先の大戦後に流行したキャッチフレーズ「一億総懺悔」。しかし、当時の人口は一億人はいなかったのだからすでにしてこのフレーズそのものが間違ってはいるが、「馬鹿なことをしたものだ!」という慙愧の念は全国民にほぼ共有されていたのであろうから、その意味内容は当たらずとも遠からずではあったのである。そして、その「総懺悔」の行動変容としては「科学的」に考えるということ、行動を起こすについて常にその行為が「科学的」判断の裏付けを持っているかという要請があったのである。
戦後に始まった新制大学では「一般教養」科目がこの「科学的思考」のために必須の教科として「人文・社会・自然」の三つの系列から12単位ずつ最低合計36単位を必修させた。これら三系列には「人文科学」、「社会科学」、「自然科学」とすべて「科学」を付して呼称していたほどであった。今では「人文科学」は「人文学」であり、「社会」は監督官庁文科省に嫌われて「社会」そのものが消えてしまって消息不明に陥ってさえいる。
それより、この時代を画した教養主義の「一般教育」そのものが今では大学教育から事実上消えてしまった。小中高など初等中等教育においても、少なくとも「社会科」という科目はもう見当たらない。
こういう「科学的」に物事を判断するという「反省」が完膚なきまでに消滅したなと思わせられたのがこの度のパンデミック、新型コロナウィルス対策に係るこの国の行政全般の対応である。その中核である内閣の周章狼狽ぶり、百戦して百敗して今日を迎えている。しかも恐るべきは、連休中の4日に行われた総理大臣記者会見を聞いていても未だに標的の新型ウィルスの正体を認識できていないことはもちろん、この国における「敵」の居所やその勢力さえ把握できていないらしいことである。
ここにおける「科学」の一丁目一番地はウィルスが何処にどういう量でどんな顔つきをして潜んでいるかを知ること、つまり感染率の把握である。これすら不明のままにやみくもに空襲警報のサイレンを鳴らし続けるという。あの、大戦末期の周章狼狽ぶりを彷彿とさせる状況であって、安倍氏の会見を聞きながら、筆者はあの暑い夏の日の「玉音放送」を真っ直ぐに思い出していた。
物事を冷静に「科学的」に思考する知性、あれから75年してもなお一国の指導者にすら備わっていない現実、その彼が「戒厳令」を欲っするとして、その前日に開かれていた「改憲団体」の「ネット集会」にビデオメッセージを寄せていたと新聞は報じている。緊急事態宣言を「戒厳令」と置き換えたとて、「科学的」に判断できない指導者がどのように国民を指導していこうというのであろうか?
「出口」の見えない緊急事態宣言延長、「5月末まで」に科学的根拠はあるのか、などとメディアも報道している。今さらのように、<すべての問題を常に「科学的」に判断すること>、という戦後の反省を思い出す必要があるという、日暮れて道遠しの今日この頃である。