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気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影31 山科阿弥陀寺山門

2025年03月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月9日、上図の阿弥陀寺を訪ねました。嫁さんも誘ったのですが、この日の午後にサークルの会合があるとかで、代わりに翌日にモケジョ仲間と行きますから、との事でした。

 阿弥陀寺は、普段は非公開寺院ですが、令和6年度の京都非公開文化財特別公開の対象エリアが珍しく山科区に設定されて4ヶ所の寺院が公開となったうちの、初の特別公開寺院となりました。山科区の古刹はなかなか拝観出来ませんから、よい機会だと思って出かけたのでした。

 

 門前の案内看板には、今回の特別公開にて披露される本尊の阿弥陀如来坐像以下の伝世文化財の名称が列記されていました。目玉はやはり本尊の阿弥陀如来坐像のようで、寺伝では恵心僧都の作、小松内大臣重盛公の念持仏、とされていました。

 小松内大臣重盛とは、六波羅の小松第に屋敷を構えた平左近衛大将重盛のことです。平清盛の長男で、文武両道に長け、温厚柔和で冷静沈着な優れた武人でありましたが、病により41歳という若さで亡くなっています。平清盛政権が短命に終わった理由の最たるものが重盛を失った事、と当時から言われていましたから、相当な人物であったことは間違いありません。

 その平重盛は、東山の小松谷に堂を建てて48体の阿弥陀仏像を安置し信仰したことで知られますが、その際に阿弥陀寺へ阿弥陀仏を移して本尊として祈念したとされています。現在の小松谷正林寺にはその48体の仏像は伝わっておらず、散逸したか、失われたかのいずれかと考えられますが、いまの阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像がそのうちの1体である可能性も考えられます。

 阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像は、最近の修理で金泥に包まれて輝いていますが、作風から見て十二世紀後半以降の作とみられ、小松内大臣重盛公の念持仏とする寺伝とも符合します。美術史でいうところの藤末鎌初期の作であり、平重盛が造らせたものとみても矛盾しません。

 なので、寺伝で恵心僧都の作とするのは、最初の本尊が平安期の作であったことを示すものと考えます。それがいつしか失われ、これに代わる二代目の本尊として現在の像が平重盛の関与によってもたらされたもの、と推定しています。

 

 ということで、とりあえず本尊阿弥陀如来坐像の年代観と歴史的背景について私なりに推測をまじえて理解しましたので、続いて客殿の展示品などを見学し、約一時間ほどで上図の本堂を退出しました。

 その際に、展示品の説明にあたっていた若住職の奧様が「山門のほうも見ていって下さい、中に説明板も置いてますので」と案内してくれましたので、では、と山門に向かいました。

 

 阿弥陀寺の山門です。来た時に一度くぐっていますが、案内説明板は扉の内側に設けてあったので、入った時には気付きませんでした。

 

 扉の内側に設けてあった案内説明板です。読み始めてまもなく、目が点になりました。「伏見城の遺構から調達した材を使い」再建されたとありました。するとこれは伏見城の解体建材を用いて建てられた門なのか、と驚き感動し、説明文を三度読みました。

 しかも「林羅山の命で」とあります。徳川家康のブレーンの一人として江戸幕府の黎明期の基礎固めに多大な功績を遺した林又三郎信勝その人です。徳川期再建伏見城の解体および移築の事業にも関わったとされており、山科阿弥陀寺とどのような関連があったのかは分かりませんが、寺の賜紋のひとつが徳川葵であるのはそういうことか、と察しました。

 それで、本堂へ引き返して、若住職の奧様に山門の説明文について質問したところ、寺でも山門については詳しい事が分からなかったが、近年に林羅山の子孫の方より山門寄進に関わる古文書の写しが送られてきて、それで初めて山門の由来が判明した、という意味の説明をいただきました。なんと林家伝来の古文書に記される内容であったか、と再び驚かざるを得ませんでした。

 それで建立が元和七年(1621)、作事担当が左甚五郎および近江の大工達、という具体的な事柄が分かっているわけか、と納得しました。案内説明文では元和七年を1615年と記していますがこれは誤りです。

 左甚五郎(飛騨ノ甚五郎)こと伊丹甚五郎は慶長十一年(1606)に京伏見禁裏大工棟梁の遊左法橋与平次に学び、元和五年(1619)に徳川将軍家大工頭の甲良豊後守宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として活動していますから、元和七年に林羅山の依頼で仕事をしてもおかしくはなく、時期的にも符合性があります。

 また、近江の大工達、というのも、甲良豊後守宗広が近江出身で配下に近江の職人を抱えていた史実と矛盾しません。伊丹甚五郎が甲良豊後守宗広の女婿となったことにより、御作事掛大工方を近江の職人たちと共に担った流れがあって、ここ阿弥陀寺山門の建立も同じようなチームで請け負ったのだろうと思われます。

 

 したがって、この山門は、確かな古文献史料によって旧伏見城の建材使用の事が記された、おそらくは唯一の事例かと思われます。

 今までに京都市内外で多くの旧伏見城移築と伝わる建築を見て回ってきましたが、いずれも伝承のみで、確実な証拠や典拠を欠いていたため、建物の実物を見たうえで様式や特徴から、旧伏見城関連であるか否かを推測するしか無かったのでした。それだけに、林羅山の子孫に伝わる古文書からここの山門の建立の経緯が判明したというのは、感動的なことでありました。

 現在、旧伏見城からの移築または建材による建築として確定しているのは、ただ一棟、広島県の福山城の伏見櫓(国重要文化財)であり、これは解体修理時に発見された「松ノ丸ノ東やくら」という陰刻が決め手となっています。今回の阿弥陀寺山門は、これに続く確定遺構となることでしょう。

 上図は、山門の主要構造材となっている二本の本柱と、その上に横に渡される冠木を下から見上げたところです。門に使われている部材のなかで、この本柱と冠木の3本の材がひときわ太く、そして古びた雰囲気をまとっています。

 

 そのことは、門をくぐった内側から見上げても分かります。御覧のように門の扉、屋根の垂木や敷板、控柱の全てが新しく見えますので、本柱と冠木の3本の材とは時期的な差があることが察せられます。おそらく、本柱と冠木の3本の材だけは「伏見城の遺構から調達した材を使い」再利用しているのでしょう。

 

 門の横から、冠木の木口(こぐち)を見ました。御覧のように胡粉で白く塗られています。が、年輪の輪に沿って腐食が見られ、表面のやつれと併せて、製材後に相当の年数を経ていることがうかがえます。冠木以外の材がみんな表面もツルツルで新しく見えるのとは対照的です。

 

 相当の年数、を具体的に推定すると十年余り、となるでしょうか。徳川期に伏見城の再建が始まったのが慶長七年(1602)6月頃で、これを建材の製材時期の一応の上限とみることも可能です。

 そして伏見城の廃城が決まったのが元和五年(1619)、建物の解体や移築が進められて、元和九年(1623)7月時点では本丸の一部の建物が残っていた程度であったようです。

 林羅山の命でここの山門を建てたのがその間の元和七年(1621)でありますから、まさに伏見城の解体や移築が進められていた時期に、その建材を山科阿弥陀寺に再利用したことが分かります。慶長七年(1602)からの再建工事で用いた建材を転用したならば、製材してから19年前後が経過していたことになりますが、その程度であれば、建材の再利用は十分に可能であったことでしょう。

 

 そうなると、この建材は冠木門の体裁に整えられている点からみて、伏見城のどこかの通用門クラスのものを転用している可能性も考えられます。阿弥陀寺の山門として建立するにあたり、屋根や控柱を追加して寺院の門の形式に整えて現在の姿になった、という経緯が推定出来ます。城郭の冠木門の寺院への転用例は他でも幾つか見られますから、ここの山門もその一事例とみなせることでしょう。

 ともあれ、京都市内に新たな旧伏見城の建築遺構の一例を見出すことになりました。この種の建材転用は、当時は徳川家に関連のある施設や寺院向けに普遍的に行われていたようですので、探せば他にも見つかるかもしれません。

 

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京都鉄道博物館12 幻の蒸気機関車とジオラマと運転席

2025年03月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅小路機関車庫から隣の旧二条駅舎に入った途端、嫁さんが「あっ、大きな蒸気機関車の模型がありますよ、すごーい!」と右側の大きなウインドーを指差して言いました。上図の1/12スケールのC63形1号機の模型でした。

 

 説明板です。嫁さんが「ほんまに幻のSLとして終わってしまったんですねえ・・・」と一通り読んでから少し残念そうに言いました。

「そうすると、さっき見たあの赤いナンバープレート、この機関車に関わる唯一の形見であるんでしょうね」
「まあ、レプリカでなくて本物であればな・・・」
「本物ですよ、きっと。他のナンバープレートも全部本物なんでしょう、やからC63の1のナンバーも本物なんですよ」

 

 C63形は、日本国有鉄道が計画し設計したテンダー式蒸気機関車の一種です。国鉄最後の制式蒸気機関車として計画されながらも、1956年(昭和31年)に設計図が完成したのみで、実際には製造が行われませんでした。それで、幻の蒸気機関車とも呼ばれています。
 計画では、地方ローカル線での客貨両用目的での使用を前提とし、主として老朽化が特に深刻化していたC51形を置き換える目的で設計されました。構造はC58形をベースにして、できるだけC51形に近い性能を得ることを目標とし、国鉄最後の新製蒸気機関車ということもあって、多くの新設計が取り入れられたといいます。

 

「なるほど、C58形がベースか、言われてみればよく似てるなあ」
「うん、うん、C63っていうからC62形と同じような大きな機関車かと思ってましたけど、違いましたね」
「主要路線じゃなくて地方ローカル線で使うのが目的やったんなら、ローカル線での万能機と言われたC58形がベースに相応しいわけやな。当時の主要路線はもうC62形とかが活躍しとったんやから、地方路線に新型機を入れるということでC63形を計画したけれど、国鉄の電化や無煙化への取り組みのほうが優先されたから、結局は開発中止になったと・・・」
「・・・それで、ナンバープレートだけを作って終わりになってしまったと・・・ですねえ」
「そういうことやな」
「なんかもったいないですねえ・・・、折角設計図まで出来てね、ナンバープレートも作ったのにねえ・・・」
「そういう声が実際に多かったやろうし、残念がる人々も当時は大勢居たんやろな、だからせめて模型で作って、その姿を後世に残そうとしたんやろな」
「そういうことですかー、だからNゲージでマイクロエースがC63形を出したんですかねー」
「たぶんね」
「やっぱり、買おうかなー・・・買っていいですか?」
「買っちゃうの?」
「だってねえ・・・、C63形って地方ローカル線向けに計画されたんでしょう、C51形を置き換える目的で計画されたんでしょ、山陰線でもC51形は走ってたそうやから、C63形がもし製造されてたら、山陰線にも配属されてC51形と置き換えになった可能性はあるんですよね?」
「言われてみればそうやな、山陰線にはC58形も走ってたんやから、その後継機タイプのC63形も運用される可能性もあったわけやなあ」
「うんうん、それそれ・・・、ですから、うちの山陰線ジオラマにマイクロエースのC63形も入線させて走らせますよ。幻のSLが甦って走ります、ってなんか素敵じゃないですか・・・」
「・・・まあ、好きにやって、楽しんで下さい・・・」
「わーい、やったー」

 

 旧二条駅舎の館内の展示は模型がメインでしたので、Nゲージの模型も沢山陳列されており、上図の大きなジオラマも展示されていました。モケジョの嫁さんにはたまらない空間であったのは間違いなく、いちいち私の肩をたたき、腕を引っ張り、あちこち指差してはハイテンションのまま各所の展示ケースにビタッと張り付いてゆくのでした。

 

 とくに上図の、昭和期の山陰線の丹波エリアの景色を模したとされるNゲージジオラマには、20分ぐらいは張り付いて観察し、スマホであちこち撮っていました。特に段々に連なる田畑や藁葺き屋根の民家の表現に見入り、「まるで美山かやぶきの里みたい」と言いました。

 

「これ、昭和でも初期の頃の景色みたいな感じしません?」
「あー、それはそうかも。この木造の橋なんて、戦後はもう見られなかったみたいやね」
「橋もそうですけど、道路がみんな未舗装っぽいんで、昭和の田舎でも思いっきり山奥の未開の村って感じ・・・」
「そのわりには奥に赤い立派な鉄橋が架かってるんやけどな・・・」
「そう、そうなんですよ、あれが全然この景色にマッチしてないんですよ、えらく浮いて見えちゃう・・・、あの鉄橋だけ近代化されててどーすんの、って感じ・・・」
「あははは」

 

「この駅も、思いっきり田舎の駅って雰囲気ですよね、田舎過ぎて・・・、ウチの山陰線ジオラマにはちょっと時期感が合わないかなあ・・・」
「君のジオラマは、だいたい昭和40年から60年代の時代幅で作ってるやろ、これは昭和30年代か、もうちょっと前の20年代の終戦直後の日本の山村って感じやもんな、車なんて走ってなさそうな、実際どこにも車が置いてない・・・」
「千代川も馬堀も並河もこんな田舎やった頃はあったんでしょうけど、昔の写真見てもあんまりそういう景色じゃないんですよね、亀岡や園部はもっと町っぽい感じだったし・・・」

 

 ジオラマの線路に置かれた機関車はC11形でした。かつての山陰線の主力機関車の一種でした。
「これの写真、よく見ますよ。山陰線の福知山とか亀岡とかで色々使われてたみたい・・・」
「確か、福知山駅だったか、保存車輌あるって聞いたな・・・」
「あー、それ福知山駅の南の公園ですよ、もとは機関区のあった場所らしいですよ、橋の上に機関車を置いて保存してあるらしいですよ、今度フクレル行く時に見ましょうよ」
「そうやな」

 

 それにしても、なかなか良くできたジオラマです。この時代の景色を再現したものはあまり見かけませんので、嫁さんにとっては色々と参考になったことでしょう。

 

 昔の日本の村の風景、という感じですが、やっぱり奥の赤い立派な鉄橋がミスマッチですね・・・。

 

 民家の並びや石垣、斜面の畑、段々の水田などは細かくリアルに造られています。奥の里山の部分も紅葉の彩りを添えて秋の風情を醸し出しています。

 嫁さんは、山陰線ジオラマの参考にしていましたが、こちらも大井川鐡道ジオラマを作っており、いまでも昭和レトロスタイルの鉄道設備のままで運行している大井川鐡道の沿線には、上図のような農村の景色も割と普通に見られますので、民家の藁葺き屋根を瓦葺か銅板葺きに換えるだけで、そのままいけそうな感じがあります。
 現在は井川線の範囲を作っていますので、メインは山の中の渓谷沿いの地形になっていて、民家は一軒も無いジオラマに仕上がる予定です。

