日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

ウィルスよ、もちょっと暴れてみたら?!

2020年05月29日 07時10分22秒 | 政治
 「『コロナ断捨離』の際、家庭に眠る歴史資料にも心を配って」と題する下のような面白い新聞記事を見た。
 「新型コロナウイルスの影響で外出を控え、家の整理整頓を始める人が多い今、歴史資料の救出・保全活動に当たる「愛媛資料ネット」は、古い資料の取り扱いに困った人からの相談を受け付けている」「2020/05/27毎日新聞【松倉展人】」
 歴史には「画期」というものがある。これを国語辞典で調べてみると「過去と新しい時代とを分けること。また、その区切り。<研究史上―をなす発表>」(Goo辞書)などとある。
 新型コロナウィルスに刺激されて、パンデミックが大きな歴史的画期となった例としてニュートンの万有引力・分光・微分概念等々の大発見とペスト大流行の歴史的関係がメディアで実に多く取り上げられた。たとえば、1665年,伝染病ペストが大流行し,ケンブリッジ大学が閉鎖されてしまったために帰郷したニュートン。彼は無為な時間にやることが無くぶらぶらしていた。シャンとしない息子を見て怒る母を無視して、彼は『月が落ちてこないのはなぜだろうか?』などと考えているうちに,落ちてこないのではなく『月は常に地球に向かって落ち続けている』ことによって落ちられないのだということに気がついた。これがニュートンの第4法則万有引力の法則となったという類の話である。
 少し出来過ぎた話ではあるが、ペストが先か?、ニュートンが先か?は分からないが、同時代にもう一人この5年前に「我思うゆえに我あり」と言い残して夭逝したデカルトがいた。そして、彼もまた、中世を占拠した「神=キリストがすべて」の世界から、「人こそすべて」とする世界観への大転換=「人間復興」のルネッサンス宣言を発した巨人であった。これをニュートン力学や時空間の変化を表す微分概念とならべてみれば紛れもない歴史の「画期」となっている。
 ニュートンにたっぷりと思索の時間を与えた17世紀ペスト・パンデミックと、この度のCOVID-19のそれとの規模の違いはまだ分からないが、これら両者が比較しうるレベルとなった時に、中世から近代へと移っていった世界史の大転換と同規模の変化が起こるとしたら、どういう時代がやって来るのであろうか?
 意外や意外、コロナウィルス在宅軟禁状態の間に押し入れや蔵の二階の古道具を廃棄する行為が、歴史を大きく変えていく動力源?であって、冒頭の毎日新聞署名記事は、そんな歴史の蠢動を報じているのかもしれないと思ってみると実に面白い。
であれば、大きな声では言えないが「コロナウィルス君よ、もちょっと暴れてみたら?!」と激励したくもなるのだが。もちろん、筆者と筆者の縁者につながるすべての人々にとって遠くのところで、だが・・・
 


黒川氏退職金減額800万円は「三方一両 徳か?損か?」

2020年05月28日 07時16分41秒 | 政治
 昨日に続いて今日も「藪の中」から・・・。 
 もうこの話題は止めにしたいのだが、次々と「藪の中」を荒らす音がするので止めるにやめられない。特に、次のような報道が伝えられていたからである。
 「森雅子法相は26日の衆院法務委員会で、賭けマージャンで辞職した黒川弘務前東京高検検事長の訓告処分に関し、一般論としたうえで、黒川氏のように勤続期間37年の検事長が退職した場合の退職金は約5900万円になることを明らかにした。訓告処分によって自己都合退職になるため、定年退職した場合の約6700万円から約800万円減額されるとした」(2020/05/26産経新聞)
 まことに意味不明の新聞記事ではあるが、通算勤続37年にして東京高検検事長にまで昇格した検事職の退職金は約6700万円だが、「訓告処分」を受けた後で「自己都合として退職した」のでその分約800万円を減額して、最終的に約5900万円の退職金を交付することとした、ということである?らしい。
 筆者が「藪の中」でおやっと思ったのは、「懲戒処分」であれば退職金の全部、または一部を支給しないペナルティーがあるが、「訓告」は不支給や減額にはならないはずだと長年の経験から観念していたからである。
  6700万円の中の800万円は少額とはいえ黒川氏はなぜ10%以上も減額されなくてはならなかったのか? 定年をその一週間前に突如として延期され、以来約4カ月「勤務延長させられ」、土壇場で退職金減額とは?ご当人としては一向に解せないはずではないか? まさに「晴天の霹靂」だろう。検事職の戦後歴史に無い任期延長などと言う「脱法」辞令を受けたばかりにこのザマだ。これが無ければ、6700万円の退職金と盛大な送別会を催してもらって2月早々倫理的キズも秘密のまゝに晴れてシラフで退任できたはず。これで、この間受領した「予期せざる?」追加収入はそっくり取り返されてしまった勘定になる。「最後っ屁の一つも吹っ掛けてやりたい!」と思っていやしないかと筆者は黒川氏の内心を「忖度」している。
 どうもこの800万円の「減額」は、政権の心底は、やっぱり反抗する「世論」への消火剤のつもりなのであろう。だとすれば、なんとも現安倍内閣の無定見と俗物性の為せる業ではないか?
 本来なら、このケース、取り締まりにあたるべき検察行政の最高責任者のかけマージャンはその賭け金額の多寡には無関係に倫理的責務として「懲戒処分」が相当であった。それを不道徳にも「訓告」として処理してしまったのである。その「倫理」と「無策」の「差額」が800万円という価額になったのであろう。
 この「金額」は、<「黒川氏当人」・「内閣」・「世論」>その三者の微妙な「三方一両 徳か損か?」の間合いを図る金額だったのではないか? 世はまさに「藪の中」である。「無理が通れば道理引っ込む」、これがこの800万円という数字、曲学阿世の輩が跋扈する今は末世である。

