群馬県立歴史博物館の常設展示を見ました。他県の県立歴史博物館と比べて、模型による復元ジオラマ展示の数が多い事で知られますので、模型が好きな人の間でもけっこう話題になっていたりするそうです。
上図は安中市の中野谷松原遺跡の説明です。竪穴式住居が約200棟、墓域が6か所検出され、縄文時代前期の大型集落遺跡として全国的に知られます。出土土器には東北や北陸や信州の製品がみられ、他地域との交流が活発であったことがうかがえます。
中野谷松原遺跡の復元模型ジオラマです。遺跡の中心部に建っていた約10棟の掘立柱建物のエリアを表しています。中央を縦に通るのが集落内のメインストリートとみられ、右上には円形の祭祀場と墓域も見えます。周囲の林は紅葉に作られて秋の景色を示しています。
群馬県立歴史博物館に限らず、博物館におけるこの種の模型展示は、ほとんどが鉄道模型のNゲージと同じようなスケールで作られていて、なかには同じ1/150スケールで製作されているものも見かけます。歴史的な景色をリアルに再現するという手法が、綿密な歴史考証を重ねての成果のうえに採られていて、表現が細かくて精緻になっているケースが多いです。
模型店で見る戦車ジオラマや鉄道ジオラマとは比べ物にならない素晴らしい出来栄えの展示が多く、私自身のジオラマ製作にとっても非常に参考になります。
そもそも、縄文時代の景色を再現出来るというのが凄いと思います。私なんぞは、自分の生まれた昭和という時代の景色すら、どうやってジオラマ化したらいいのか分からなくて悩んでいますから、過去の日本の景色を色々と再現ジオラマにしている博物館展示の模型は、色々なヒントや気付きを与えてくれて大変頼りになります。
次に感動した模型ジオラマは、上図の高崎市の新保遺跡のそれです。新保遺跡は、弥生時代中期から後期にかけての大型集落遺跡を最初とし、中世の鎌倉時代あたりまで続く各時期の複合遺跡として知られます。
弥生時代、といっても景観的には縄文時代と大して変わりません。いまの私たちの感覚でいえば、平成と令和の関係にあたるかもしれません。
例えば弥生時代前期の人々にとってみれば、父母や祖父母の頃が縄文時代晩期にあたっていたりするわけです。住居の形とか、集落の雰囲気とかはそんなに劇的に変化しませんから、模型で復元して製作するにあたっても、弥生時代らしさを表現するのは大変だろうと思います。
このジオラマの特色は、各所に水田や畑が見られることです。あと、住居の立地が川に沿っている傾向が示されています。水に親しみ、水の恵みを受けて農耕を展開し発展させていったのが弥生時代ですから、この新保遺跡の景観もそういった典型的なケースとして確認された、ということでしょう。
畑の表現がなかなかリアルです。現在のように土地全部を使って農地化するという傾向がありませんから、集落の周囲には非農耕地域というか、原野のような空間が広がります。いまと違って、宅地の境界線というのもありませんから、外のスペースは住民共同の場であったと言われます。
続いては古墳時代の黒井峯・西組遺跡の復元模型です。スケールが一気に大きくなって1/30サイズになります。
渋川市の黒井峯・西組遺跡は、古墳時代の集落遺跡としては日本で最も有名な遺跡のひとつです。六世紀中頃の榛名山の大噴火により、火山灰や軽石が2メートル以上も積もって集落全体が埋まってしまって全滅したとされています。火山災害によって壊滅したイタリア古代都市ポンペイにならい「日本のポンペイ」とも呼ばれています。
昭和63年からの発掘作業により、住居建物のほか、作業小屋や馬小屋など様々な種類の建物、柴垣、畠、道、広場など、他地域の同時期の遺跡では発見されることが極めて困難といえる種類の遺構が多数発見されています。火山噴火によって一気に埋まったため、残りにくい種類の遺物が火山灰に覆われて残り、不明なことが多かった古墳時代の生活の様子が初めて判明した意味において、重要な遺跡です。
その黒井峯・西組遺跡の再現ジオラマです。建物からして縄文、弥生の時代よりは立派になっていますね。殆どが掘立式で壁体も備え、屋根が高くなっています。現在の民家の原型とも言えるでしょう。
こういう立派な集落、その人々の暮らしが、榛名山の噴火で一挙に埋まって壊滅してしまったわけです。似たような事例は江戸時代でもあって、群馬県では浅間山の大噴火で壊滅した鎌原村観音堂の遺跡などが知られますが、そちらでは逃げ遅れて火砕流にのまれてしまった二人の女性の遺体が発見されています。
渋川市域にはこのような榛名山噴火によって壊滅し埋没した遺跡が25ヶ所あり、最近では金井東裏遺跡が注目されて有名になっています。平成24年の発掘作業によって、火砕流に埋もれた、古墳時代の甲冑を着た身分の高い男性や、首飾りを身につけた女性らの人骨が発見されたからです。
こういう火山被害による埋没遺跡の資料を見ていて思うのは、例えばいま、もし富士山が噴火したらどうなるか、ということです。噴火規模の度合いにもよりますが、山麓の周辺地域は間違いなく壊滅するでしょうし、火山灰が首都圏にも降り積もって未曾有の被害を与えることも想定されます。おまけに火山噴火は地震を伴うケースが多いと聞きますから、地震によってもダメージを受けるわけで、想像できないほどの被害が上積みされてゆくものと推定されます。
なので、黒井峯・西組遺跡の事例は、過去の歴史のみではなくて未来の危険をも伝える重要なメッセージだと思います。
こちらは、高崎市にあった戦国期の在地土豪神保氏の居城とされる神保植松城の復元ジオラマです。現在、城跡の主要部分は上信越自動車道の建設により消滅していますので、この模型はその往時の姿を見られるという意味で重要です。
こういった城館の縄張りとかは、当時の日本では各地で共通して見られたデザインになっていますので、全国的に城の設計図とか縄張りのマニュアルとかが流布して普及していたのだろうな、と思います。 (続く)