群馬県立歴史博物館の展示模型ジオラマのなかで最も大きなものが、江戸時代の倉賀野宿・河岸の復元模型です。一辺が10メートル以上になる大規模なジオラマで、1/250スケールで表されています。
その倉賀野宿・河岸の復元模型です。江戸時代の日本の典型的な街並みの景色です。規模が大きすぎて写真におさまりませんでした。
これだけ広い範囲を模型化してあると、見下ろしているほうは飛行機に乗って空から俯瞰しているような気分になります。
中央のメインストリートは中山道で、どこかの藩の参勤交代の行列が再現されています。その向かう先には本陣および脇本陣とみられる立派な建物群の区画があります。
ほぼ全景をなんとか撮りました。倉賀野宿は、江戸時代の中山道六十九次のうち、江戸から数えて12番目の宿場にあたります。上図で右に分岐しているのが日光例幣使街道です。
天保十四年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人であったといいます。上町、中町、下町があり、中町が中心地であり、上図の左端に烏川が流れていて、それを利用した舟運搬の河岸もあり、交通の要衝として栄えたといいます。
現在は、群馬県高崎市倉賀野町になっています。この日に私がJR高崎駅東口から群馬の森まで乗った路線バスも、その倉賀野町を通ってJR倉賀野駅にも周り、かつての中山道の一部を走って来たので、模型を見ていて現在との状況の変化もよく分かりました。
江戸時代になると、民家や施設の規模はどこの地方でも画一化されていったようで、民家の基本設計図とか最低減の居住空間規模に関して江戸幕府からの通達もあったと聞きます。主な城下町や宿場町では、街道や主要道に沿って計画的に町が造られたため、敷地も原則的には均一的に配分されて、似たような規模の宅地が短冊状に並ぶ結果になっています。
それで、民家や施設の建物も敷地の規模に応じて類型的に似たような造りや外観となり、似たような建物がずらりと軒を連ねる古き良き日本の街並みの景観が形成されてきた歴史があります。
なので、上図の模型の民家も、形や大きさが同じものが殆どです。手抜きで同じパーツを量産しているのではなく、かつての日本の家屋の基本形がどこも似たり寄ったりだったから、模型的にはこれで充分であるわけです。
現在は、民家の一つ一つを設計者が自由自在にデザインしていますから、色んなタイプの家があるわけですが、江戸時代はそのような設計や建設を請け負う職人というのは幕府や藩の許可制でしたから、どこの藩でも職人の組は一、二ぐらいしかなかったといいます。その職人グループが幕府からの通達に沿った規格で家を建てるわけですから、その街や村では同じような建物が並ぶことになります。
宿場町の外には、中世戦国期の倉賀野城の跡もリアルに再現されています。鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称したのが始まりとされます。
戦国期には上杉氏、武田氏、後北条氏などに組みしましたが、豊臣秀吉の小田原征伐により、当時の城主倉賀野秀景は後北条氏の武将として小田原城に籠城し、小田原落城と共に倉賀野城も降伏開城しました。その後は廃城となり、その城下集落が宿場町に転じていったわけです。
宿場町の中心部に、中山道をはさんで向かい合う本陣と脇本陣です。本陣の隣には問屋場があります。問屋場の役割は二つあり、一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や参勤交代の大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶという役割です。もう一つは、幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務でした。
だから、大抵の宿場町では本陣や脇本陣とセットで問屋場がありました。各地の問屋場を繋ぐ飛脚の請負職人も幾つかあり、その一つが現在も続いて有名な運送業者になっているのが佐川急便であることはよく知られています。
最後に見た復元模型は明治時代の富岡製紙場の建築群でした。現在は旧建築群のエリアが世界遺産および国宝に指定されていますが、上図の当時の模型からみると半分以下の規模でしかありません。
群馬県立歴史博物館には16時半まで滞在して、色々と見て楽しみました。その後群馬の森の散策路をブラブラして、16時54分のバスに乗り、高崎駅東口には17時24分に戻りました。
宿に行く前にどこかで夕食をとろうと、駅ビル内の食堂街を歩き回り、上図の「ぎょうざの満洲」に行きました。埼玉県に本社があり関東圏に多くの店舗がありますが、関西圏では大阪や兵庫に少ししかないので、私自身はこれまで入ったことがありませんでした。奈良や京都に住んでいますと、餃子といえば王将に入るのが常になるからです。
それで、今回はいい機会だと思って上図のチャーハンと焼餃子のセットをいただきました。王将でも似たようなセットをよく食べていますので、味の違いはいかほどかな、と思いましたが、意外にあっさり目でした。
その後、宿に帰って明日の聖地巡礼に備えるべく、早めに風呂を使い、きょう一日の記録をまとめ、荷物も準備しておいて10時には就寝しました。
以上で、これまでのレポートを、群馬キャンプ編の榛東村エリア編として括ります。次回からは安中市エリアのアプトの道および横川鉄道博物館編として項を新たにして綴ります。 (了)