 

 最後に嫁さんが関心を示したのは、C11形蒸気機関車の324号機の運転室のカットモデルでした。

 

 御覧のように運転室だけを保存して中に入れるようにしてあります。嫁さんは「運転席に座ったら、山陰線も大井川鐡道本線もどっちも雰囲気が楽しめますねー」と言い、上図の運転席に座ってハンドルやレバー類にも手を伸ばしてタッチして、御機嫌でした。ガチのモケジョさんですが、同時に完全な鉄子でもあるな、と思いました。

 

 色々楽しんで学んで体験して大満足、超御機嫌の嫁さんを先にして、京都鉄道博物館の旧二条駅舎より退出したのは16時27分、閉館時刻の3分前でした。

「次はね、福知山のフクレルに行きましょうよ、ね?」
「・・・はいはい」
「いつがいいですかねー」
「君に任せます」
「本当?わーい、やったー」  (了)

 

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京都鉄道博物館11 梅小路機関車庫とその模型

2025年03月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の梅小路蒸気機関車庫内の展示機を一通り見ました。

 

 機関車庫の扇形車庫は1914年(大正3年)に建設された鉄筋コンクリート造で、庫内の1915年(大正4年)完成の5トン電動天井クレーン、および引き込み線とともに、2004年に国の重要文化財に指定されています。ほかに土木学会選奨土木遺産、準鉄道記念物に指定されています。

 

 庫外の引き込み線にも2輌の蒸気機関車が停まっていました。見学通路からちょっと離れた位置にあり、1輌は大部分が隠れていて見えませんでした。

 

 それで手前の8620形の11号機を見ました。ナンバープレートは8630なので、8620形の付け番の計算式にあてはめれば、30ひく20たす1で11になるわけです。

 8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車の一種です。 1914年から1929年までに672輌が製造され、全国各地の路線で活躍しました。平坦で距離の長い路線に投入され、客貨両用に使用されたため、8620形の姿を見ない路線は無い、とまで言われました。
 現在も各地に約20輌が静態保存されており、ここ梅小路機関車庫の11号機は動態保存機として時々「SLスチーム号」を牽引しています。

 

 梅小路機関車庫の中央にある転車台です。

 

 転車台は、「SLスチーム号」のC56形機関車の停まっている側線に繋がっていました。C56形機関車をいつでも機関車庫内に収容出来るようにスタンバイしているのでしょうか。

 嫁さんが「こういう蒸気機関車の機関車庫とか、転車台とか、Nゲージでも見るとカッコイイですよ、そのジオラマがあるんで、見に行きましょう」と言いました。そんなジオラマ展示があるの?と訊き返した途端に、腕を引っ張られて、再び機関車庫内へ導かれました。

 

 機関車庫内の一角に、大きなNゲージの梅小路機関車区全域のジオラマが展示されていました。いま京都鉄道博物館の敷地になっている場所に、かつては梅小路機関区の機関車庫をはじめ庁舎や事務棟や検査工場、関連施設などが建ち並んでいたそうで、その往時の姿をNゲージサイズの1/150スケールにて再現してありました。

「おお・・・、これは凄いな・・・、素晴らしい」
「でしょ、でしょ、これ毎回必ず見てるんですよ。こういうの、家でも作りたい・・・」
「こんな大きな範囲を、山陰線ジオラマに入れるんかね?」
「ううん、無理無理。広い家に引っ越したらスペースがとれるかもだけど、今の家じゃ狭いからねえ・・・、それよりは福知山にあった機関車庫のほうが規模的にも小さいから作れるかも」
「福知山に機関車庫があったのか・・・、機関区があったから当然機関車庫もあったわけやな」
「うん、昔の写真とか調べたらね、福知山の機関車庫と転車台とかのがあったですよ。それを再現したNゲージのジオラマもあるんだって。今度見に行きません?」
「どこへ?」
「福知山のフクレル」
「ああ、福知山城の横に最近出来たという鉄道資料館のことか。そこにジオラマもあるわけか」
「うん」

 

 それからは二人で、めいめいの位置でケースにへばりついて広いジオラマを眺めました。上図は南からのアングルで、左側のホッパーと呼ばれる炭台やガントリークレーンのある位置が、いまの京都鉄道博物館の本館施設の南側にあたります。その南側に線路に沿って建ち並ぶ倉庫群のエリアは、いまは京都貨物駅のコンテナヤードの東端にあたっています。

 

 こちらは西からのアングルです。上図右の「梅小路機関区庁舎」の建物群の位置がいまの京都鉄道博物館の本館施設の北側にあたります。その左側に並ぶ線路の一部が、いまの京都鉄道博物館のプロムナードコーナーの線路として再利用されているようです。それらの線路に置かれているのが旧型客車ばかりなので、かつては客車などの駐機場だったのでしょうか。

 

 その客車が置かれた線路のエリアが、上図のように「梅小路客貨車区」とありました。客車だけでなく貨車もこちらで管理していたようです。

 

 東からのアングルです。機関車区の横を山陰線が通っているのは現在も変わりません。山陰線と扇形機関車庫との間は現在は緑地になっていますが、かつては「投炭練習室」や「講習室」などの教育関連施設が並んでいたようです。

 嫁さんが、首をかしげつつ、山陰線の横にある「投炭練習室」を指差して言いました。

「投炭練習室って何ですかね?・・・石炭を投げる練習?」
「投げるんじゃなくてな、蒸気機関車の釜に石炭をくべることを「投炭」と呼んだの。単に放り込めば良いものではなくって、釜に投じる量とかタイミングとか、色々と熟練の技が要求されたんで、そういうのを練習したんやな。「投炭」そのものも過酷な重労働なんで、なるべく体力を削らないで効率的に行う姿勢、動作手順があったというから、そういうのも練習していたんと違うかな・・・」
「ふーん、蒸気機関車って、色々と手間がかかってたんですねー」  (続く)

 

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京都鉄道博物館10 梅小路機関車庫のSLたち 下

2025年03月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の梅小路機関車庫の続きです。マイテ49形の特別展示の横には、上図のC51形239号機がお召列車の装いで展示されていました。京都鉄道博物館で保存しているC51形239号機を、去る2019年3月の「梅小路京都西駅」開業に合わせて、梅小路機関区所属機のお召し仕様に装飾し直したものだそうです。

 

 C51形は、日本国有鉄道の前身である鉄道院が1919年に開発した幹線旅客列車用の大型テンダー式蒸気機関車の一種です。製造当初は18900形と称しましたが、1928年6月の形式番号改変にてC51形と改められました。 1919年から1928年までに289輌が製造され、1920年代から1930年代にかけて主要幹線の主力機関車として活躍、1930年から1934年まで超特急「燕」の東京・名古屋間の牽引機を務めました。国鉄の蒸気機関車としては比較的早い時期、1966年に全廃されたため、いま完全に現存しているのはここの239号機と、埼玉の鉄道博物館の5号機の2輌だけです。

 この239号機は、お召し列車の専用機関車に指定され、1928年11月の昭和天皇の大礼から1953年5月の千葉県下植樹祭までに104回にわたりお召し列車に起用されています。お召し列車の専用機関車としては歴代最多の栄誉に浴した名機であり、ここでのお召し仕様展示もその歴史をふまえてのものであるそうです。

 

 嫁さんが「これ手塚治虫の「火の鳥」みたいなデザインに見えますね、鳳凰ですか?」と訊きました。そうだ、と答えておきました。鳳凰は、菊花紋とともに皇室を象徴する意匠として知られます。機関区によってそれぞれのデザインがあったそうで、こちらのは梅小路機関区のデザインであるそうです。

 

 隣にはD51形のトップナンバー機がありました。日本を代表する蒸気機関車として知られています。
 D51形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計、製造したテンダー式蒸気機関車の一種です。全国各地の主要路線のみならず、地方線においても主に貨物輸送の牽引車として活躍しました。1935年から1945年までに製造され、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄の在籍車輌総数だけでも1115輌に達し、台湾や外地向けの製造分も含めると1184輌に及びます。これはディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車の一形式の製造輌数としては最多であり、この記録は現在も更新されていません。

 そのためか、現在も保存機が全国各地に100輌余りあって、動態保存されているものも2輌が知られます。かつては山陰線でも福知山機関区所属の数輌が活躍していて、初期型と標準型と戦時型の三つの仕様が存在していました。

 嫁さんが自らのNゲージの「山陰線ジオラマ計画」用に購入したのは、福知山機関区に居た727号機と同じ標準形の後期型仕様と同じタイプの、マイクロエースの750号機です。嫁さんはさらに戦時型も購入する予定だそうで、かつて園部車輌区に属した1018号機と同じ戦時型仕様のタイプとしてマイクロエースの1002号機に目を付けている、と話しました。
 それで、初期型は買わないのか、と尋ねたところ、「亀岡車輌区に25号機や66号機が居たそうなんで、いずれはナメクジ型も買わないといけないですねえ、・・・買っていいですか?」と聞き返してきました。こちらとしては嫁さんが楽しんでいれば十分なので「もちろん、好きな時に買ったらええ」と答えておきました。すると笑顔で頷いていました。

 嫁さんは、ガチのモケジョだけあって、ふだんから模型やプラモに色々とお金を使っていますが、どちらかといえば節約、倹約する主義で、決して無茶したり衝動買いしたりして、やたらに買いまくるようなことは絶対にしません。ひと月幾らまで、と決めてその範囲内で中古ショップなどでコツコツと買っていますが、買わないで資金を貯めている期間のほうが長いです。その様子を結婚前からずっと見て知っているので、私としては特に言うことはありません。

 

 D51形の隣には、C11形の64号機が居ました。嫁さんが「大井川鐡道のきかんしゃトーマスになってる機関車ですよねえ、でもなんか、見た目の印象が違うような気がしますねー」と言いました。

「そりゃあ、トーマスのほうはデフが無いし、ヘッドライトも下に移してあるもんな」
「あっ、そうですねえ、デフレクターがこっちは付いてるんですねえ・・・、大井川鐡道のは、C10形もデフレクター付いて無いですもんね、スッキリしたイメージがあります・・・」

 

 C11形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1932年に設計したタンク式蒸気機関車の一種です。明治期以降に導入および製造された、種々雑多な種類の機関車の運用が煩雑でコストもかかり、それらが老朽化していたのをまとめて置き換えるため、規格および形式の統一化を図って開発されました。1932年から1947年までに381輌が製造され、全国各地のローカル路線で主力牽引車として活躍しました。小型で扱いやすく、維持費も比較的安く済むことから、いまも数輌が動態保存されて各地で運用されており、静態保存機も全国各地に多数が残されています。

 このC11形は、大井川鐡道に集中して残されており、動態保存機が2輌、静態保存機が1輌、導入予定機が1輌の計4輌にわたっています。私も数度のゆるキャン聖地巡礼にて大井川鐡道に乗り、動態保存機のうちの2輌つまり227号機とトーマスに扮している190号機、静態保存機の312号機を見ています。
 嫁さんも、模型仲間と去年に初めて大井川鐡道に行ったときはトーマス列車に乗っていますから、190号機の動いているのを見てきているわけです。

 

 次に、修理中のC62形2号機を見ました。2024年の1月に操作ミスによる炭水車の脱輪事故を起こして以来、ずっと、庫内での修理作業が続けられているようでした。

 

 御覧のように前から庫内に突っ込んで、炭水車を外して隣の線路に移してありましたので、運転室の様子だけでなく、その床下の車台や各機器の様子がよく見えました。というか、見えるようにしているのでしょう。

 

 嫁さんが「こんなふうに機関車の後ろの断面を見られるのって、あんまり無いんじゃないですか?」と言いました。
 確かに、解体や廃車の車体ならば、こういう風に見られるかもしれませんが、車籍もある現役の蒸気機関車では通常は炭水車が繋がっていてこのようには見えません。稀な機会であるのは間違いありません。

 

 大型の機関車ですからボイラーも大きくて、運転席も広くてゆったりした空間を持っています。操作機器のハンドル類もあまりゴチャゴチャと付いていない感じで、ボイラー本体の広い壁面が印象的でした。

 

 隣の線路に置いてあった炭水車です。その後部台車が手前に引きだしてあり、これが事故で脱輪した台車なのかどうかは分かりませんでしたが、どこにも破損個所はみえず、修理も完了しているもののように感じられました。いずれは元のように「SLスチーム号」の牽引運転に復帰するのでしょうか。

 この2号機は、周知のように除煙板にステンレス製の「つばめマーク」が取り付けられており、「スワローエンゼル」の愛称で親しまれてここ梅小路機関車庫の顔として知られます。

 

 C62形2号機の隣には、既視感のあるディーゼル機関車が居ました。嫁さんが「あっ、あれ、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車の機関車じゃない?・・・ナンバーも同じですよね、ね?ね?」と嬉しそうに指さしながら私の肩を揺すりました。

 その通り、以前に嫁さんと嵐山のトロッコ列車に乗りに行った時の牽引機関車、DF-10形の1104号機でした。当時のレポートはこちら

 

「わー、ほんまにここの所属機なんだあー、定期的にメンテナンスを受けてるわけですねえ」
「そうやな、嵯峨野観光鉄道はJR西日本の子会社やから、これの整備もJR西日本に委託してるんかもな」

 

「これがここに居てるってことは、いまのトロッコ列車は別の機関車が引いてるってことですよね」
「予備機があると聞いてるが。何号機なんかは知らんけど」
「ちょっと調べますね・・・、(しばらくスマホで検索)・・・分かりました、1156号機です。これと同じ塗装ですけど、籍はJR西日本の所属ですって」
「まあ、そうなるやろうな。嵯峨野観光鉄道には引込線も検車区も無いからな、線路は嵯峨野線に繋がってるし、ここまで持ってこられるから、予備機も整備もJR西日本が受け持つことになってるわけやな」
「そういうことですねえ」

 

 庫内の一番端の駐機線には、上図の7100形7105号機「義経」号が居ました。
 7100形は、日本国有鉄道の前身である鉄道院、鉄道省が、1880年の北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたってアメリカ合衆国から輸入したテンダー式蒸気機関車8輌のうちの1号機です。大正期には全車が廃車となり、そのうちの3輌が現存しています。1輌は「弁慶」号の名で埼玉の鉄道博物館に、もう1輌は「静」号の名で小樽市総合博物館に展示されています。  (続く)

 

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京都鉄道博物館9 梅小路機関車庫のSLたち 上

2025年03月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅小路機関車庫の引込線内の約1キロを往復する、上図の体験展示「SLスチーム号」がホームに停まっていました。嫁さんに「どうする?乗る?」と聞きましたが、「見てるだけでいいです。あれって、客車が窓無しの開放タイプでしょう、蒸気機関車の煙とか煤とかが飛んできて、服についたりするの、あかんですので・・・」と少し残念そうに答えました。