「藪の中」を迷走する日本政治

2020年05月27日 07時19分49秒 | 政治
 「今昔物語」を下地にした芥川龍之介の名作「藪の中」。強姦と殺人という厳然たる現実があるにもかかわらず登場人物たちの供述がすべて矛盾しあっていてついに真相に迫れない「迷路」を主題とする。きわめて「知的」な作品であった。
 この物語とくらべればとても「知的」とは言い難いが、紛れもなく証言が食い違いながら結論だけが出てくる話が地方紙に掲載されていた。曰く;―-
「賭けマージャンで辞職した黒川弘務前東京高検検事長(63)の処分を巡り、事実関係を調査し、首相官邸に報告した法務省は、国家公務員法に基づく懲戒が相当と判断していたが、官邸が懲戒にはしないと結論付け、法務省の内規に基づく『訓告』となったことが24日、分かった」(2020/05/25中日新聞)
 この記事は、いわば「藪の中」の矛盾の連鎖というような知的な話ではない。「賭け麻雀」という触法犯罪を犯している検察官(司法行政官)を実質的処罰性を伴わない「訓告」(法務省内規)という公務員に課せられる処分の中では実質的な不利益のまったく無い最も軽微な処分が行われたという笑えない結論話が書かれている。
 この処分の最終判断者はあくまで内閣総理大臣だが、記事によれば、彼は「この『結論』は検事総長の判断であって、それを法務大臣が自分に報告してきたからこれを認めたのみ」と述べている。これに対して、当の法務大臣は、「内閣でさまざまに検討した結果を検事総長に『こう言った処分が相当ではないか』と伝えて、(最終的に)検事総長から『訓告』処分にすると知らされた」と述べているのである。ここまでですでに結論が180℃違っている。
 この前二者に対して、法務・検察の現場からは、「懲戒処分が相当との意見が強かったが官邸の判断で『訓告』となった」と、上記記事には「現場」の声として解説が付いていた。つまり、これは訳が分からない乱雑な状態(カオス)という意味での「藪の中」の話であって、要するに薄汚い政治世界のウソとギマン、芥川の「藪の中」の高尚さは無い。
 冒頭の新聞記事は、要するに実質的処罰性を有する「懲戒処分」の原案を担当部局(法務・検察)が「用意」して、これを法務大臣に「上申」し、同大臣がそれを内閣総理大臣に「報告」したところ、これを「訓告」にするように「命じ」られ、それを受けて法務大臣は検事総長に知らせて、この一往復で「懲戒」から最終的に「訓告」へと180反転して落ちついたということなのである。つまり、この決定は首相=総理官邸の判断である。
 ところが、当の首相は国会で「検事総長が事案の内容など、諸般の事情を考慮し、適切に処分を行ったと承知している」と繰り返している。最高責任者が自らの判断ではないと言うのである。ここが現代版「藪の中」へのとば口になっている。そしてこれを補強するように2日後の5月25日になると、法務大臣の発言がまた変わってきた。
 「黒川弘務・前東京高検検事長を賭けマージャン問題で訓告処分にしたことについて、検事総長に法務省から『訓告相当だ』と伝えた。検事総長からも訓告相当と連絡があったので処分を行った」と述べ、法務・検察の判断で決定したと説明した」(2020/05/25毎日新聞)。これで、この決定に関与した全員の意見が「訓告」で一致していたことになって、争いが消滅?した。
 すべてが実に「知性の欠如」したままの「藪の中」にある。この無責任性こそが現代日本政治のリアリズム。

