子戸などに、以前の建物の面影がしのばれます。その建物がかつての伏見城の書院であったと伝わりますが、その内外にて慶長五年(1600)の伏見城の戦いと呼ばれる合戦が行われ、徳川家家臣にして城代を預かる鳥居元忠以下は西軍諸将の連合軍に攻め寄せられ、籠城戦に持ち込むも果たせず、落城して討死、800人余りが運命を共にしたとされています。

 ですが、伏見桃山城はその合戦で炎上して残余の建物は無かったことが石田三成の書状等から知られるため、この建物が本当に伏見城からの移築であれば、伏見城の戦いの後の慶長七年(1602)より藤堂高虎が徳川家康の命で再建にあたった建物のほうである可能性が高いと思います。

 その再建伏見城は元和五年(1619)に廃城が決まりましたが、元和九年(1623)の徳川家光の将軍宣下の際に「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」とあって、一度は再利用していますから、完全に廃城となったのはその後のことでしょう。その頃に残存していた建物を、淀藩主の永井尚政が貰い受けて慶安元年(1648)の興聖寺再興にて本堂に転用した、という流れでしょうか。

 

 その法堂の正面廊下の天井は、伏見城の戦いの際に敗れた東軍の鳥居元忠率いる守備兵が自害した際の血が付いたままの床板を供養のために天井板として使っているということで、血天井と呼ばれています。各所に白墨で血の場所が示されていますが、いまだに赤っぽく見えているので、本当に血であるのかは不明です。

 そもそも、各地に伝わる血天井に関しては、史料および考古学的に正しく裏付けられたものが全く存在しないことが分かっており、実際に血液鑑定を行って確認したというケースも皆無です。戦没者供養のために意図的に作られた手形や足形であった可能性も否定出来ません。

 京都では、伏見城から移した血天井と伝わるものが興聖寺以外に4ヶ所知られています。宝泉寺、養源院、正伝寺、源光庵です。これらの寺になぜ血天井が移されたのかが科学的に解明されない限り、真相は闇の中のままでしょう。

 

 法堂の北に続く僧堂(宇治市指定有形文化財)の内部です。この建物も慶安元年(1648)の建立ですが、元禄十五年(1702)に改築されています。御覧のように曹洞禅道場としての伝統を受け継いで、いまも僧侶たちが開祖道元以来の「只管打坐(しかんたざ)」の精神に没入し修行に励んでいるそうです。

 興聖寺は、曹洞宗においてはいまも開祖道元第一創設の寺院として重んじられています。既に江戸期の寛文四年(1664年)に畿内の触頭寺院となっており、格式の高さがうかがえます。

 触頭寺院とは、江戸時代に幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のことです。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を図るのが職務でした。 室町幕府が設置した僧録に該当する機関として江戸幕府が設けたものです。
 その延長上において、延享四年(1747)には永平寺の末寺に組み入れられ、現在では永平寺に次ぐ曹洞宗の重要拠点として機能しています。
 その歴史的価値をふまえて、境内は京都府の興聖寺文化財環境保全地区に指定されています。宇治市の観光寺院としては平等院と並ぶ双璧であり、禅に関心を寄せる外国人観光客も多いそうです。

 

 興聖寺の地図です。国際観光地でもある宇治の名所群に隣接し、平等院とは宇治川をはさんで東西に向かい合う位置にある孤高の禅刹として、最近は人気が出てきているそうです。

 

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