 

 C56形160号機です。160輌が製造されたC56形のラストナンバー機で、1939年に川崎車輌兵庫工場にて製造されました。戦前は津山機関区、戦後は鹿児島機関区や横浜機関区を経て、1964年から上諏訪機関区に移り、小海線や飯山線や七尾線などで運用されました。
 ここ梅小路運転区へ移ったのは1972年で、以後は動態保存機となり、SL北びわこ号やSLやまぐち号の牽引機関車として活躍しましたが、2018年に本線運転を終了し、現在に至っています。

 

 正面観です。嫁さんが「この形式が、大井川鐡道千頭駅のジェームスですよね?」と言いました。その通り、大井川鐡道では同じC56形の44号機が動態保存機となっていますが、不具合のために長らく運用されておらず、千頭駅のトーマスコーナーにて赤い車体のジェームスに扮しています。

 それとは別に、大井川鐡道ではもう1輌、135号機が兵庫県の播磨中央公園から移されて現在は動態復元工事を受けているそうです。その復元工事は大井川鐡道の「創立100周年記念チャレンジプロジェクト」の一環として、費用がクラウドファンディングによって集められました。
 私と嫁さんも、ささやかながらそのクラウドファンディングに参加しましたので、135号機が大井川鐡道本線を走る日を楽しみにしています。

 

 さらに嫁さんは「これ、カトー・・・」と呟きました。その通り、カトーが販売しているNゲージ製品がこの160号機を忠実にモデル化しています。マイクロエースからも出ていますが、我が家では大井川鐡道のジオラマ用として、44号機や135号機と同じ初期型タイプのほうをマイクロエースの製品で購入しています。

 上図の160号機は後期型で、大井川鐡道の44号機や135号機の初期型との相違点は、デフレクターの点検窓がある、テンダー後部のヘッドライトが高い位置にある、等が挙げられます。

 

 梅小路機関車庫の保存機の見学に移りました。一番右端の待機線には上図のB20形10号機がありました。嫁さんが「Bってことは動輪が2つですねー、小っちゃい機関車ですねー」と言いました。

 B20形は、日本国有鉄道の前身である運輸通信省(のちに運輸省に改組)が第二次大戦の末期から終戦直後にかけて製造した入換作業用の小型タンク式蒸気機関車です。戦時中に規格生産されたため、徹底した資材節約と工数削減化がはかられて生産性重視の省力構造とされ、製造数も15輌と必要最低限にとどめられています。現存するのはトップナンバーの1号機とこちらの10号機のみで、こちらは動態保存となっていて、いまでも時折機関車の入換作業に使われています。

「これって、山陰線でも運用されてたんですかね?」
「どうやろうな、戦時中の製造やから材質も工作精度も悪かったやろうし、おおかたは終戦後に整理されちゃったと聞いてるし・・・。残ってても機関区内での入換作業にしか使わなかったみたいやから、鉄道マニアの方が撮る機会も稀やったろうし、蒸気機関車の昭和の写真集とかは沢山あるけど、B20形の写真図版ってのは見たことないなあ・・・。山陰線にも配置されてたか、てのは分からんね・・・」
「お義父様の鉄道関係の資料とかにも無いんですか?」
「無いと思う。B20形は完全な国策による統制規格型の機関車やから、製造は当時の鉄道省が全部やってて、民間の工場は立山工業(現在の大谷製鉄)が終戦後にタッチしたぐらいか」
「じゃあ、これ、この10号機は鉄道省の?」
「いや、戦時中に鉄道省が造ったんは5輌やから、あとは終戦後に立山工業が10輌を追加製造してるんで、この10号機も立山工業製やろうな」

 

 B20形の隣から扇形車庫内の展示機の並びになりました。その最初は上図のC59形でした。
 C59形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車の一種です。1941年から1947年までに173輌が製造され、東海道線や山陽本線などの主要路線で特急列車を牽引、お召列車にも充てられるなど、C62形の登場まで国鉄特急の花形として活躍しました。いま現存するのは、この164号機を含めて3輌です。

 

 次はC53形の45号機でした。C53形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を参考にして国産化したテンダー式蒸気機関車の一種です。1928年から1930年までに97輌が製造され、各地の主要幹線での急行列車牽引機関車として活躍しました。現存するのは、この45号機のみです。

 

 次はD52形468号機でした。マンモス機関車の俗称の通り、大きくてがっしりした武骨な姿が印象的です。
 D52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦時中に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。戦時輸送のために導入された大型貨物用蒸気機関車であり、資材不足に対応した戦時設計となって1943年から1946年までに285輌が製造されました。
 しかし、戦時中の粗製乱造などがたたって粗雑な製造個体が多かったため、戦後に相当数が性能悪化で廃車となり、また改造されてC62形やD62形へと転じたため、1962年時点で在籍していたのは154輌であったそうです。全国各地の主要路線で貨物列車牽引の主力として活躍し、いまはこの468号機を含めて7輌が保存されています。

 

 次はD50形の140号機でした。
 D50形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦前に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。開発当初は9900形と呼ばれましたが、1928年からD50形に形式変更されました。1923年から1931年までに380輌が製造され、9600形に代わる強力な機関車として置き換えられて全国各地の主要路線で活躍しました。信頼性の高さから、後継機のD51形が登場した後でも併用して運行され、さらに78輌がD60形に改造されて延命されました。現存するのはここの140号機を含めて2輌のみです。

 

 次は嫁さんがお気に入りのC58形の1号機でした。山陰線でも活躍していたからです。
 C58形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省、運輸通信省、運輸省が開発した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。ローカル線用の客貨兼用として設計され、 1938年から1947年までに431輌が製造されました。性能も良く、貨客両用の万能機として重宝され、任務も列車輸送のほか本線入換や支線運用など多岐にわたり、全国各地のローカル線や都市部の入換用として使用され、千葉、和歌山、四国全域では主力機関車として活躍しました。
 山陰線においては、浜田、福知山、豊岡、西舞鶴の各機関区にあわせて10輌前後が配置され、嵯峨野線での運用もみられて昭和期の京都駅までの旅客および貨物列車を牽引する姿が多数の写真集などに残されます。
 各地で活躍して親しまれたため、現存数も多く、ここのトップナンバー機をはじめ全国各地に40輌余りの静態保存機と2輌の動態保存機があります。

 

 次のC55形もトップナンバー機でした。
 C55形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、亜幹線旅客列車用の中型テンダー式蒸気機関車の一種です。1935年から1937年までに62輌が製造され、本州や九州や北海道の幹線および亜幹線へ配置されて活躍しました。強化型であるC57形がすぐに登場して大量製造されたため、その陰にあって目立たない存在でした。が、性能や使い勝手が良好であったことにより、北海道や九州においてはC57形よりも長く運用されていたそうです。
 ただ、本州では比較的早期に廃車となったため、現存機もここの1号機を含めて4輌しかありません。

 

 次は、梅小路機関車庫の顔とも言うべきC62形の、これもトップナンバー機です。
 C62形は、日本国有鉄道が運用した最後の旅客用テンダー式蒸気機関車です。D52形からの改造という名義で、1948年から1949年にかけてで49輌が製造され、輸送量を要求される東海道本線、呉線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用されました。C59形の後継機として特急列車の花形となり、1950年より特急「つばめ」および「はと」を牽引、寝台特急の「あさかぜ」「みずほ」「はやぶさ」等の牽引車としても活躍、日本の蒸気機関車の歴史の最後の華として輝かしい実績を残しました。
 現存するのは5輌で、うち1号機を含めた3輌がここ京都鉄道博物館の展示機です。2号機は車籍もあって動態保存となっていますが、2024年の1月に操作ミスによる脱輪事故を起こし、このときは庫内での修理作業の最中でした。

 

 その隣には客車が後尾を前にした状態で置いてありました。マイテ49形の2号車です。先月10月の14日の「鉄道の日」に準鉄道記念物に指定されたということで、それを記念して特別に公開されていたものでした。

 マイテ49形は、日本国有鉄道が製造した展望車の一種で、もとは日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年から製造した20メートル級鋼製客車の形式である国鉄スハ32系客車の一種でした。当初はスイテ37040形と呼ばれましたが、戦後の形式変更によりマイテ49形となり、1960年に廃車となりました。

 その後は大阪の交通科学博物館に保存されていましたが、1987年に車籍復活させてJR西日本が引き継ぎ、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車や団体臨時列車で運用しました。2022年に日本の鉄道開業150周年記念の一環として京都鉄道博物館への収蔵が決まり、現在に至っています。  (続く)

 

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京都鉄道博物館8 梅小路機関車庫へ

2025年03月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館の二階にあがりました。建物は中央が吹き抜けになっていて、上からメイン展示の特急電車車輌3種を見下ろせます。

 

 嫁さんに続いて、ぐるりと回りました。鉄道車輌を上から見下ろす機会は滅多にありませんが、鉄道模型Nゲージではいつものことなので、ああこの車輌はNゲージでも見たなあ、天蓋の形状とかそのまんまだな、などと思い出したりしました。

 

 二階の展示には模型が多く、上図のNゲージの車輌も沢山並んでいました。鉄道模型店のショーウインドーよりも大きく長い展示スペースはさすがに迫力があり、各種の編成の列車が並んでいてもまだスペースに十分な余裕がありました。

「これ、Nゲージの色んな列車、ここの所蔵品なんですかねえ?」
「たぶんそうやろ、もとは大阪の交通科学館にあったのを引き継いでるかもしれん」
「あっ、そうか、そうですよね」
「ざっと見ると、殆どはJR西日本所管の列車みたいやな」
「でも外国の列車も混じってますよ・・・」

 

 こういう展示は、最近にNゲージにはまり出して熱中している嫁さんにも私にも、興味深くて楽しいものでした。みんな欲しい、全部買い揃えたらいくらかかるんだろう、と嫁さん。

 

 二階の展示を一通り見て回りました。半分ほどはジオラマ展示で、子供たちや家族連れのたまり場になっていましたので、それらは避けて進みました。順路に沿って最後まで行くと、連絡デッキへの通路に出て、上図の景色が見えました。東寺の五重塔が見えました。

 

 連絡デッキを渡ると、SL第二検修庫と呼ばれる建物の頂上を通って下へ降りる階段がありました。SL第二検修庫の頂上には見学用の窓があり、のぞくと上図のようにSL第二検修庫の内部が見下ろせました。
 C系蒸気機関車のものとみられる大きな動輪が三つ、レールの上に置かれていましたが、それ以外の本体や部品が見当たりませんでしたので、どこかへ修理か検査に出しているのだろうか、と思いました。

 

 SL第二検修庫の頂上から下りていく階段は、東つまり京都駅の方向に向かっています。それで東海道線や山陰線の線路も望まれます。手前には引込線や駐機線が並びますが、左側の線路は京都鉄道博物館の専用線であるらしく、蒸気機関車が2輌見えました。

 

 階段を下りながら左手、北を見ると、御覧のように梅小路機関車区の扇形車庫が見えます。中心の転車台から扇形車庫内へ伸びる線路の殆どに蒸気機関車が停まっているのが圧巻です。このエリアは、昔に見た梅小路蒸気機関車館の姿そのままであるようでした。これを取り込んで展示エリアの一角に組み込んだのが、いまの京都鉄道博物館であるわけです。

 

 再び、引き込み線の左端の駐機線に停まっている蒸気機関車2輌に視線を戻し、デジカメの望遠モードで引き寄せて撮りました。9600形でした。ナンバープレートは9633ですから、9600形の34号機にあたります。

 

 9600形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1913年から製造した、最初の本格的な貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車です。誕生当時の正式名は「鉄道院第九六〇〇號形式機関車」であり、1926年までに770輌が製造されました。
 「キューロク」の愛称で親しまれ、四国を除く日本全国の各路線で長く活躍しました。国鉄においては最後まで稼動した蒸気機関車でもあったため、石炭貨物列車に使用されていた北海道および九州を中心に、全国各地にいまも多数の静態保存機が残されています。

 ここの9633は、2006年に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として準鉄道記念物に指定されています。1972年の梅小路蒸気機関車館の開館当初は車籍を有する動態保存車でしたが、現在は除籍され静態保存となっています。

 

 西に傾きつつある太陽がナンバープレートにまともにあたって、数字が見えにくいほどに輝いていました。車体が黒いので、金色の光彩が対照的にピカーッと目にも刺さってくるのでした。

「わー、まぶしい、まぶしすぎますー」
「ナンバープレートの枠とか数字が金色やもんな・・・」

 

「そういえば、これのNゲージ、持ってましたよね?・・・大井川鐡道の機関車、でしたかね?」
「うん、千頭駅に居るトーマスファミリーのヒロや」
「あ、あれも9600形なんですか。デゴイチかと思ってました・・・」
「ああ、あれはデフ板と砂タンクが付いてるから、パッとみたらD51形にも見えるな」
「そのヒロの9600形のナンバーは?」
「確か、49616やったと思う・・・」
「そうすると、4かける100に16プラス1を足して、417号機ですか」
「もう付け番の計算式、覚えてんやな」
「それはもう、教えて貰った事はしっかり覚えますよー」

 

 9600形の後ろには、上図のC61形2号機が停めてありました。C61形は、1947年から1949年にかけて、D51形のボイラーを流用して製造された日本国有鉄道の急行旅客列車用テンダー式蒸気機関車です。33輌が製造され、主に東北や九州で活躍しました。東北本線、常磐線、奥羽本線、日豊本線、鹿児島本線などの地方幹線に配属され、旅客列車を中心に多くの列車を牽引しました。

 上図の2号機は、D51形1109号機の改造機として1948年に三菱重工業三原工場で製造され、仙台機関区(現・仙台車両センター)の配属となって、東北本線や常磐線で活躍しました。のちに宮崎機関区に転属し、日豊本線で使用されたあと、1972年に梅小路機関区に移されて現在に至ります。
 いま4輌が現存するうちの2輌の動態保存車の片方で、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定されており、2018年頃まで引込線内にて「SLスチーム号」の牽引機として稼働していました。  (続く)

 

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京都鉄道博物館7 目玉の車輌たちとSLナンバープレートの数々

2025年03月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の続きです。中央のメインホールに並ぶ3輌の車輌は、いずれもJR西日本を代表する特急車輌として知られます。上図は前回紹介した489系のクハ489形1号車です。

 

 その隣には583系のクハネ581形35号車が並びます。国鉄が設計し製造した動力分散方式の交直両用特急形寝台電車の一種です。1967年から1972年までに434輌が造られ、全国各地の主要路線で夜行列車および昼行特急として活躍しました。JR西日本での最後の列車の運行は2013年の事でした。

