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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と16 天龍寺と大堰川と古城山

2022年08月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺の創建時の伽藍の半分がいまは失われ、紅葉の林の下のどこを探しても、礎石の痕跡すら見当たらなかった。しばらく地面を観察して回ったが、どうやら現在の紅葉樹林を含む範囲が、近世以降に相当の改変を受けているようで、駐車場の整備工事もまた少なからぬ変更を強いたようであった。

 

 考えてみれば、本来の禅宗伽藍は、伽藍域における植生の配置が少ない事で知られる。ここに仏殿が建っていた頃は、いま見られる紅葉の樹林は無かった筈であるから、この景色そのものは近世以降の変遷の結果であることになる。

 

 仏殿の前に位置する放生池と石橋は、創建時以来の規模を保っているようであるが、寺の案内パンフ類にも解説が無く、由緒ある創建伽藍以来の遺構であることが完全に忘れ去られている。石橋そのものは鎌倉期のそれではなく、江戸期の造作が見られるので、この範囲も相当の改変を受けているものと推定される。
 この放生池と石橋の範囲は四囲をフェンスに囲まれて立ち入り禁止になっているので、西と南と東からフェンス越しに見るだけであった。

 

 東へ回って、フェンス越しに西を見た。伽藍中軸線はここに定められて山門から池、仏殿、法堂、大方丈と一直線に並んでいたのだが、全ての建物が火災などで失われた。現在の大方丈は明治三十二年(1899)の再建で、法堂も塔頭の雲居庵の禅堂を移築して明治三十三年(1900)に仮の法堂として以来の建物である。
 山門も、もとは慶長年間の京都御所内裏の明照院の門であったもので、現在地へは寛永十八年(1641)に移築されている。天龍寺創建時の威容は、まったくの幻となっているわけである。

 

 寺を辞して、大堰川のほとりに出た。付近の街路はどこも観光客の波で埋められていたが、川の広い水面は静かに音を響かせて悠々と流れていた。堰堤沿いに細長くのびる川岸の低地は、古代より「大井津」と呼ばれた川港の頃の地表面の名残かな、と想像をめぐせらた。

 

 渡月橋も相変わらずの混雑ぶりであった。歩道部分が一杯で車道部分にもはみ出して歩いている観光客が少なくなかったが、それが日常の風景であった。夜になれば、人影が失せて貸し切り状態でのんびりと渡れる橋であることは、意外に知られていないと聞く。

 

 この日も、帰りに嵐山温泉「風風の湯」に寄る積りであったので、渡月橋から嵐山地区に進んで川沿いの遊歩道を東へと歩いた。

 

 いったん嵐山温泉「風風の湯」の東の広場に行き、ベンチに座ってお茶を飲み、しばらく休んだ。吹き付ける風が次第に冷たくなってきた頃に、上図の奥に見える「風風の湯」へ向かった。

 

 その際に、「風風の湯」の屋根の向こうに高く聳える嵐山(標高382メートル)の頂上からの左右の稜線がくっきりと望まれた。中世戦国期を通じて山城国の軍事および政治の重要拠点となった嵐山城の旧地である。
 城そのものは応仁の乱の頃に築かれたとされ、永正年間に山城国の守護代であった香西元長が使用したとされるが、詳細がよく分かっていない。遺跡はいまも嵐山の山頂に遺されており、京都一周トレイルの西山コースのルートから外れた位置にあたるため、訪れるハイカーも少なくないそうである。

 

 その嵐山城跡へも、機会があれば登ってみるか、と考えた。奈良県に居た頃は県内の中世戦国期の城郭や環濠集落の殆どをかけめぐって歴史探索を大いに楽しんでいたが、京都の城跡は二条城や船岡山城ぐらいしか行っていない。京都盆地をとりまく山々に多くの中世戦国期の城郭遺跡があるのだが、これまであまり興味が無かったせいで全てが未訪のままである。

 今後は、それらの城跡もちょっと行ってみようかな、とは思うのだが、年を経ると山登りが辛くなってくるので、どうしても楽なアニメ聖地巡礼や古社寺散策のほうに向かってしまう。
 ただ、最近は運動不足気味なので、健康のためにハイキングや軽登山の一種としての城跡巡りも再開してみようかな、と考えている。その手始めに、あの嵐山城跡はどうだろうか、と眺めつつしばらく思案した次第であった。  (了)

 


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