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栂ノ尾高山寺4 高山寺石水院

2024年05月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺石水院の続きです。嫁さんといったん西側の庇の拝所と内陣を覗いたのち、拝観順路に戻って上図の堂背面の廻り廊を進みました。

 嫁さんが「後ろにも戸口があるんですね、藤原時代の住宅は後口から入るのが普通でしたから、鎌倉時代のこのお堂も造りは住宅風ということで、伝統的に後口がついてるわけですよね」と言いました。そうやな、と返しておきました。

 石水院は、中世期の住宅風建物に一般的な方四間の規模であり、西側の一間は「蜜経蔵」とよばれる経蔵と春日・住吉両神を祀る内陣になっています。あとの三間分が住宅風になりますが、その中央の一間を上図のように二枚の戸口としています。
 もとはこの三間分も経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造されています。しかし、経蔵本来の、経典を皆で読んで学習する場としての機能は変わらなかったようです。

 

 角を曲がって東面に進みました。御覧のように東面の四間のうち南からの三間が蔀戸となって開閉出来ます。上半分は跳ね上げ戸、下半分は取り外して手前に置いてありました。このように戸を外したり開けたりして、採光状況を自在に設定出来るようになっているのが、中世期の日本の堂宇建築の一般的な様相でした。

 石水院の建物は、明恵上人の頃に金堂の東に建てられた東経蔵を後に現在地に移築したもので、高山寺中興以来残る唯一の遺構です。現在の内部空間は東経蔵が建てられた当時のままではありませんが、平面規模や柱間などの基本構造は変わっていないようなので、経典の蔵と経典の読経の場としての機能もそのまま受け継がれているものと思われます。

 

 南側は軒下より傾斜面となり、裏参道のある崖面にあたり、石垣が幾重にも積まれています。高台の南端に位置しますので、南側の約180度の眺望は良く、御室川をはさんで南の周山の山並みも望まれます。

 

 南側の正面中央に懸かる額は、建永元年(1206)11月、明恵上人が34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられた際に下賜された勅額です。「日出先照高山之寺」と書かれています。

 「日出先照高山」は「華厳経」の中の句で「日、出でて、まず高き山を照らす」と読み、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味です。これが高山寺の寺名の由来であり、この勅額を下された建永元年がいまの高山寺の創建年とされています。

 

 石水院の内部です。御覧のように床の間が作られて書院風に仕立ててあります。建物自体は経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、単なる蔵ではなくて住僧が出入りして経典を学ぶ空間をともなった建物であったようで、それを江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造しています。

 石水院は、もとは中興開山の明恵上人の住房であったところで、度々の災害にて壊滅し、再建を繰り返しています。現在の建物はかつての東経蔵で、これを石水院の跡地に移して石水院の名を継がせていたのを、明治二十二年(1889)に現在地に移築して現在に至ります。
 現在地に移される前は、金堂と明恵上人御廟の間に位置していましたから、いま金堂の東に朱色の鎮守社が建っているあたりに在ったようです。

 

 内陣だった部屋から西を見ました。かつては春日・住吉両神の御影を内陣に祀り、上図の「落板敷」と呼ばれる半開放式の庇部分を拝所としていた様子がうかがえます。

 

 西村虚空さんが彫って奉納した善財童子像の後ろ姿が可愛らしいので、嫁さんがスマホで何枚も撮っていました。

 

 その善財童子像の正面観。西村虚空さんは尺八の名手として知られましたが、彫刻家としても非凡な才能の持ち主であったことが分かります。

 

 「落板敷」の部分は、東経蔵が創建された時には無かったようです。東経蔵に春日・住吉両神の御影を祀るようになったのは、建長五年(1253)撰の「高山寺縁起」によれば、文暦二年(1235)からでした。高山寺に入って明恵に師事し華厳教学を学んだ喜海上人の日記によると、春日・住吉両神の奉安は、猪隈関白こと藤原家実の発願によるもの、となっています。その際に拝所の「落板敷」の部分を追加したのでしょう。

 高山寺は華厳宗の寺院で、藤原一門の氏寺である興福寺とは密接な関係があり、同時に春日神とも繫がりがあって、春日大社の鎮座する大和国三笠山の奥之院として位置づけられていました。高山寺の春日神は生身の御影像として篤く崇められていたため、興福寺別当に補せられた者は、必ず高山寺石水院に参拝して神前に報告しなければならない決まりであったといいます。

 

 なので、上図の「落板敷」が拝所として整えられたのも、藤原家実の発願によるものであったことになります。その後は時々春日・住吉両神の開帳が行われ、興福寺の一乗院および大乗院がこれを取り仕切った経緯が諸史料にうかがえます。
 開帳の前後には建物のメンテナンスも行われ、度々の修理が施されていますが、それらの積み重ねが、この貴重な建築遺構を現在に伝えせしめたわけです。

 

 西面の拝所の外側へ回りました。嫁さんが「蟇股のデザインがなんか良いな、これ唐草紋ですかね」と小声で聞いてきましたが、

 

 厳密には唐草紋ではなく、和様にアレンジされた草花紋でしたが、あまり類例のないデザインでした。透かし彫りである点も、鎌倉期の建築意匠にしては珍しいほうだと思います。

 ですが、似たようなデザインの装飾文様をどこかで見かけた気がして、どこの何という建物のそれであったかを何とか思い出そうとしているうちに、「そろそろ行きましょ」と嫁さんに背中をつつかれ、先へ進みました。
 が、嫁さんが「ちょっと待って」と腕を引いたので、前に出しかけた足を停めて振り返りました。  (続く)

 


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