 

 嫁さんが「これも昭和の電車って雰囲気ですねえ、引退してから10年ぐらいですから平成にも走っていたわけですねえ」と言いました。

「君はこれを例えば京都駅とかで見たこと無いのかね」
「うん、無いと思いますね。ここで初めて見た気がするので・・・。乗った事あります?」
「あるよ、敦賀や金沢へカニ食べに行ったな。これの特急「雷鳥」に何度か乗ったけど、デザインカラーがこれと違ってた気がする。山陰線特急カラーみたいなグレー系やったと思う・・・前面がグレーで下に白の横線が何本か並んでて、側面は窓周りのブルーの下に黄色のラインが引いてあったかな・・・」
「あー、それNゲージで見たことありますよ、トミックスの特急「きたぐに」でしたかね」
「あっ、そうやな、それや。「きたぐに」は大阪から新潟まで行くけど同じ北陸線を走るから、車輌を「雷鳥」でも使ってたんやろうね」
「雷鳥って、いまのサンダーバードのことですよね」
「そうやな。むかしは「ライチョウ」と呼んだけど、車輌が新しくなった時に「サンダーバード」と改称したんやろな」
「雷鳥を英語で読んだらサンダーバードになるわけですねえ」
「え?・・・いや違うで。雷鳥は英語でグラウス(Grouse)や。サンダーバード(Thunderbird)ってのはアメリカインディアンの伝説に登場する雷鳴と稲妻の精霊のことや」
「ええ、そうなんですかー」

 

 こちらは新幹線の500系、521形の1号車です。最近まで東海道・山陽新幹線で「こだま」として普通に走っていたので嫁さんも私も何度か乗っています。現在も山陽新幹線で「こだま」として現役の数編成が走っていますが、次代のN700系への置き換えが進んでいるそうで、2027年には全廃される予定だそうです。

 

 500系は、JR西日本が独自に開発し製造した新幹線車輌です。自社路線の山陽新幹線の、航空機への競争力強化の一環として、車体強度・台車強度・力行性能などのすべてを320キロ運転対応として設計したもので、1996年から1998年までに16輌編成9本の合計144輌が製造されました。144輌の最低限数にとどまったのは、1輌あたりの製造コストが3億円を超えるという高コストの車輌であったためでした。

「コストが高かったから廃車になるのも早かったんですかねえ」
「それもあるやろうけど、500系ってのは、山陽新幹線の線形に合わせて開発されて320キロを出せるけど、東海道新幹線のほうは線形の関係で320キロを出せないの。確か上限が270キロまでやったと思う。それで500系は性能的には過剰やったんで、それでコストも高いときてるから、すぐにJR東海とJR西日本が共同で次世代の車輌の開発にとりかかって、それで出来たんが現行のN700系なわけ。そっちのほうがコストも安くて、東海道と山陽を通しで走らせても問題ないから、N700系は2992輌も造られて新幹線の主力になってて、いまは最新型のN700S系に発展しとるというな」
「なるほどー」

 

 嫁さんが「こうしてみると、この3輌、JR西日本の昭和、平成の代表的な特急電車を並べてるわけですねー」と言いました。同時に、運行当時に最も人気があった特急電車の車輌3種を並べている、という形でもあります。

 

 メインの特急車輌3種の向かいには、上図の230形蒸気機関車の233号機があります。
 230形は、日本国有鉄道の前身である逓信省鉄道作業局(官設鉄道)が発注したタンク式蒸気機関車です。日本にて量産が行われた最初の蒸気機関車の形式であり、日本で2番目の民間機関車メーカーである汽車製造会社が初めて官設鉄道に納入した機関車です。

 

 案内説明板です。230形機関車は43輌が製造されましたが、現存するのは2輌のみで、こちらの233号機は保存状態が極めて良好です。1959年の廃車後、1967年から2014年まで大阪の交通科学博物館で展示されていたものを、こちらに引き取ったわけです。
 2004年に鉄道記念物、2007年に機械遺産、そして2016年に国の重要文化財に指定されています。日本最初の量産型機関車であることにより、国内の鉄道遺産の最高ランクの資料として認定されたわけです。

 

 案内説明板はもう一種ありました。さっきのは国重要文化財の説明板で文化庁が設置したものですが、こちらは京都鉄道博物館の設置分です。

 

 続いて嫁さんが注目していたのが、本館内の北壁にずらりと貼られたナンバープレートの列でした。大半は蒸気機関車のものですが、一部に電気機関車やディーゼル機関車の分も混じっています。

 

 ナンバープレートは右から古い順に貼られているようです。一番最初が1800形の2号車のナンバーで、これは館内に展示されている1800形機関車がもと付けていたものです。

「その次の番号って、28686てありますよね、28626形の機関車だったんですかね?」
「いや、あれはハチロクや。8620形蒸気機関車のことで、28686ってのは、ええと、ええとな・・・、計算するからちょっと待って・・・、よし、167やな、つまり8620形の167号機」
「えええ・・・、なにそれ・・・、28686が167号機って、全然分かんない・・・、ナンバープレートに6の数字はあるけど1と7の数字は無いじゃないですか・・・」
「やから、これは8620形独自の番号の付け方があるんよ・・・、千の単位の8と百の単位の6はハチロクの通し番号なの。これはずっと変わらない。番号の付け方は80進法なんで、万の単位の数字は80でかけるの。それから十の単位は8620形の20から付けてるんで、計算では十からの2ケタの数字は20で引くの。そういう独自の計算式があってな、正確には万の位の数字かける80、プラス十の単位からの二桁の数字から20を引いた数字、これにプラス1で、付番が決まるの。分かるかな・・・」
「うーんと、じゃあ28626は、2かける80で、プラス26から20を引いて、これにプラス1なの?全部足したら167、あー、167番ってわけですねー」
「そうそう、じゃあ、あの右端の38636って分かる?」
「3かける80の、プラス36から20引いて1をプラス、で240プラス17だから257、・・・257番?」
「そう。理解出来た?」
「なんとか・・・、そうなんだあ、8620形のナンバーってそうやって付けたんですか、なんか驚き・・・、でもなんでそんなややこしい付け方になったんですか?」
「説明するとやな、8620形の1号機は8620やから2号機は8621になる。それで順番に付けて行くと80号機で8699になる、やろ?」
「うん」
「すると81号機は8700となるんだが、当時は8700形機関車というのがあってな、その番号とダブるから、81号機は万の単位の数字を追加して18620としたわけ」
「へええ、18620・・・、計算すると80のゼロの1でプラスして81・・・、なるほど81番ですねえ、そうすると82号機は18621になる?」
「そう、そういう番号の付け方になる」
「うわあああ・・・、なんか凄い知識を覚えた気がするー。こんな計算の仕方、よく知ってますねえ・・・」
「父に教わったからね・・・」
「あっ・・お義父様に・・・そういえば鉄道の技術者だった方ですね・・・そういった計算式は基礎知識ですよね」
「だから8620形だけじゃなくて9600形、キューロクの付け番の計算も教わった」
「9600形蒸気機関車の?・・・大井川鐡道の千頭駅にあるヒロの元の機関車?」
「うん、あれに見える29642とか39621とかが9600形のナンバーや。千の単位の9と百の単位の6はキューロクの通し番号なんで、その96の数字が付いてたら全部9600形になる」
「番号はどう計算するんですか?」
「キューロクの場合は万の位の数字を100でかける、それと、十の位からの2ケタの数字にプラス1、これを全部足せばええんや」
「じゃあ、29642は、2かける100、42に1プラス、全部足して243、243番?」
「そうです」
「わーい、また覚えました。いつか誰かに自慢してやろうっと・・・」

 

「ナンバープレート、色んな機関車のを集めてありますね、かつて存在したのが廃車になったときに、ナンバープレートだけ残したんですね」
「そうやな」

 

「するとCはC11から始まってますけど・・・、あれ?・・・大井川鐡道で走ってるのC10ですよね?」
「ああ、C10形から始まるんやが、C10形は製造数が23輌しか無かったんで、ナンバープレートも回収出来なくてここには無いんやな」
「そうなんですかー」

 

「するとCが付く蒸気機関車は11、12と50から並んで、最後は63が見えるので、C63形までがあるわけですね」
「え?」
「えっ、何?」
「いまC63形と言わなかった?」
「うん、C63形まで」
「それはおかしいで。C62形までが存在したけど、C63形ってのは無かったんや」
「じゃあ、なんでナンバープレートがあるんですか?」
「えっ?」

「ほら、あの一番下の赤いの、C63形の1号機のナンバーですよね?」
「えー、マジか・・・、製造されてないのになんでナンバープレートが残されてるんや・・・」
「製造されてない・・・、でもNゲージのマイクロエースでC63形っての見たことありますけど・・・」
「Nゲージのは架空の機関車をモデル化してるだけやで、史実とゴッチャにせんといてくれ・・・、実際には設計段階で開発中止になってん、幻の蒸気機関車と言われるんや」
「ふーん」
「にもかかわらず、ナンバーが残されたのか。・・・と言う事は、試作機を造る直前まで段取りが進んで、そのナンバープレートを先行して製作したのかな・・・、そんなケースはあんまり聞いたこと無いけどな・・・」
「じゃあ、あの赤いナンバープレートは本物と違うんですか?」
「わからんね・・・、かと言って、レプリカにも見えないし・・・、ちょっと調べてみるわ・・・」

 

「Cの次のDは、D50から始まってますね、D51、D52、D60、D61とありますよ、D61形で終わりなんですね」
「え?」
「え?なに、違いますの?」
「D61形で終わりじゃない、次のD62形もあったよ。20輌しか無かったけどな・・・」
「D62・・・、のナンバープレートはあそこには無いですよ」
「そうか、もともと数が少なかったから、回収出来なかったわけか・・・」

 こんな調子で、ナンバープレートの見学だけで30分余りも過ごしていたのでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館6 昭和の時代と連絡船ジオラマと鉄道記念物

2025年02月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の一角には、昭和の駅を再現したセットや関連の展示コーナーがあります。上図はダイハツのミゼットです。1957年(昭和32年)から1972年(昭和47年)まで生産されたといいますから、昭和41年生まれの私も子供の頃には見ている筈なのですが、あまり記憶がありません。
 むしろ、中古車とか廃車の残骸とかのほうをよく見た覚えがあります。当時の自動車で、子供の頃の記憶に一番残っているのは、車好きだった浜松の叔父が乗り回していたスバル360やカローラの初代です。

 

 昭和の駅を再現したセットです。何とかそれらしく再現しているようですが、私自身はゆるキャン聖地巡礼にて大井川鐡道や天竜浜名湖鉄道の昭和の古い駅舎群を見慣れているせいか、こちらのセットはただのニセモノにしか見えませんでした。

 このような白壁が小奇麗な和様の駅舎というのは、各地に現存する昭和の駅舎建築においてはあんまり見たことが無く、どちらかと言えば明治期、大正期の駅舎に多いようです。昭和においては、洋風か和洋折衷の建築が当時の流行りであったように思います。

 

 内部はお決まりの昭和グッズ類の展示でしたが、私の子供の頃よりは少し前の、昭和30年代のそれがメインであるように感じました。例えば右端のテレビですが、私の家にあったカラーテレビよりも古めかしく見えます。円卓もあんまり見かけませんでした。家も親戚の家でも、方形の座卓が普通だったからです。

 昭和レトロの資料館は各地にありますが、多くは昭和初期から末期までの展示品を網羅しているケースが多いです。ここの展示の基調は全体的に昭和30年代ぐらいに限定されているのでは、と思います。

 

 こちらは鉄道連絡船のコーナーで、最も大きな1/80スケールの模型展示です。国鉄の青函連絡船の八甲田丸です。もとは大阪の交通科学館にあったもので、津軽丸型の第2号船として浦賀重工業浦賀工場にて1964年に竣工した当時のマリンブルーとホワイトの塗装にて再現されています。

 嫁さんも目を輝かせて「これすごーい、船ってやっぱりいいですねええ」とケースに貼りついて何枚もスマホで撮り、続いて視線を低くして見上げるようにして眺めつつ、「船の模型って、ロマンがありますねえ」と言いました。

 こういう模型の実物を見たかったなあ、と言うので、この八甲田丸は確か今も現存していて、青函連絡船の歴史を伝える海上博物館として公開してるよ、と説明すると、「えええー、それ見たい、見に行きたいです」と両手をバタバタさせて足踏みしていましたが、「青森まで行くんかね」と言うと「えええ・・・、青森ですかあ・・・、遠過ぎます・・・」と小声になってゆくのでした。

 ですが、八甲田丸は私も見たいので、「いつか機会を見て行こうか」と話しました。嫁さんが「本当?」と笑顔をはじかせて、何度も大きく頷いたのは言うまでもありませんでした。

 

 こちらは宇高連絡船(うこうれんらくせん)の高松桟橋のジオラマ展示です。宇高連絡船は、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた日本国有鉄道および四国旅客鉄道(JR四国)の航路(鉄道連絡船)で、1988年に瀬戸大橋が開通して瀬戸大橋線が開業したのにともない、廃止されました。

 昭和61年、大学二回生の夏休みに友人たちと4人で四国の文化財探訪旅行に行った際、この宇高航路のホバークラフトに乗った事があります。確か「とびうお」号だったと思います。当時は瀬戸大橋も明石海峡大橋もまだありませんでしたから、四国へ行くには船で渡るしかありませんでした。

 大阪で集まって新幹線と宇野線を乗り継いで終点の宇野駅まで行き、そこから歩いて桟橋に行き、乗ってから30分もかからずに高松桟橋に着いたのでしたが、独特の重低音の振動と時速80キロに達する高速にヒビらされ、並航する鉄道連絡船を何隻か追い越していき、そのたびに友人達が写真を撮っては騒いでいたのを覚えています。

 その際に、このジオラマ模型の高松桟橋の実際の景色も見ている筈なのですが、写真を撮っていないので、覚えているのはオレンジ色の船体が鮮やかな連絡船伊予丸の姿だけでした。

 その伊予丸もジオラマ模型の中で精密に再現されています。上図右上の、桟橋第一岸に接岸中のオレンジ色の船体の一番大きな船です。

 

 ジオラマには、当時の宇高連絡船の幾つかが再現されています。右奥に桟橋第一岸に接岸中の伊予丸、その手前の第二岸に接岸中の第三宇高丸、その手前の第三岸に接岸中の眉山丸が並びます。ジオラマケースのどこにも説明板が見当たらなかったので、手前の小型の2隻については名前が分かりませんでした。

 嫁さんは「すごい完成度の高いジオラマですねえ、これ昔の高松駅の桟橋なんですか、いまは全然残ってないんですか・・・」と感心し、驚き、そして残念そうにじっくりと観察していました。

