2024年11月9日、上図の阿弥陀寺を訪ねました。嫁さんも誘ったのですが、この日の午後にサークルの会合があるとかで、代わりに翌日にモケジョ仲間と行きますから、との事でした。
阿弥陀寺は、普段は非公開寺院ですが、令和6年度の京都非公開文化財特別公開の対象エリアが珍しく山科区に設定されて4ヶ所の寺院が公開となったうちの、初の特別公開寺院となりました。山科区の古刹はなかなか拝観出来ませんから、よい機会だと思って出かけたのでした。
門前の案内看板には、今回の特別公開にて披露される本尊の阿弥陀如来坐像以下の伝世文化財の名称が列記されていました。目玉はやはり本尊の阿弥陀如来坐像のようで、寺伝では恵心僧都の作、小松内大臣重盛公の念持仏、とされていました。
小松内大臣重盛とは、六波羅の小松第に屋敷を構えた平左近衛大将重盛のことです。平清盛の長男で、文武両道に長け、温厚柔和で冷静沈着な優れた武人でありましたが、病により41歳という若さで亡くなっています。平清盛政権が短命に終わった理由の最たるものが重盛を失った事、と当時から言われていましたから、相当な人物であったことは間違いありません。
その平重盛は、東山の小松谷に堂を建てて48体の阿弥陀仏像を安置し信仰したことで知られますが、その際に阿弥陀寺へ阿弥陀仏を移して本尊として祈念したとされています。現在の小松谷正林寺にはその48体の仏像は伝わっておらず、散逸したか、失われたかのいずれかと考えられますが、いまの阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像がそのうちの1体である可能性も考えられます。
阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像は、最近の修理で金泥に包まれて輝いていますが、作風から見て十二世紀後半以降の作とみられ、小松内大臣重盛公の念持仏とする寺伝とも符合します。美術史でいうところの藤末鎌初期の作であり、平重盛が造らせたものとみても矛盾しません。
なので、寺伝で恵心僧都の作とするのは、最初の本尊が平安期の作であったことを示すものと考えます。それがいつしか失われ、これに代わる二代目の本尊として現在の像が平重盛の関与によってもたらされたもの、と推定しています。
ということで、とりあえず本尊阿弥陀如来坐像の年代観と歴史的背景について私なりに推測をまじえて理解しましたので、続いて客殿の展示品などを見学し、約一時間ほどで上図の本堂を退出しました。
その際に、展示品の説明にあたっていた若住職の奧様が「山門のほうも見ていって下さい、中に説明板も置いてますので」と案内してくれましたので、では、と山門に向かいました。
阿弥陀寺の山門です。来た時に一度くぐっていますが、案内説明板は扉の内側に設けてあったので、入った時には気付きませんでした。
扉の内側に設けてあった案内説明板です。読み始めてまもなく、目が点になりました。「伏見城の遺構から調達した材を使い」再建されたとありました。するとこれは伏見城の解体建材を用いて建てられた門なのか、と驚き感動し、説明文を三度読みました。
しかも「林羅山の命で」とあります。徳川家康のブレーンの一人として江戸幕府の黎明期の基礎固めに多大な功績を遺した林又三郎信勝その人です。徳川期再建伏見城の解体および移築の事業にも関わったとされており、山科阿弥陀寺とどのような関連があったのかは分かりませんが、寺の賜紋のひとつが徳川葵であるのはそういうことか、と察しました。
それで、本堂へ引き返して、若住職の奧様に山門の説明文について質問したところ、寺でも山門については詳しい事が分からなかったが、近年に林羅山の子孫の方より山門寄進に関わる古文書の写しが送られてきて、それで初めて山門の由来が判明した、という意味の説明をいただきました。なんと林家伝来の古文書に記される内容であったか、と再び驚かざるを得ませんでした。
それで建立が元和七年(1621)、作事担当が左甚五郎および近江の大工達、という具体的な事柄が分かっているわけか、と納得しました。案内説明文では元和七年を1615年と記していますがこれは誤りです。
