武田八幡宮の門前の脇に、上図の何かの石造物があるので近寄ってみました。武田氏ゆかりの遺品かな、と最初は思いましたが、違いました。
これは一石百観音石像と呼ばれるものでした。一枚の石に百体の観音像を並べて彫ったもので、具体的には西国三十三観音霊場、東国三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場の合計100ヶ所の百体の本尊が彫られています。これを拝むと一度で100ヶ所の霊場を参拝したことになるわけです。
この種の一石多尊石像は江戸期に流行して各地に類似の遺品が点在しますが、100ヶ所の霊場の百の本尊観音像をまとめた例はあまり知られず、珍しい遺品といえます。銘文より、江戸時代の宝永六年(1709)に造立されたことが分かります。韮崎市の有形文化財に指定されています。
この一石百観音像は高さ約1.7メートル、頂部に阿弥陀三尊像の種字を刻み、その下に西国三十三観音霊場、東国三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場の本尊を模した小観音像を100体、七段に分けて並べて浮き彫りにて表しています。
もとは現地の北約500メートルに位置した玉保寺に建立されたものでしたが、明治の廃仏毀釈で玉保寺が廃寺になったため、明治十七年(1884)に武田八幡宮の神宮寺跡に移され、さらに現在地に移されました。
傍らの案内板です。
改めて武田八幡宮の神前に進みました。上図は石像の三ノ鳥居と随神門です。三ノ鳥居は小型で人がくぐれるような大きさではなく、神前の標識として建てられたもので、参道は鳥居の左右脇から登って随神門の左右脇を通る形になっています。随神門も中央の間口を通る形式ではなく、その石積み基壇には階段がありません。
つまり、鳥居も随神門も礼拝対象として左右から拝むものであり、古代の神域にて建物の中を通らずに周りを通って祭祀を行った方法の名残をとどめていると思われます。全国的にも珍しい構えであり、甲斐武田氏が崇める以前はかなりの古い神社であったことがうかかえます。
武田八幡宮の案内板です。私自身はここは初めての訪問でした。昔、甲府の歴史観光同好の団体に参加していた時期にもここには未訪のままだったからです。というより、韮崎市エリアに行く機会が無かったのでしたが、今回やっと来られたわけです。
なので、上図の案内板の説明文もきちんと二度読んで、これから参拝する武田八幡宮の諸社殿の名称と概要を把握しました。
随神門の裏からは長い石段が上の神楽殿の平場まで続きます。
神楽殿の平場に着きました。武田八幡宮には氏子衆によって神楽団が組まれているそうで、毎年秋の例大祭にて、昔から受け継がれてきた多数の舞が奉納されているそうです。
神楽殿の左側の高台には、神撰殿とみられる建物があります。
神楽殿の横を過ぎてさらに石段を登り、拝殿の前に着きました。一礼して横に回り、上図の本殿を見上げました。高い玉垣に囲まれているので屋根しか見えませんでしたが、その玉垣の左右が切れているのを確かめたので、後で側に登って見てみようと思いつつ、まずはこの位置から仰いで一礼しました。
この本殿は、鎌倉時代に甲斐武田氏の初代信義が寄進した建物が痛んだため、戦国時代の天文十年(1541)に武田信虎、信玄父子が再建したものです。戦国大名武田氏の全盛期に建てられた貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されています。
そして令和元年には、約400年ぶりに屋根の葺き替えを行なったそうで、一見するとまだ新しい建物のように見えてしまいます。 (続く)