「ああいうふうに線路が通って、船が接岸すると線路が繋がって、船内に列車が入っていくんですねえ・・・、なんかすごいなあ・・・」
「瀬戸大橋が無かった頃は、貨物列車をこうやって船で運んだわけやな。旅客列車は本州と四国とで別々に走ってるから、乗り換えれば済むけれど、貨物列車は例えば四国から東京まで荷物を運んで行くから、こうやって連絡船に列車ごと載せて運んだわけ」
「じゃあ、橋が架かってなかったり、トンネルが無かったりした時代の九州とか北海道とかへも鉄道連絡船で結んでいたわけですね」
「そう。国鉄のは関森、青函、宇高の3航路やけど、私鉄や民間のは沢山あった」
「関森って、どこですか?」
「本州と九州を結ぶ航路。山口県の下関駅と、福岡県の小森駅・・・いや違った、小森江駅やったな・・・、関門トンネルが開通したんで廃止された」
「ふーん・・・、いまは鉄道連絡船はどこも無くなってしまってるんですか?」
「いや、あるで。近畿やったら、南海電鉄がやってる南海フェリーてのがある」
「南海フェリー・・・、初めて聞きました・・・」
「僕も乗った事無いけど、昔、仕事で何度か和歌山へ行った時に一度だけ和歌山港駅まで乗って行ったの、そん時に徳島港行きのフェリーが接岸してたの見たな」
「それって、徳島に行くんですか、車で明石海峡大橋渡って徳島へ行くのとではどっちが近いんですか?」
「そりゃあ、車で明石海峡大橋のほうやろうな・・・、フェリーで行く場合は難波から和歌山港まで特急サザンで行ったら一時間ちょっとやろ、フェリーが二時間ぐらいやから、大阪から徳島まで三時間で行ける。JRで行くと瀬戸大橋を渡るんで岡山へ迂回するから、三時間じゃ着けないと思う。車で行ったら明石海峡大橋渡って二時間ちょっと、これは実際に車で行ったことあるんで覚えてる」
「でもフェリーで行くの、なんか楽しそうですね」
「僕もそれを思ったの。四国へ旅行する機会があったら、南海フェリーで行ってみる?」
「うんうん、行く、行きたい、鉄道連絡船っての絶対乗って体験したいです・・・」

 

 それから嫁さんは、ハッと気付いたような表情になって、ジオラマの線路のあたりを指差して言いました。

「これって、よく見たらNゲージじゃないですか?」
「そのようやね」
「じゃあ、この船の模型も全部1/150スケールなんですねえ」
「そうやな」
「これ、売ってませんかね?」
「トミックスもカトーもこんなん出してないやろう、ここの展示用に特別に制作されたものやろうな」
「もし売ってたら、絶対欲しい、連絡船あったら、買いますよ?」
「君の山陰線ジオラマには海は無いやろ?」
「うん、海は無いですから、川に浮かべます」
「大堰川にか・・・?・・・冗談やろ・・・?」

 

 鉄道連絡船ジオラマ展示の近くには、上図の古い電気機関車が展示されています。EF52形1号車です。
 嫁さんが「これもトップナンバーですねえ、貴重ですねえ」と言いました。現存するのはたった2輌で、一般公開されて常時見られるのはこちらの1号車だけですから、貴重なのは間違いありません。

 

 EF52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が、1928年から製造した直流用電気機関車の一種です。1931年までに9輌が製造され、戦前は東海道線で活躍、戦後は阪和線や中央東線などで運用されました。
 最後の車輌が廃車となったのは1975年で、以降は1号機と7号機の2輌が現存しています。7号機は、製造元の川崎重工業の兵庫工場に保管されて一般には原則非公開となっているため、こちらの1号機が唯一の見学可能車輌となっています。

 この1号機はもと大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1978年に準鉄道記念物に指定され、2004年に鉄道記念物に昇格しています。2014年の交通科学博物館の閉館後、2016年からここ京都鉄道博物館で保存展示されています。

 

 そのEF52形のインテリア表示模型もありました。模型が大好きな嫁さんは、これにも目を輝かせて「この模型すごーい、て言うか欲しい・・・、家に飾ってあったらずっと見てても飽きないですよ」と言いました。

 

 ですが、こうしたインテリア表示模型が造られたのも、実車が鉄道記念物に指定されているからです。そのため、保存上の観点により内部を公開するのが難しいですから、こうして模型にて内部が分かるようにしてあるわけです。

 それで、嫁さんが「鉄道記念物、って文化財と一緒の扱いなの?文化財保護法とかの対象?」と訊いてきました。文化財保護法とは関係無い、国鉄が1958年に制定した、日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存、継承するための制度や、と説明しておきました。
 国鉄がJRに変わって以降は、2004年からJR西日本がこの制度を引き継いでおり、2010年にはJR北海道もこの制度を踏襲して新たな物件の指定を行なっています。

 

 さらに嫁さんは「鉄道記念物と重要文化財ではどっちが先で、どっちが上になるんですか?」と訊きました。重要文化財のほうが先で上だ、と返しておきました。

 重要文化財とは、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指します。そして、重要文化財のうち、世界文化の見地から特に価値の高いものを国宝に指定します。

 現在の文化財保護法では1950年からの指定分を指しますが、それ以前は1897年からの古社寺保存法および1929年からの国宝保存法による指定分があり、それらの呼称は「国宝」および「特別保護建造物」でした。これらも1950年からの文化財保護法により一括して「重要文化財」として再指定する形をとっています。

 なので、重要文化財の歴史は1897年から始まります。鉄道記念物のほうは1958年に制定されています。前者は日本国政府が指定しますが、後者は国鉄の指定となります。重要文化財のほうが先で上、であるわけです。

 

 続けて上図のもっと古い蒸気機関車を見ました。嫁さんが「40号機関車?」と言いましたが、違いました。

 

 説明板によれば、1800形1801号機であるそうです。1800形は、国鉄の前身である工部省鉄道局が輸入したタンク式蒸気機関車の一種です。東海道線の京都・大津間の開業にともない、同区間に介在する急勾配に対応するため、1881年にイギリスのキットソン社から8輌が輸入されました。そのうちの唯一の現存車輌です。

 高知鉄道、東洋レーヨン滋賀工場を経て1964年に国鉄へ寄贈され、大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1965年に準鉄道記念物に指定され、2004年には鉄道記念物に格上げされています。
 ナンバーの「40」は復元であり、1800形の2号車として1893年当時の鉄道作業局(後の鉄道院)の改番手続きにて40と付け番された経緯にちなんだものです。  (続く)

 

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京都鉄道博物館5 模型と貨車とエンジン

2025年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の本館一階の続きです。上図の103系のカットモデルを見ました。車体の三分の一ほどが展示され、横のホーム状のステップ段から中に入れるようになっています。これも大阪環状線を走っていた車輛のようですが、さきにプロムナードで見た1号車とは別の個体であるようです。

 ですが、館内の展示車輌配置図には載っていません。このようなカットモデルは車輛ではなくて展示ディスプレイの一種として扱われているのでしょう。

 

 こちらは蒸気機関車の内部を見られるように作った模型です。各部名称の札があちこちに貼ってあるので、蒸気機関車の各パーツのそれぞれの名前が分かります。説明板を見忘れましたが、嫁さんに聞いたところではC58形だったようです。

 

 蒸気機関の罐の内部構造がよく分かります。以前に嵐山のトロッコ嵯峨駅の19世紀ホールでD51形のカットモデルを見た事があり、その記憶とあわせるとより理解が深まりました。

 

 こちらはDF50形ディーゼル機関車の模型です。これも内部構造が分かるように示されたカットモデルです。トップナンバー車で、実物は愛媛県の四国鉄道文化館に保存展示されています。

 

 模型では、DF50形の特徴あるエンジンの様子がよく分かります。この1号車は試作機にあたり、エンジンは当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した、直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー8LDA25Aと呼ばれるものでした。

 

  この模型は、嫁さんも特に念入りに見学していました。あちこちをスマホで撮りつつ、ケースに貼りついたまま、上から下から、左右からも見ていました。このDF50形も、山陰本線で活躍した機関車であるからです。当然ながらNゲージでもトミックスの製品を買っていました。

 DF50形は、日本国有鉄道のディーゼル機関車の一種で、非電化亜幹線の無煙化を目的として開発、1957年に先行試作車が製造され、以後1963年まで増備されて計138輌が製造されました。
 主に亀山機関区、米子機関区、高松運転所、高知機関区、宮崎機関区に集中配置され、山陰本線、紀勢本線、予讃線、土讃線、日豊本線などで使用されました。山陰本線および福知山線全線においては、1978年にDD51形へ置き換えられるまで運用されました。最後の車輌が廃車となったのが1985年のことでした。

 なので、山陰線の昭和期の写真集などを開くと、福知山駅や亀山駅などにおいてDF50形の貨物列車や駅構内移動などの様子が色々と見られます。馬堀駅や並河駅を通過してゆくDF50形の貨物列車の姿もあったりで、嫁さんにとっては「昭和の山陰線のディーゼル機関車」のイメージがピッタリくるそうです。

 

 こちらは国鉄489系です。ベースとなった151系や485系とともに、昭和の特急電車の代表格として親しまれた車輛です。私自身も、子供の頃の記憶にある在来線特急のイメージが、この151系や485系の「こだま形」でありました。

 489系は485系をベースにして、信越本線の横川・軽井沢間の急勾配区間の通過対策が施された車輌で、1971年に製造されました。特急「白山」として運用、碓氷峠越え区間ではEF63との協調運転を行なっていました。

 その当時の映像を、ゆるキャン聖地巡礼で訪れた碓氷峠鉄道文化むらにて見ましたが、この「こだま形」が電気機関車に牽引されて走っている姿は珍しくてインパクトがありました。

 

 こちらは国鉄ワム3500形貨車です。戦前の1917年から1926年にかけて、鉄道院および鉄道省が日本車輌製造、汽車製造などに発注してで11873両を製造した15トン積み二軸車有蓋車のワム32000形を、1928年の車両称号規程改正によって改称したものです。
 そのうちの約2500両は、1937年から1940年にかけての日中戦争において、陸軍の要請によって標準軌に改造のうえ中国大陸に送られています。戦後は貨物列車の主力貨車の一種として1970年まで活躍、最後の車輌が書類上は1983年まで在籍したといいます。
 そしてここの展示車は、現存する唯一の車輌であり、その貴重さゆえに京都鉄道博物館に収容されたわけです。

 

 国鉄ワム3500形貨車の隣には、上図の国鉄ヨ5000形貨車があります。日本国有鉄道が1959年から1968年頃までに製造、または改造して運用した事業用貨車(車掌車)の一種です。長らく国鉄の主力車掌車として、北海道を除く全国で使用されましたが、1986年に貨物列車の車掌乗務が原則廃止されたため、JRに継承された一部の車両を除く全車が廃車されました。

 展示車の8号車は、日本初のコンテナ専用特急貨物列車「たから」号の専用となっていた時期の姿に復元されています。車体カラーも、当時連結されたコンテナ車チキ5000形とコンテナに合わせて、車体が淡緑3号、台枠部が赤3号とされた状態になっています。

 

 こちらは国鉄のディーゼル車輛に搭載されていた、DMH17形ディーゼルエンジンの模型です。各所がカットされて内部が見えるカットモデルとなっていて、定期的にデモ作動を行ない、実際のエンジンの動きを示しています。

 嫁さんが「これ、マイバッハ?」と訊くので「いや違う、これは国産や。幾つかのメーカーが造ってる。新潟鐵工とか池貝製作所とか新三菱重工とかダイハツ工業・・・」と説明しました。

「なんでひとつの形式のエンジンを、幾つかのメーカーに造らせたんですかね?ひとつのメーカーで独占したら駄目やったんですか?」
「駄目とかじゃなくてな、昔は国鉄やったから国策として鉄道車輌を造らせたんで、産業育成、産業促進の観点から複数のメーカーに発注して競わせて造らせるシステムやったの。鉄道だけじゃなくて、戦前の戦闘機、戦車、軍艦も同じで、ひとつの型を複数のメーカーが造ってる。例えば零戦、三菱と中島で造ってるし、駆逐艦やったら国営の海軍工廠のほかに民間の造船所、例えば藤永田とか日本鋼管鶴見、三菱重工とかね・・・」
「ふーん」

 

 DMH17形エンジンは、日本国有鉄道の気動車およびディーゼル機関車に搭載されていた直列8気筒、副室式ディーゼルエンジンの一種です。DMはディーゼルエンジン、Hは8気筒、17は排気量が17リッター、を意味します。改良が重ねられて、最終的には12種のバリエーションが造られています。

 

 説明板です。1953年から、とありますが、正しくは1951年からの製造になります。5年間にわたって、とありますが、実際には1960年まで量産が続けられましたから、9年間にわたって、というのが正しいと思います。そして1960年代末まで、これを搭載した国鉄の気動車が大量に製造され、日本全国で使用されました。

 また、国鉄だけでなく私鉄が導入した気動車にも広く採用されており、その最後の事例は1977年製造の小湊鉄道キハ200形気動車の最終増備車2輌であったそうです。

 

「緑に赤に黄色・・・、実際にこんなふうにあちこち色分けしてるのですかね?」
「いや、これは展示用の見本なんで、各部分を分かり易いように塗り分けてあるだけじゃないかな」
「あー、なるほどー」

 

 色々な展示があって、嫁さんはあちこち指差しては次々に興味を示して見学していきましたが、私自身は「よくこんなに色々集めたなあ」という驚きのほうが大きかったです。

 

 特に、上図の新幹線100系が展示されているのにはびっくりしました。0系はあちこちで見かけるのですが、100系の保存展示車は初めて見たからです。なにしろ、いま現存している100系車輌はたった3輌だけで、ここ以外は名古屋のリニア鉄道館と片町線徳庵駅の近畿車輌敷地に保存されています。

 100系は、日本国有鉄道が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車です。デビューは1985年で、1992年までに16両編成66本の計1056両が製造されました。
 私も大学生の頃に初めて乗りましたが、0系よりもフロントマスクが長いのに最初は違和感を感じたことを覚えています。サメみたいな感じなので、ダグラスとかミグとかの戦闘機みたいだな、と思いましたが、実際に「シャークノーズ」と呼ばれるデザインであったことを後で知りました。

 上図の展示車輌は100系の122形で、普通席を備える制御電動車です。JR西日本所属のV編成16号車として125形とペアを組んで使用されたものです。廃車後は博多総合車両所で保管され、2016年からここに収容されています。  (続く)

 

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京都鉄道博物館4 EF66形とDD51形

2025年02月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の展示の続きです。台車の次に嫁さんが「あれ!あれ見ましょう、て言うか近くでみたいです!」と指さした先に、上図の青い車体の機関車が見えました。