左甚五郎(飛騨ノ甚五郎)こと伊丹甚五郎は慶長十一年(1606)に京伏見禁裏大工棟梁の遊左法橋与平次に学び、元和五年(1619)に徳川将軍家大工頭の甲良豊後守宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として活動していますから、元和七年に林羅山の依頼で仕事をしてもおかしくはなく、時期的にも符合性があります。
また、近江の大工達、というのも、甲良豊後守宗広が近江出身で配下に近江の職人を抱えていた史実と矛盾しません。伊丹甚五郎が甲良豊後守宗広の女婿となったことにより、御作事掛大工方を近江の職人たちと共に担った流れがあって、ここ阿弥陀寺山門の建立も同じようなチームで請け負ったのだろうと思われます。
したがって、この山門は、確かな古文献史料によって旧伏見城の建材使用の事が記された、おそらくは唯一の事例かと思われます。
今までに京都市内外で多くの旧伏見城移築と伝わる建築を見て回ってきましたが、いずれも伝承のみで、確実な証拠や典拠を欠いていたため、建物の実物を見たうえで様式や特徴から、旧伏見城関連であるか否かを推測するしか無かったのでした。それだけに、林羅山の子孫に伝わる古文書からここの山門の建立の経緯が判明したというのは、感動的なことでありました。
現在、旧伏見城からの移築または建材による建築として確定しているのは、ただ一棟、広島県の福山城の伏見櫓(国重要文化財)であり、これは解体修理時に発見された「松ノ丸ノ東やくら」という陰刻が決め手となっています。今回の阿弥陀寺山門は、これに続く確定遺構となることでしょう。
上図は、山門の主要構造材となっている二本の本柱と、その上に横に渡される冠木を下から見上げたところです。門に使われている部材のなかで、この本柱と冠木の3本の材がひときわ太く、そして古びた雰囲気をまとっています。
そのことは、門をくぐった内側から見上げても分かります。御覧のように門の扉、屋根の垂木や敷板、控柱の全てが新しく見えますので、本柱と冠木の3本の材とは時期的な差があることが察せられます。おそらく、本柱と冠木の3本の材だけは「伏見城の遺構から調達した材を使い」再利用しているのでしょう。
門の横から、冠木の木口(こぐち)を見ました。御覧のように胡粉で白く塗られています。が、年輪の輪に沿って腐食が見られ、表面のやつれと併せて、製材後に相当の年数を経ていることがうかがえます。冠木以外の材がみんな表面もツルツルで新しく見えるのとは対照的です。
相当の年数、を具体的に推定すると十年余り、となるでしょうか。徳川期に伏見城の再建が始まったのが慶長七年(1602)6月頃で、これを建材の製材時期の一応の上限とみることも可能です。
そして伏見城の廃城が決まったのが元和五年(1619)、建物の解体や移築が進められて、元和九年(1623)7月時点では本丸の一部の建物が残っていた程度であったようです。
林羅山の命でここの山門を建てたのがその間の元和七年(1621)でありますから、まさに伏見城の解体や移築が進められていた時期に、その建材を山科阿弥陀寺に再利用したことが分かります。慶長七年(1602)からの再建工事で用いた建材を転用したならば、製材してから19年前後が経過していたことになりますが、その程度であれば、建材の再利用は十分に可能であったことでしょう。
そうなると、この建材は冠木門の体裁に整えられている点からみて、伏見城のどこかの通用門クラスのものを転用している可能性も考えられます。阿弥陀寺の山門として建立するにあたり、屋根や控柱を追加して寺院の門の形式に整えて現在の姿になった、という経緯が推定出来ます。城郭の冠木門の寺院への転用例は他でも幾つか見られますから、ここの山門もその一事例とみなせることでしょう。
ともあれ、京都市内に新たな旧伏見城の建築遺構の一例を見出すことになりました。この種の建材転用は、当時は徳川家に関連のある施設や寺院向けに普遍的に行われていたようですので、探せば他にも見つかるかもしれません。