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栂ノ尾高山寺2 高山寺金堂

2024年05月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基である明恵上人こと明恵房高弁の御廟にお参りした後、登って来た長い石段を降りて参道へ引き返しました。

 

 それから参道を道なりに奥へと進むと、左にカーブしてまもなく上図の鎮守社と金堂が見えてきました。嫁さんが「綺麗に直ったんですねえ」と言いました。

 高山寺金堂は、2018年に台風による境内林の大規模な倒木によって直撃を受け、棟木や小屋梁や向拝桁が折れ、枓栱や蟇股は割れ、建物全体も衝撃で後方に傾いてしまったので、2019年から修理を受け、2022年5月に落成しています。今回の初の特別公開は、その修理完成を記念しての特別企画でした。

 

 私自身も過去の二度の拝観でこの金堂の外観を見ていますが、その頃はこの辺りも鬱蒼とした林になっていて、薄暗い中に薄汚れたお堂が見えると言った風情でした。

 今回はその鬱蒼とした林が台風でなぎ倒され、特に樹齢200年から400年のような大木が300本近くも倒れるという大きな被害があった後の状況であり、2022年までの復旧整備事業でさらに周辺の木も危険防止のために伐採したそうなので、結果的に境内地の風景が見違えるほどに明るくなっていました。

 

 金堂の建物自体も、どこに被害を受けたのかが全然分からないほどの丁寧かつ完璧な修理を受けていて、これが5年前に半壊同然となって傾きかけたとは思えないほどでした。見事な修理の好例と言えましょう。

 

 靴を脱いで縁側にあがりました。嫁さんはこの時を楽しみにしていただけに、テンションが高止まり状態で、建物のあちこちをスマホで何枚も撮り、「中に入りましょ」と小声で嬉しそうに言い、建物の細部を観察していた私の腕を引っ張ってゆくのでした。

 

 建物自体は室町期の様相を示しており、もとは双ヶ丘(ならびがおか)にあった仁和寺の院家のひとつ真光院の堂宇であったといいます。江戸期の寛永十一年(1634)に現地へ移築されたそうです。要するに仁和寺の系列の建築で、舟肘木(ふなひじき)や蔀戸(しとみど)などに門跡寺院らしい気品が漂います。

 したがって、仁和寺の歴史を知る上でも重要な建築ですが、いまだに文化財未指定なのですから、ちょっと不思議な気がします。

 

 金堂の内部は撮影禁止でしたので、写真は外観のみにとどまりました。本尊の釈迦如来坐像も同じく初公開でしたので、私も初めて見ましたが、平安時代の古様を模倣して造られた室町期の遺品でした。金堂と共に仁和寺真光院から移したものといいますので、高山寺本来の仏像ではないわけです。

 もとの金堂は、明恵上人が承久元年(1219)に建立し、堂内の安置仏像は当時の慶派仏師のトップである運慶とその息子の湛慶があたりました。すなわち釈迦三尊像が運慶、四天王像が湛慶の作であったといいます。現存していれば、間違いなく国宝に指定されているでしょう。

 なお、現存する仏像群は全て東京および京都の国立博物館に寄託されています。そのなかに湛慶作とされる木造善妙神(ぜんみょうしん)立像および木造白光神(びゃっこうしん)立像があり、ともに国の重要文化財に指定されています。いずれも京都国立博物館などで何度か拝見していますが、いずれも見事な出来であり、かつての金堂の仏像群の素晴らしさが察せられます。

 

 金堂を見た後は、参道を引き返して、嫁さんが「宇治茶の発祥の地ですよ」という、上図の「日本最古之茶園」を見ました。

 

 「日本最古之茶園」の案内説明板です。宇治市の上林記念館でも、似たような説明を聞いた記憶がありますが、要するに京都で最初にお茶の栽培を行なったのがここ高山寺で、その茶苗を明恵上人が宇治へ移植したのが宇治茶の始まりであるということになっています。

 それが全国に広まったということですから、例えば大和茶も静岡茶も鹿児島茶も三重茶も、ここ高山寺発祥の宇治茶から分かれて行ったことになります。  (続く)

 


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