 

 これまた懐かしい・・・、昭和の貨物列車牽引の花形であったEF66形電気機関車ですな・・・。子供の頃に鉄道の図鑑とか読むと、貨物列車の先頭の機関車がたいていこのEF66形でしたね・・・。デザイン的にもカッコ良いですし、ブルートレインの牽引機としても活躍していましたから、中学や高校の頃に東海道線とかの電車に乗ったりすると、窓から普通によく見かけました。

 

 EF66形電気機関車は、日本国有鉄道が1968年から1974年まで、そして日本貨物鉄道(JR貨物)が1989年から1991年まで製造した直流電気機関車の一種です。名神・東名高速道路の整備によるトラック輸送の拡大化に対抗すべく、魚介類などの生鮮品輸送を中心とした貨物列車の高速化が計画され、東海道・山陽本線における最高速度100キロ以上での高速貨物列車専用機として開発、89輌が製造されました。

 このEF66形の実際の最高速度は110キロをマークしましたので、それが規定値となって、現在も日本の電気機関車の最高速度として定められています。
 現時点の直流電気機関車の最新型にあたるEH200形が、現在使用されている電気機関車の中で最大級のパワーを誇りながらも最高運転速度は95キロにとどまっているのを考えると、昭和43年の時点で110キロ運転を実現したEF66形の凄さと先進性がよく理解出来ます。

 

 ここの展示車は、1973年から1974年までに川崎重工業で製造された2次車の35輌のうちの唯一の現存車にあたる35号機です。いま車体が完存している保存展示車は、35号機のほかには埼玉県の鉄道博物館の1次車の11号機しかありませんから、貴重な車輌であることは間違いありません。

 嫁さんが首をかしげつつ「そういえば、この前、嵐山からのトロッコ列車に乗りましたでしょ、あのときトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ見たじゃないですか、あれの館内に機関車のカットモデルが2つ並んでましたでしょ、あれもEF66形じゃなかったですか?」と言いました。
 流石に記憶力抜群なモケジョさんです。確かにトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ館内にはEF66形の45号機と49号機のそれぞれの先頭運転台部分のカットモデルがあります。

 同じ49号機のカットモデルが、確か木津のパン屋さんにもあると聞いたことあるな、と話したら「えええ?パン屋さんに?なんでパン屋さんにEF66形のカットモデルがあるんです?」と訊かれました。私も現地のパン屋さんは前を通った事があるだけで中は知らない、と返したら「じゃあ機会を見て木津へ行きましょ」と言われました。
 いまは嫁さんも鉄道模型Nゲージに熱中してて鉄道にも関心を持っていますから、いずれ行くことになるだろうな、と思いました。
 そのパン屋さん、JR木津駅近くの国道24号線沿いの「パン オ セーグル」の公式サイトはこちら

 

 ここの35号機は下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。上図は台車のDT133の駆動部です。

 嫁さんが「すごーい、中に色々メカがぎっしり詰まってそう、110キロの高速をこれでたたき出してたんですよねー」と興奮気味に見上げ、スマホであちこち撮っていました。もう完全にテツですな・・・。

 

 EF66形35号機の隣には、上図の赤いディーゼル機関車があります。これも嫁さんが指差して「あれ!あれも見たい、トミックスのあれ、近くでみたいです!とテンション上がりまくりでした。

 

 日本のディーゼル機関車の代名詞格として有名なDD51形です。近畿地方では山陰本線や播但線、草津線などで活躍、山陰本線では寝台特急「出雲」なども牽引した機関車です。

 つまりはDD54形とならぶ山陰線のディーゼル機関車の主力機であったわけで、嫁さんがNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、マイクロエースのDD54形に続けてトミックスのDD51形を購入していましたが、そのナンバーはズバリの756号機、つまりはこの実物のNゲージ化製品です。
 それで見学時にも何度か「トミックスのー」と嬉しそうに連呼していました。

 

 DD51形は、日本国有鉄道が1962年から1978年にかけて製造した液体式ディーゼル機関車の一種です。649輌が製造され、全国各地の主要路線や近郊線区に投入されて活躍、現在もJR西日本に数輌が健在で、大半は兵庫県の網干総合車両所の所属となっています。

 ここの756号機は、主に九州地区や甲信越地区の路線で活躍、最終所属は門司機関区、2014年に廃車となって吹田機関区で保管され、2015年に梅小路蒸気機関車館に展示、2016年から京都鉄道博物館に収容されています。嫁さんが展示説明板の履歴を食い入るように読んでいましたが、山陰線のさの字も無かったので、ちょっとガッカリしていました。

 嫁さんは丹波園部の出身で、小学生の頃からは亀岡市に住み、最寄りの駅が山陰線の並河駅でした。その並河駅の旧駅舎跡地に鉄道歴史公園があり、そこにDD51形の1040号機が静態保存されています。その1040号機が、嫁さんが子供の頃から知っている機関車なので、山陰線といえばDD51形、という基本認識があるわけです。

 その1040号機は、山陰線で活躍し、1994年に廃車となった時も米子運転所所属のままでしたから、京都までの山陰線を往復し続けていたことになります。並河駅にて保存されることになったのも、その縁からであったのでしょう。

 

 この機関車も、さきのEF66形と同じように下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。

 

 DD51形の台車を下から見上げました。台車は3組あって、両側が動力台車のDT113B、中間が無動力台車 のTR106であるそうです。 

 

 嫁さんが「こういう台車の仕組みってよく分かりませんけど、でも、見てるだけで凄いメカだなー、って感じさせられますよね」と言いました。

 確かに世界中の鉄道車輌のなかで、技術史的にも抜きん出ているのが日本製だと聞きます。現在でも各国の鉄道車輌の台車のみは、大半が日本に発注されていると聞きます。他国には造れないレベルの、凄いメカであるのは間違いないでしょう。

 

 近くには上図のインテリア表示模型もありました。模型が趣味のモケジョである嫁さんにはたまらない展示品です。案の定、ケースにスーッと吸い寄せられていき、コバンザメみたいにピタッと貼りついたまま、5分ぐらい動きませんでした。

 

「ねえ、このエンジンもドイツのマイバッハの系列ですかね?」
「違うやろ、これは日本製やろう、マイバッハ系列は、あれはDD54形のみの特殊な仕様のエンジンやね」

 横の説明板によれば、エンジンはDML61Z形とあります。日本のディーゼル機関車に搭載されたエンジンは、型番がディーゼルのDから付けられてDMの大分類コードから始まります。次のLはアルファベットの12番目なので12気筒を意味し、61の数字は排気量を現します。61リッターということです。最後のZは、インタークーラーおよび加給機付きであることを示します。
 つまり、12気筒61リッターのインタークーラーおよび加給機付きディーゼルエンジンである、ということです。  (続く)

 

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京都鉄道博物館3 特別展示車輌と台車いろいろ

2025年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のトワイライトプラザから本館の一階の南口に入りました。外からの引込線が内部に続いていて、車両工場のコーナーになっていますが、この時は特別展示コーナーになっていて、上図の近江鉄道100形が展示されていました。

 

 まず、驚いたのはJR西日本の管轄になる京都鉄道博物館が、私鉄の車輌も引き入れて展示している、という事でした。京都鉄道博物館ではJRの車輌しか展示しないものだと思い込んでいたので、いまも現役で走っている近江鉄道100形がなんでここに入ってるのだ、と思いました。

 ですが、嫁さんは別の意味で驚いていて、「近江鉄道って、あの近江八幡から豊郷まで乗った電車・・・?こんな青い電車って走ってたっけ?黄色やアイボリーの電車は乗りましたけどね・・・、でもどうやってここまで持ってきたんですかねえ・・・」と話していました。

 

 コーナーの主旨案内板によれば、ここでは、JR西日本の営業路線と繋がった引込線を活用して現役車両を展示していますが、今回は開業128 年を迎えて今年度より公有民営方式による上下分離に移行した近江鉄道の100形電車を特別展示します、との事でした。同時に、これが京都鉄道博物館開業後の、甲種輸送による車両の特別展示の最初であるそうでした。

 嫁さんは、案内文を一通り読むと私を振り返って、「甲種輸送って何?」と訊いてきました。

 

 甲種輸送(こうしゅゆそう)とは、甲種鉄道車両輸送(こうしゅてつどうしゃりょうゆそう)の略称で、日本貨物鉄道(JR貨物)など貨物鉄道事業者の機関車の牽引によって車両をレール上で輸送することをいい、書類上は貨物列車扱いとなるそうです。線路が繋がっていれば可能ですし、繋がっていなくてもクレーン等で移して線路に置けば可能となります。

「甲種輸送、ってのがあるんなら、甲乙丙丁とかのあれで、乙種輸送とか丙種輸送ってのもあるんですかね?」
「うん、あるよ。乙種はトレーラーとか船とか艀に載せて、レールの上以外、道路とか航路とかで輸送する。丙種は車輌をレール上の長物貨車に載せて、機関車が長物貨車を牽いて輸送する。一般的には丙種はあんまり使わないらしいから、甲種か乙種のどちらかになるな」
「ふーん・・・、じゃあ、丁種は無いんですね」
「丁種輸送なんて、聞いたこと無いで・・・」

 

 近江鉄道は、周知のように明治期に創立された、滋賀県最古の私鉄です。線路の幅はJRと同じ1067ミリなので、この100形もここまで持ってこられたわけですが、そうなると、今後は他の私鉄の車両もここで特別展示する機会が有り得る、ということになります。

 ですが、近畿地方の私鉄の多くは線路の幅が1435ミリの標準軌ですので、ここ京都鉄道博物館での特別展示は難しいかもしれません。阪急、京阪、近鉄はもちろん、京都の嵐電や叡電も1435ミリですから、JR西日本や京都鉄道博物館の線路には入れないわけです。
 なので、おそらくは同じ1067ミリの狭軌の鉄道車両に限られるのだろうな、と思いました。

 

 特別展示コーナーは、館内図では「車両工場」と記されており、実際に工場と同じ整備用の各種設備があり、作業用の車輌を上からも見学出来るように吊り下げ式の通路が設けられています。

 実際にここで整備や検査を行なっているのかは分かりませんが、係員の話によれば、ここへの出し入れに際して最低限のメンテナンス作業は行っている、とのことでした。

 

 それにしても、いまも運行されている現役の私鉄車輌がこうして博物館施設にて展示されているというのは、初めて見た気がします。京都鉄道博物館ならばでの展示、京都鉄道博物館でしかやれない特別展示、ということで、今後もこのような各種の現役車輛を間近に見られる機会を提供してゆく、というコンセプトなのでしょうか。

 

 この近江鉄道100形電車は、2009年に西武鉄道より新101系および301系を譲り受け、改造して導入した通勤形電車の一種です。2輌ずつの5編成、計10輌が2013年から2018年にかけて順次導入され、2013年より運行を開始して現在に至っています。
 私も嫁さんも豊郷行きで何度か利用していますが、こうして特別展示の体裁にて眺めると、印象が全然違って見えますから不思議なものです。

 

 向かいには上図のカットモデルの模型が展示されています。車体の内部構造と、線路および台車との関係がよく分かります。
 案の定、こういった模型が大好きな嫁さんが、ガッとくらいついてケースにはりついて「これ面白い・・・」と食い入るように眺めていました。

 

 その隣には、台車や車輪の実物が幾つか展示されています。鉄道車両の台車部分は、普通に鉄道を利用していれば大抵はホームの下に隠れて見えませんので、間近に見ると新鮮な迫力があります。
 上図は151系電車のDT23形台車です。

 

 こちらは4種類の車輪です。右端より順に、松葉スポーク車輪、D51用の動輪、151系用の車輪、新幹線300系用の車輪です。
 これらのなかで新幹線300系用の車輪が最も薄くて華奢に見えますが、実は最も強靭な車輪であるそうです。270キロ運転時の安定性を高めるために車輪の軽量化が図られて車輪径が910ミリから860ミリに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となり、素材の鋼は優れた高品質かつ強靭な日本でしか作れない材料が使われています。

 確か、新幹線を含めた高速鉄道用の専用車輪やレールは高度な製造技術が必要なため、これを造れるメーカーは日本の日本製鉄およびJFEスチールの2社だけ、と聞いた事があります。

 

 こちらは4種の台車を二段に並べて展示しています。上図の上は国鉄TR23形台車、下は京阪1700系用のKS50台車で1955に製造された日本最初の空気バネ台車であるそうです。パッと見ても上段の台車が古めかしく見えるので、要するに戦前の台車と戦後の台車を分かりやすく展示してあるのだな、と分かります。

 

 こちらの上は国鉄TR10形台車の客車用2軸ボギータイプであるTR11台車、下は阪急2000系用のFS345台車です。このコーナーには、国鉄だけでなく私鉄の台車も寄贈されて展示されているわけですが、それも京都鉄道博物館の特色のひとつであるのでしょう。

 

 こうした各種の台車は、嫁さんも私も、Nゲージや鉄道コレクションの車輌の台車パーツを組み込んだり交換したりしているので、実物を見るのが楽しいです。色々と勉強になります。基本的な構造が模型でもそのまま踏襲されているうえ、車輪を外したりする際の段取りも同じであることが見て取れます。

 

 なので、上図のように下から台車を見たりして、その外枠のフレームとか、車輪の軸部の据え付け状況とか、サスペンションの機構やブレーキシステムの形状などが学べたのは良かったです。本や図鑑を100回見ても、実物を1回見て分かる情報量には遠く及ばないものだな、と改めて思いました。  (続く)

 

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京都鉄道博物館2 機関車4種と寝台特別急行客車2種

2025年02月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のプロムナードには、上図のディーゼル機関車のDD54形33号機も展示されています。嫁さんが「これこれ、マイクロエースの3次形の本物、これを見たかったんですよー」と大喜び、テンション上げまくりでした。

 DD54形は、日本国有鉄道が1966年から設計、製造した液体式ディーゼル機関車の一種で、エンジンはドイツのマイバッハ系列のライセンス供与による提携生産品を使用しました。山陰本線および播但線、福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形およびC58形等の蒸気機関車と置換えに配置され、1972年末には一部の列車を除き山陰地区東部の全面的なディーゼル化を達成し、山陰線の路線群における無煙化を促進したことで知られます。

 1971年までに40輌が製造され、32輌が福知山機関区、8輌が米子機関区に配備され、山陰本線の全線で活躍、1968年には福井国体開催に合わせて運行されたお召列車の牽引を担う栄誉に浴しています。

 つまりは山陰線専用のディーゼル機関車であったわけで、丹波の山陰線沿いの育ちだった嫁さんが私に続いてNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、最初に購入候補にあげた機関車でした。