大手メディアの対権力共犯関係と下流メディアの活躍

2020年05月26日 07時18分23秒 | 政治
 「新聞を開いて僕は世界を知った」「真実と人に寄り添う記事がある」「新聞で見分けるフェイク知るファクト」・・・。
 これらは、日本新聞協会が一般から募集して発表した最近3年の新聞週間標語である。こうありたいものだという意味でよくできた「キャッチコピー」である。ただ、いま日本の新聞が「本当にそうなのか?」と真正面から質されると「さあ、どうでしょう?」となりそうな気がするのだが・・・。
 東京地検の黒川弘務「前」検事長が犯した賭けマージャンという刑法185条違反行為、こういう違法行為を挙証して実行者を訴追すべき役職の最高責任者の一人がこれを犯していたというまさに泥棒を捕えてみればなんとやらと、笑うに笑えず、泣くに泣けない「大事件」である。そして、その相棒をつとめていたのが、こういう権力者の犯罪を見つけて広く世間に知らせるべき新聞人だったという事実。上記標語との乖離の大きさに愕然とするのは筆者だけではあるまい。
 この犯罪者の中に、我が国を代表するクウォリティ紙というレッテルを自他ともに認めてきた朝日新聞の編集者が入っていたという事実。ますます、上記標語の欺瞞性が恥ずかしさの限界を越えて迫ってくるではないか!
 この「事件」の主人公黒川某、彼はまさに彼の犯罪性を摘発すべき眼前の「敵(記者)」、これを同じ犯罪者として共犯関係を形成することによって身の安全が確保できると誤解していなかっただろうか? 聞くところによれば、同人はこの三人組以外に検察まわりの司法担当記者たちの多くと誼を通じることをもってある種の信頼を獲得していたという。
 検事長という高位の職に居ながら賭けマージャンという「犯罪」を犯すことと、それを記者らに知られていることの危険、この危険を避ける方法として身辺を探る記者たちと共犯関係を作ることによって安全を確保していたのである。記事とする情報(ネタ)を欲しい記者たちはこの男と賭けマージャンという犯罪行為に身を汚すことで堀を埋め、検事長は止めるにやめられないギャンブル中毒の暴露される危険をこの共犯関係によって守っていたのである。
 しかし、そこに現れたのが、ジャーナリズムの世界で格下をもって自?他ともに認め、とりわけ大手新聞5紙からすれば目下にランクされる「週刊誌」は、司法記者クラブ仲間には入れてもらえず、それゆえに賭博趣味の共犯関係を形成できなかったがゆえに悪事を暴露でき、巨大な爆弾となってさく裂したのであろう。
 タブロイド紙(日刊ゲンダイ)や週刊誌(週刊文春)という、およそイスタブリッシュメンとは格付けされない格下のメディアが辛うじて正義を発揮し報道している。新聞・テレビ・ラジオ、もう一度巨大化した日本のメディアが戦後再生の精神に立ち返って権力と毅然と立ち向かえられる日の来ることを、昨今の忖度ジャーナリズムの悪弊の中にいてしみじみ思う今日この頃である。
 


手垢の付いていない指導者よ名乗って出でよ!

2020年05月25日 07時15分13秒 | 政治
 「新型コロナウイルスの感染拡大に伴う2020年度第2次補正予算の編成作業をめぐり、自民党の岸田文雄政調会長は、求心力の回復に躍起となっている。自らが主導した減収世帯への30万円の現金給付が撤回に追い込まれ、指導力に疑問符が付いたためだ。岸田氏は2次補正のメニューに、自らが打ち出した家賃支援策や雇用調整助成金の倍増などを盛り込む方針だ。『国難と言われる深刻な事態に向けて、力を合わせて努力を続けていきたい』、2次補正編成への決意をこう強調した」(2020/05/18時事通信)。
 この人はこういうのを「政治」だと思っているらしい。コロナの後のこの国と世界について語らなければバトンは渡らない。それも「前車」を否定してこそ後を継げる。
 もはや国民は長すぎた安倍政権に飽きあきしている。どんな高価な食事でも三食同じものを出されては時にお茶漬けでもとなるような意味で飽きているのではない。安倍氏の政治手法に対する不同意であり、不満であり、不足であり、何にもまして未熟な思想・教養、結果として同じ顔、同じ調子、同じ無策に飽きてきたのである。
 つまり、今この国に必要な政治は、「非安倍」的なもの、安倍料亭の絢爛豪華なご馳走ではなくて、胸にも腹にももたれない、いわんや心や脳裏に怒りや不愉快を催さない非安倍流儀、それこそが求められている。その輿望に応えることが次なる政権の必須条件である。にも拘らず、前政権にただただ接続している発想、これでは岸田氏の番が来てもらっては困る!
 偶然ではあるが今からちょうど60年前、季節もこの「梅雨のあとさき」。60年安保の国をあげての騒乱、その権力ぎらぎらの岸信介内閣の政治手法への飽きが爆発的に高まった時、「私はうそを言いません」と言って「所得倍増」計画をもって颯爽と登場したのが池田勇人だった。
 独裁的な岸政治に疲れ、その強権体質に飽きあきしていた国民にべっ甲フレームの度の強い眼鏡をかけてジャラジャラ声の池田さんは実に新鮮に見えたものだった。その宏池会の大先輩に見倣えば、上記のようなちんまりした登場の仕方はダメだというぐらいわかりそうなものなのに、この人には、人を食う才能が無いらしい。政治は、民衆に夢を与える仕事なのだ。
 悪病神コロナウィルスに睨まれているこの国の民に、明けない夜は無いと思わせる指導者、それこそが今最も必要な指導者である。誰でもよい、手垢の付いていない指導者よ名乗って出でよ! ここまでの時代を「悪夢だった」と徹底的に批判し、「コロナ」の後の時代を明らかにして見せる力量をもって、政道の真中から出てこい!!