 そのNゲージ製品は、トミックス、カトー、マイクロエースから出ており、それぞれに幾つかの仕様を再現していますが、嫁さんがこだわったのが、ここの展示車輌でDD54形の唯一の現存機でもある33号車の特徴である、スカート両脇の白色のステップ側面で、1から6次車までに区分されるなかの3次車の独自の要素でした。これはマイクロエースの製品にしか再現されていませんので、嫁さんも散々探し回り、ヤフオクでやっと見つけて落札していました。

 この33号機は、山陰線にて最後まで使用された4両中の1両で、米子機関区に配置されて一時は特急「出雲」の牽引機に指定されていたそうです。1984年に廃車となって大阪交通科学博物館にて保存展示されていましたが、大阪交通科学博物館の閉館後は京都鉄道博物館に移され、現在に至っています。

 

 プロムナードの南には、上図のトワイライトプラザのコーナーがあります。その大きな鉄骨トラス構造の上屋は、大正時代以来の2代目京都駅の遺構の再利用になるもので、その中には戦後を代表する電気機関車や寝台車、2015年春に引退した寝台特急「トワイライトエクスプレス」の車輌を展示しています。

 

 トワイライトプラザの正面向かって右には、上図のEF81形103号機があります。日本国有鉄道が1968年に開発した交流直流両用電気機関車の一種です。この103号機は、敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室に配置されて、寝台特急「トワイライトエクスプレス」の牽引機として大阪・青森間の日本海縦貫線区間で活躍したほか、同区間における臨時列車や臨時工事列車の牽引などにも使用された車輌で、現在は「トワイライトエクスプレス」牽引機時代のデザインカラーのままで保存されています。

 嫁さんがDD54形を一生懸命見学している時に、私はこのEF81形をしばらく見上げていました。気が付くと、嫁さんも横にやってきていて一緒に見上げ、スマホを向けているのでした。

「この機関車をさっきからずーっと見てますね、何か思い出でもあります?」
「いやね、この前行ってきた碓氷峠鉄道文化むらの展示車輌にはこれは無かったなあ、と思ってね」
「ふーん、じゃあ、貴重な保存車なんですかね」
「現存してるのは3輌ぐらいしか無いらしいからね、貴重であるのは間違いない」

 

「じゃあ、左の機関車も貴重なんですかね?」
「EF58形はまだ数があるんじゃないかな、碓氷峠鉄道文化むらにも展示されてるし、埼玉の鉄道博物館にもあるらしいし」
「わりと有名な機関車だったのかな」
「戦後の日本を代表する旅客用電気機関車といったら、だいたいはこれのイメージやしな」
「ふーん」

 

 EF58形は、 日本国有鉄道の前身である運輸省鉄道総局が1946年から製造した旅客用直流電気機関車の一種です。終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として量産され、1958年までに各種仕様を合わせて172両が製造されました。

 そして1950年代から1970年代にかけて東海道本線、山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線といった主要幹線に配されて旅客列車牽引の主力機関車として活躍、戦後の復興期の公共交通の要として働き続けました。最後の1輌が廃車となったのが去年、2023年のことでしたから、昭和、平成、令和の3時代を駆け抜けたことになります。

 

 そのEF58形が牽引したブルートレインの客車が1輌、EF58形の後ろに繋がっていました。「あかつき」「彗星」などで活躍したプルマン式のA寝台車だったオロネ24形4号車です。

 

 そのオロネ24形4号車の説明板です。オは32.5から37.5トンクラス、ロネはA寝台車を意味します。プルマン式とは、アメリカ寝台保有会社プルマン社が製造した寝台車の形式名で、通路を挟んで二段の寝台が進行方向に設けられ、寝台幅を広く取って広い空間を確保しています。日本でも長らく上級寝台車のタイプとして使われた形式です。

 

 オロネ24形4号車の後ろには、上図のEF65形1号機がありました。これも貴重なトップナンバーです。嫁さんがスマホを向けつつ言いました。

「1号機って、なかなか残せるもんじゃないんでしょうねえ・・・」
「だろうな、試作機やったのも多かったし、何よりも最初の生産車だから、劣化も老朽化も一番になるし、廃車も当然ながら1番になるやろうから、保存するとなったら相当のコストがかかったやろうな・・・」

 

 EF65形は、日本国有鉄道が1965年に開発し運用した平坦路線向け直流用電気機関車の一種です。平坦線区向け国鉄直流電気機関車の標準形式とされ、1979年までに国鉄電気機関車としては史上最多の308輌が製造されました。
 基本的に貨物列車用として計画されましたが、高速走行性能と牽引力の強さを活かして旅客列車用としても活躍、ブルートレインを牽引する500番台や耐雪耐寒装備を強化するなどの改良を加えた1000番台、1000番台の一部を改造した2000番台などがありました。現在も約20輌が定期運用を終えたものの、現役として在籍していると聞きます。

 このEF65形は、ゆるキャンの原作第92話の作中にて「横川鉄道博物館」の展示車輌の1輌として描かれていますので、そのモデルとなっている500番台のF形タイプを、Nゲージのカトー製品にて購入しました。「横川鉄道博物館」こと碓氷峠鉄道文化むらの保存展示車が520号機で、高速貨物列車牽引用の500番台F形に該当するからです。

 対してこちらの1号機は、一般型の0番台の1次車にあたり、中央本線の電化および増発、山陽本線貨物列車の電化および増発、東海道本線などの増発用として開発されたタイプです。運転席の面に通行用の扉がつかない非貫通型にあたりますが、Nゲージでは扉が付く貫通型の1000番台や2000番台のほうが多く製品化されていて、非貫通型の0番台や500番台はあまり見かけなくなっています。実物も貴重ですが、Nゲージのほうでもレア物になりつつあるようです。

 

 トワイライトプラザには、上図の寝台特急「トワイライトエクスプレス」の客車2輌も展示されています。上図はスロネフ25形501号車、列車の1号車にあたるA個室車輌です。


 「トワイライトエクスプレス」は、かつて大阪駅・札幌駅間で運行されていた臨時寝台特別急行列車です。1989年に運転を開始、2015年に臨時列車としての運行を終了して、それ以降はツアー専用列車として2016年まで運転されていました。
 その後は廃止となりましたが、「トワイライトエクスプレス」の列車名は2017年から京阪神地区と山陰・山陽地区間での運行を開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」に受け継がれています。

 こちらで保存展示される客車2輌は、かつての国鉄24系25形客車を全面的に改造したもので、基本デザインはヨーロッパの豪華夜行列車オリエント急行をモデルとしたそうです。
 従来の寝台列車が「ブルートレイン」で青色のイメージカラーであったのに対して、日本海をイメージした深緑に明け方の薄明(はくめい)の英語トワイライトを表す黄色の帯をつける独自のカラーとしています。

 上図のように各客車には、天使が向かい合うデザインのエンブレムもマーキングされて高級感を醸し出しています。

 

 10年前に廃車となったわりにはピカピカで、まだ現役のような感じですから、嫁さんも「こんなん、まだ使えますでしょ、もったいないですねえ」と話していました。

 ですが、元になっている国鉄24系25形客車が1973年からの製造なので、既に車齢が51年に達している古い車輌であるわけで、老朽化や部品類の経年劣化がひどくなっているそうです。

 

 もう1輌は上図のスシ24形1号車です。嫁さんが「これもトップナンバーですね、スシやから食堂車ですねえ、よし覚えたっと」と車番を指差して確認していました。

 

 「トワイライトエクスプレス」の客車はあともう1輌、オハ25形551号車が上図の引込線ゾーンに居るということですが、この日はどこかへ移動していたのか、向こうに見える客車はオハ46形13号車だけでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館1 京都鉄道博物館へ

2025年02月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日の午後、二条城から地下鉄とJR嵯峨野線を乗り継いで、上図の京都鉄道博物館に行きました。この日の嫁さんの本来の目的地がここだったのでした。二条城へ行ったのは、近いからついでに行けるよね、という思い付きで午前中から出かけたわけでした。

 

 京都鉄道博物館は、周知のように国内では最大級の鉄道博物館です。日本では埼玉県にも鉄道博物館がありますが、敷地の規模や展示車輌の数では京都のほうが上であるそうで、「トップナンバー」と呼ばれる第1号の車輌が多く展示されているのも特徴であるそうです。

 私自身は昔、まだ梅小路機関車館だった頃に三度ほど行ったことがあるだけで、2016年にオープンしたこの京都鉄道博物館のことは全く知りませんでした。2023年の6月に鉄道模型Nゲージを初めて鉄道にも関心を持ち始めるまでは、あんまりその種の施設には興味が無かったからです。

 

 ですが、嫁さんはオープン直後に一度行ったことがあるそうで、同じようにNゲージに熱中し始めてからは、もう一度行っておかないといけませんねー、と何度か話していました。梅小路機関車館だった頃しか知らない私を「昭和ですか?遅れてますねえ、時代は令和ですよ?時勢に遅れてはアカンですよね」とこきおろしつつ、「Nゲージやってるんなら、いっぺん行かないと駄目ですよ?」とけしかけてくるのでした。

 それで、実質的には引っ張って行かれたわけですが、いざ入ってみると、かつての梅小路機関車館の頃とは全く違った立派な施設と数多くの展示車輌の姿に驚かされました。エントランスから入ると、上図の長い駅構内をイメージしたプロムナードに並ぶ新旧の車輌の姿がドンと表れて、ジリジリと迫力をもって眼前にせまってくるのでした。

 

 おお、栄光のC62形だ・・・。おや、26号機?・・・これ見た事あるような・・・、確かこれは大阪弁天町にあった交通科学博物館の展示機だったかな・・・。そうか、交通科学博物館が閉鎖したからこっちに引き取られたわけか。

 すると、京都鉄道博物館には梅小路機関車庫の1号機と2号機も居る筈なので、C62形が3輌もあるわけか・・・。

 

 私の記憶に間違いがなければ、このC62形26号機は、現存する唯一の川崎車輌製造の車輌だった筈です。亡父の資料類か何かで読んだのですが、C62形は計49輌が発注され、日立製作所、川崎車輛、汽車製造の三つのメーカーが分担して製造しましたが、現存するのは5輌のみで、その4輌までが日立製作所の製造になります。

 嫁さんが「銀河鉄道999」の機関車やー、と楽しそうにスマホで撮っていました。そういえば、この前ゆるキャン聖地巡礼で行ってきた、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらの屋外展示の蒸気機関車に「銀河鉄道999」のヘッドマーク付けてたなあ、あれはC62形じゃなくてD51形のナメクジだったなあ、と思い出しました。

 

 C62形26号機の隣には、何やら古めかしそうな車輌がいました。車体カラーこそ115系でお馴染みの湘南色ですが、そのカラーの最も古い車輌かなあ、と思いました。

 

 その説明板です。なるほど、戦後初の長距離電車として東海道本線や山陽本線で活躍した車輌だったか、と知りました。後ろに同系のモハ80形が繋がっていて、2輌編成のような形で展示されています。

 嫁さんが「これはクハだから制御の機械がついてて、運転席付きで、向こうがモハだからエンジンがついてる・・・」と自身の鉄道知識を確認するように呟いていました。その横顔へ、エンジンじゃなくてモーターやで、モはモーターの事や、と小声で言い添えておきました。

 

 プロムナードの一番右側には、新幹線の0系車輌の4輌編成がありました。子供の頃の昭和40年代、初めて新幹線に乗ったときはこの0系でしたし、今でも新幹線の基本的なイメージはこの懐かしい姿のままです。

 いまの新幹線の最新の車輌は数えて6世代目にあたるN700Sで、これは前回の群馬ゆるキャン聖地巡礼の時にも乗りましたが、初めて乗った0系の印象にくらべると隔世の感があり、乗り心地も静粛性も格段に向上しています。それでも個人的には「夢の超特急」といえば0系だなあ、と思います。

 0系の保存車輌はいまも各地にありますが、ここ京都鉄道博物館の展示車輌はトップナンバー車で、1964年3月に落成した1次車の先行製造車にあたります。1978年に廃車後、交通科学館に保存展示されていたのを引き取ったものです。日本の鉄道史の金字塔的な存在であることにより、2007年に機械遺産に、2008年に鉄道記念物に、2009年に重要科学技術史資料に指定され、文化財に準じた扱いを受けています。

 

 プロムナードの奥には幾つかの旧型の客車が並んでいます。そのうちの上図のナシ20形食堂車は、寝台特急「ブルートレイン」の食堂車であったもので、現在も館内の食堂車、お弁当販売ブースとして公開されています。

 嫁さんが「ちょっと中見てきていい?」と言うので外で待っていたら、すぐに出てきて「家族連れで満席でしたー」と戻ってきました。子供達にも人気があるようで、館内での食事をここで楽しむ人も多いそうです。

 

 プロムナード内には旧型の食堂車であった上図のスシ28形301号車も展示されています。嫁さんが「スシって、寿司のこと?」と訊くので「いや違うで、車輌記号のひとつで、スは37.5から42.5トンのクラス、シは食堂車の意味や」と説明しました。

 

 続けて「そしたら28形ってのも何かの意味があるんですか?」と訊かれましたが、「これは確か10の位の数字と1の位の数字でそれぞれに意味があって・・・、ええと、20はちょっと分からん・・・、8は車台の形式が3軸のボギー車であるんやったかな・・・」と述べるにとどまりました。

 

 嫁さんはすぐに台車を見にいき、「ほんまですねー、3軸ですよ。こういうのがボギー台車なんですねえ」と感心しつつスマホで撮り、メモしていました。

 それで、ボギーというのは、車体の方向とは独立に曲線部などを走れるようにした台車のことで、それを装備した車輌のことをボギー車と呼んだんだ、と説明しておきました。

 20のほうは、全然分かりませんでしたので、帰宅後に亡父の資料類にある「車両記号表 昭和16年(1941年)制定  昭和28年(1593年)改訂分」をひも解いて調べ、昭和32年以降に製造された軽量客車の慣習記号だと知りました。横で読んでいた嫁さんが「慣習記号なんてあるんですねえ、正式な記号じゃないんですねえ・・・」と感心していました。

 この「車両記号表 昭和16年(1941年)制定 昭和28年(1593年)改訂分」は、日本車輌の公式サイトでも公開されていて見られます。こちら
 これを含めた記事群「鉄道知識の壺」は、Nゲージを初めて以降、鉄道知識を学ぶための基本資料として重宝しています。嫁さんもよくプリントアウトして使っています。

 

 さらに嫁さんは妻面の下方に打たれた上図の複数の銘板を熱心に見ていました。

「これ、一番下の右の日本車輌の昭和八年ってのが最初の銘板ですよね」
「そうやな、製造されたときのな」
「その上の日本国有鉄道ってのが、納車先なわけですね」
「そう」
「あとの三つはそれぞれの工場で改造した年の銘板ですね」
「うん、あちこち改造してるんやな」
「旭川って、北海道ですよね?・・・高砂は兵庫県の高砂市ですよね、あと、他で鷹取ってのもよく見ますけど、鷹取はどこかなあ・・・」
「神戸や。須磨区にあった」
「あった、って過去形?今は無くなってるんですか?」
「うん、阪神淡路大震災でやられてな、跡地も市街地復興事業で提供して、工場の機能そのものは兵庫県の網干(あぼし)ってところに移して、いまの網干総合車両所になってる筈」
「ふーん」

 

 スシ28形301号車の隣には上図のマロネフ59形1号車があります。戦前に製造された皇室・貴賓客用の寝台客車で、御料車の一種です。いわゆる「お召列車」を編成したうちの1輌です。戦前からの製造順に1号、2号と付けられたなかの14号御料車にあたり、1938年に国鉄鷹取工場にて昭和天皇の弟宮や貴賓客専用として製造されました。

 マロネフのマは42.5から47.5トンクラス、ロネは戦前の上級寝台車、フは車掌室および制御器を有する客車の意味で緩急車とも呼ばれます。59形の5は鋼製客車、9は3軸ボギー車を意味します。

 戦前、戦後を通じて製造された御料車は、幾つかが埼玉の鉄道博物館や愛知の博物館明治村にて保存されており、外見は公開されていますが、皇室の専用車という特殊性の故に、車内への立ち入りは不可となっています。
 ですが、ここのマロネフ59形1号車だけはイベント等で内部が公開されたことがあります。つまり、車内に入れる可能性がある唯一の皇族・貴賓用客車であるわけです。
 それで、嫁さんが「次の公開イベントに絶対中に入りたい」と言いましたが、私も車内に入りたいです。

 

 プロムナードの一番奥には、上図のクハ103形1号車があります。国鉄の通勤電車の代表格として長く親しまれた形式です。嫁さんも「大阪環状線で最近まで走ってましたよね?何度か乗りましたー」と話しました。

 

 運転席上の表示窓にもしっかり「大阪環状線」とあります。

 103系は、日本国有鉄道(国鉄)が設計し製造した直流通勤形電車の一種で、1963年から1984年までの21年間に3447両が製造され、東京、名古屋、大阪などの大都市および近郊区間にて活躍しました。大阪環状線では1969年からの約48年間を走り、2017年に最終運行便が引退しています。
 上図はそのトップナンバー車で、末期は阪和線で2011年まで活躍し、引退後は吹田工場に保管されていたのを、京都鉄道博物館の開館に際して収容されました。  (続く)

 

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二条城9 二の丸御殿 下

2025年02月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「蘇鉄の間」と「黒書院」の連接部の戸袋を見た後、その真上の軒の重なりを見上げながら嫁さんが言いました。

「建物が繋がってるところの軒って、片方がもう片方の軒を切ってるみたいな感じになるんですね。軒同士を組み合わせて繋いだりしないんですねえ」
「まあ、そうやな。宮廷建築は割と屋根や軒とかを綺麗に繋ぐけど、武家の御殿建築は建物を主要なものから順に建てて、後で繋ぐという建て方をするケースが多かったらしいから、あのように軒は一方が切られる形になるな」
「蘇鉄の間のほうが後から追加されてるんですね」
「そうやな。黒書院は大広間に次ぐ格式を持つんで、将軍家と徳川譜代の大名や高位の公家などの対面所として使われたからな、建てた順番は黒書院のほうが先になるな」

 

「じゃあ、蘇鉄の間って、慶長の築城の時は単なる渡り廊下やったかもしれませんね?」
「その可能性はあるかもしれんな。寛永の大改修そのものが後水尾天皇の行幸を迎える為に行われてるからな、それ以前の慶長の建物は徳川家の私城レベルで造ってただろうから、もっと質素な実用本位の御殿だったかもしれん。蘇鉄の間なんてのも最初は無くて、ただの廊下やったから、寛永の改修でいまのような立派な廊下殿に建て直してると考えたほうが良いかも」
「うん、私もそう思いますー」

 

 それから「黒書院」を見ました。内部は五つの部屋に分かれ、東側の廊下空間も「牡丹の間」と呼ばれて障壁画で埋められます。その障壁画の一部は、慶長の築城時のものが残されている可能性が指摘されています。

「慶長の築城時の障壁画が残ってるということは、建物そのものも慶長の御殿の一部が残されている、ということなんですかね?」
「寛永の大改修でどれだけ直したかによるな。柱も壁も全部取り替えていたら、障壁画も全部撤去しないといけなかっただろうし、建物の一部だけを直したんであれば、もっと古式の部分が色々残っててもおかしくないんやけど・・・、でも文化財調査の報告書だとほぼ新築同然と述べてるし、ごく一部がかろうじて残された、ということやろうな」
「なんだか、もったいないですねえ、家康が築城した最初の御殿の景色も見てみたいですねえ」

 

 それから嫁さんは屋根の破風を見上げて、あー、とガッカリしたような声を上げました。

 

「どしたん?」
「うん、あの破風飾りとか瓦の家紋もみんな皇室の菊ですよ、德川家の御殿なのに三つ葉の葵紋が全然見えませんよ・・・」
「それは仕方ないやろ、大政奉還に明治維新で、二条城も召し上げで皇室の離宮になったんやから、ああいう装飾なんかは変えられてしまうもんやし・・・」
「でも現在は元離宮でしょ?皇室の所有じゃなくなって、京都府の所有になってるんでしょ?・・・なのに菊紋は付けたまんまで外さないんですよねー」
「なんやね、所有元が変わったから菊紋は外して京都府の府章つけろってか?六葉形のあれ・・・」
「えええ・・・、それは有り得ない・・・です・・ね・・・、あははは」

 

 二の丸御殿の北端に位置する「白書院」です。間取りは「黒書院」と共通ですが、規模は少し小さくなっており、内部の障壁画も水墨画がメインとなって落ち着いた空間意匠にまとめられています。徳川将軍の居間と寝室に使用された建物とされており、他の豪奢な建物とは趣が異なっています。

「要するに、いまの住宅で言う居間と寝室の組み合わせの基本形なんですよね」
「せやな」
「黒書院や大広間のほうは、現代風に言ったら応接間なんですよね」
「うん」
「で、式台が玄関、遠侍が待合室になるのかな」
「そうなるね」

 

 「白書院」から引き返して、もときた道を戻りました。戻りながら、嫁さんは並ぶ建物の屋根の破風や瓦などをずっと観察していましたが、「大広間」のそれを見上げた時に「あれー、破風の飾り物が外されてますねえ」と指さしました。

 

「ああ、ほんまやな。破風の飾り金具がほとんど外されてるな、菊紋も無くなってるな、なんでやろな」
「大広間の建物だからですかね?」
「分からんね」
「でも、なんかこう、このほうが德川家の御殿って雰囲気がしません?・・・あれ、・・・あっ!!」
「なんや、なに?」
「あれ、屋根のてっぺんのあれ見て、えーと、鬼瓦っていうんだっけ・・・」
「鬼瓦?」

 

「おお、德川の葵紋が付いたままやんか・・・」
「うん、德川の三つ葉葵、わー、初めて見たー、すごーい」
「確かにあれはすごい、元の鬼瓦がそのまま残されてるな、これは僕も初めて見たなあ・・・」
「あれですよ、あの紋がついててこそ二条城の御殿なわけですよね、德川の城のしるしですよ」
「ああ、そうやな」

 

 それからの嫁さんは大満足で上機嫌でした。「今日はもう時間が無いですから次に行きますよ、二条城はまた機会を見て行きましょう」と言いました。

「また行くの?」
「今日は内部を回りましたでしょ、外回りをまだ見てないですもんね・・・」
「え、外回り・・・、って、城の外濠の回りを一周するってこと?」
「ええ」
「なるほど、それは僕もやったことなかったねえ」
「あ、外回りは見て無かったんですか?」
「うん、北大手門と西門は昔に外から見たことあるけど、一周はしてなかったから、隅櫓とかは見てないんやな」
「じゃ、今度は外回り一周、決定ですよー」
「はいはい」

 

 ということで、二条城を後にして、次の目的地へと移動しました。その次の目的地こそが、嫁さんの本来の計画コースで、今回の二条城は思い付きで追加したのでした。だから、予定よりも早く、朝から出かけたわけでした。

 二条城には久し振りに行き、本丸御殿も初めて見ることが出来ましたが、数度目の訪問であったにもかかわらず、見ていなかった箇所、初めて見たような気がする場所などがあって、学びや気付きの多かった、楽しい半日となりました。
 嫁さんはお城の勉強も兼ねて色々楽しんでいましたが、私もそれ以上に面白味のある考察の積み重ねが出来て、思った以上に有意義な時間を過ごせたな、と思います。  (了)

 

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二条城8 二の丸御殿 上

2025年02月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南門から再度唐門をくぐり、左の園路に進んで、二の丸御殿の外観を見てゆきました。嫁さんが「二の丸御殿を構成している六つの建物って、外見とかに違いはあるんですか?」と訊いてきたからでした。私自身もあまり考えたことが無かったので、じゃあ、見て行こうか、となりました。

 二の丸御殿は、周知のように徳川家康が慶長六年(1601)に造営しましたが、その当時の建築は殆ど伝わっていないとされています。現在の建築は、後水尾天皇の二条城行幸に備えて寛永元年(1624)から同三年(1626)までに行われた大改修を経たもので、改修といってもほとんど新築に近いものでありました。

 なので、現在の御殿は寛永の大改修時の状態を伝えており、内部の設えや障壁画についても寛永期の作であることが近年の研究で明らかになっています。

 

 二の丸御殿の南からの三つの建物を見ました。右より「遠侍」、「式台」、「大広間」です。江戸期の古絵図にはそれぞれ「御遠侍」、「御式台」、「御広間」と記されています。

 

 そのうちの「式台」の手前まで近づくことが出来ます。園路は「式台」の手前の柵までとなっており、上図の右前に柵が見えます。

 「式台」は、二つの部屋から成ります。南側の「式台の間」と北側の「老中の間」があり、ここで老中と大名が挨拶をかわし、将軍への取次ぎが行われました。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

 ちなみに徳川将軍家以外の諸家諸藩の城の御殿は、復元図や古絵図資料などを見ますと、「式台」と「遠侍」が逆であったり、「遠侍」に該当する建物が別になっていたりします。
 諸藩の御殿の基本形式は徳川家のそれに倣ったとされていますが、その場合、いまの二条城二の丸御殿のレイアウトが基本タイプと見なされますので、それを参考にしてゆくと、諸藩の城の御殿の様子や特色がある程度わかってまいります。

 

 「式台」の横から「遠侍」を見ました。「遠侍」の右奥に玄関である「車寄」の檜皮屋根が見えました。

 「遠侍」は二の丸御殿の六棟の建物のなかで最も規模が大きく、内部も九つの空間に分けられます。二の丸御殿を訪れた人がまず通されて、対面を待つ場所です。 来客の身分や職制に応じた部屋割りがなされ、一の間から三の間、柳の間、若松の間、芙蓉の間、そして勅使の間があります。
 それぞれの部屋の襖や壁には金地の障壁画「竹林豹虎図」が描かれており、虎之間とも呼ばれました。

 

 こちらは「大広間」です。二の丸御殿の諸建築のなかで最も格式が高い建物です。徳川将軍家の表向きの対面に用いられた公式的かつ儀礼的空間であり、将軍が諸大名と対面する際に使用されました。内部は五つの部屋に分かれ、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間から成ります。

 

 「大広間」の外装は障子戸で統一されています。縁側が回りますが、基本的に縁側へ出るとか、縁側に上るとかのケースはあまり無かったそうで、障子戸を開け放って庭園を鑑賞する際にも廊下から眺めたといいます。
 その場合は縁側の下に護衛の侍が控えており、縁側があることによって彼らの姿が廊下から見えないようになっていたといいます。

 

 嫁さんが「式台」と「遠侍」の連接部の西側に付く上図の黒っぽい施設を指して「あれ何ですか?将軍家の隠密の部屋?」とのたまいました。ただの戸袋や、と答えると「トブクロ、ってなに?」と再び訊いてきました。

 君は戸袋を知らんのか、障子や雨戸を収納するための箱状の施設やけど、と教えると「ふーん、宮廷建築にはあんまり見かけない施設なので分からなかった・・・」と言いつつ、メモに書き込んでいました。

 そういえば、嫁さんの専門である平安期からの宮廷建築、皇族の宮殿や公家の邸宅建築には、こういう戸袋はあんまり無いな、障子や雨戸自体が武家建築の書院造のパーツだったなあ、と思い出しました。

 ですが、中世以降の宮廷建築や公家邸宅建築には逆に武家建築からの影響があったりしたようで、江戸期の建築になると書院造の基本パーツも武家と公家であまり違いがなくなってきます。

 

 二の丸御殿の西側に広がる庭園の苑池です。これも寛永の大改修によって造り替えられたもので、「八陣の庭」とも呼ばれます。典型的な池泉回遊式庭園の形式で、小堀遠州の代表作として挙げられています。

 

 「大広間」の北に繋がる「蘇鉄の間」の建物を見ました。「蘇鉄の間」は「大広間」と「黒書院」を繋ぐ廊下殿で、外の西側に広がる庭園に蘇鉄が植えられているのが見えるようになっています。

 ちなみに、蘇鉄とは、熱帯や亜熱帯地域に自生するソテツ科の植物を指します。「生きた化石」と呼ばれ、原始的なシダ植物の形態を残した起源の極めて古い植物です。

 日本では蘇鉄は、九州南部より以南の地域に一種だけが自生するとされ、関東より南の地域では、路地植えの庭園樹木として古くから親しまれてきた歴史があります。京都でも古社寺の歴史的な庭園や京町家の庭木として数多くみられ、有名な所ではここ二条城の蘇鉄のほか、京都御所や仙洞御所、桂離宮、西本願寺の大書院庭園などの蘇鉄が有名です。
 城郭では、各地の主要城郭の御殿の区画に植えられたものが現存している例が多く、大阪城や岡山城、掛川城、川越城などに見られます。

 

 なので、ここの「蘇鉄の間」も、庭園の蘇鉄を鑑賞するための空間であったと言えるでしょう。この建物だけが障子と板戸とを交互に並べているのも、歩きながら庭園鑑賞が出来るように障子を等間隔で開けるからです。

 

 「蘇鉄の間」の北には、上図の「黒書院」があります。その連接部にも戸袋が設けてありますが、嫁さんはわざわざ指差して「とぶくろ」と声に出し、「よし覚えましたよー」とのたまうのでした。  (続く)

 

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