日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

One Issue政治選択という「危険」  小学校五年生レベルか?

2019年07月31日 08時06分41秒 | 政治
 「NHKから国民を守る党」、略して「N国党」がついに参議院に議席を確保したという。ネットなどの報道によれば、この「党派?」の代表は選挙結果を受けて「ここまで大きくなるとは思わなかった。(NHKを)ぶっ壊した後は危険なので党を潰す」と語っているという(AbemaTimes2019/07/24)。また、同じネットメディアで別の機会には「早く国会議員を辞めたい」とも「年内は何もしない」などとも語っているという。
 これについて筆者にはある悲しい記憶がある。小学校5年生時分であった。戦後民主主義の象徴としてクラス委員長(敗戦以前には「級長」と呼んでいた)は、先生の指名ではなくクラスの児童全員による自由「選挙」になった。学年のはじめであったと思うが、その時行われた選挙で「ケンちゃん」を多数決で選んでしまった。
 その開票結果を見て、女先生が泣きだした。児童たちが即座に「マズイ」と思ったのは言うまでもない。ケンちゃんはクラスのお客様で5年生になっても平仮名の判読に不自由していた。その彼を委員長に選んだのはどういう空気が教室に流れていたのか今はもう思い出せないが、ただ、実に問題であることは彼を率先して選んだ男子たちにはよく分かっていた。職員室に戻ってしまわれた先生に謝りに行かされたのは筆者だった。
 テレビを設置すると同時に義務的にNHKと受信契約を結ばなければならず、それによって受信料負担が発生することが不合理であるから、スクランブル化してB-CASカードを購入する形で限定的に受信契約を結ぶというのは意見としてあってもよい。だからと言って純粋にワンポイントだけで国会における議席を獲得する政治的不安定性は実に問題である。国会で議員が議論すべき問題は実に多様であってNHKとの契約問題は文字通りのワンポイントだ。これを選択した有権者が有しているこれ以外のさまざま多様な意見は何も反映されないにも拘らず、選ばれた議員は如何なる政治的主題に対してもフリーハンドを有している。
 現に、NHKから国民を守る党の立花孝志代表は「自民党がNHKのスクランブル化に賛成するのであれば改憲に賛成する」とか、かねて問題の丸山穂高議員をはじめ札付きの議員たちを仲間に入れたいと述べているという(同上)。有り得ないことではない。
 所詮、政治は国民のレベルによってその質が定まる。この国の民のレベルがまだ成育途上なのか?、もうここで成長停止なのか、いずれにせよ我が小学校5年生時代レベルの民主主義に陥ってしまっていることだけは間違いなさそうである。
 あの時と違って、誤りに行く先生も職員室にいない。


ついに飽きられた政権 参院選観戦記

2019年07月30日 06時53分46秒 | 政治
 この度の参院選、その特徴はなんと言っても空前絶後の「低投票率=48.8%」であろう。戦後下から2番目だという。内閣支持率ほぼ50%と堅調の政府与党でありながら、国民の投票行動にはつながらないような弱い支持であることがはしなくも見えてしまった。結果として連立政権として改選前の3分の2を失い、憲法改正の発議はとりあえず不可能になった。加えて政権党(自民党)としても単独過半数を割りこんでしまったために、国会での議案通過のためには連立であることが必須となってしまったという点で大きな地殻変動が起こっていた。なぜだろう?
 一番考えられることはようやく「人々」が長い政権に飽きてきたということではないか?そして、飽きてきた「人々」の中に、当の安倍晋三首相も含まれていたのではないだろうか?
 選挙期間中、最高責任者たる安倍晋三さんは自らの与党候補者の選挙応援に駆け付けるについて自分の所在情報を隠し、「神出鬼没」の行動を取った。これを口さがないメディアは「ステルス作戦」などと揶揄していたが、その呼び名の良し悪しは別にして最高権力者が自らの見解を述べる格好の機会を自ら拒否するという行為は尋常ではない。党首としては党勢拡大の機会を失い、最高責任者としては自ら政治を説いて伝えるべき義務を放棄した。
 この行動は、自分の身内以外の接近を意図的に避けるためだろう。国会の壇上からでなく直接国民に生に政治信条を語れるチャンス、彼を支持しない政敵を「折伏」できる絶好の機会。その貴重な機会を自ら放棄する愚挙、これは政治に飽きてきた証拠と言う以外説明がつかない。
 政治に飽きてきたのは安倍氏だけではない。 国民の、わけても与党支持者にもようやく倦怠感が現れてきた。だから梅雨空を押して投票所に足を運ぶほどの熱意を持ち得なかった。これこそが直接的に低投票率の主因である。
アベノミクスと言って6年間。まずは富める人がたらふく食べて、彼らが食堂を去ったら「トリクルダウン」という歴史上未だ見ぬシステムに依って、貧しき庶民にも食事の順番がやって来る。それまで少しの時間待っていてください、というのがアベノミクスのテーゼであった。それゆえ人々は、こういう安倍氏を信じて、大人しく待った。待ちに待ったが6年余経過した今となっても食事の順番はやってこない。来ないわけだ。隙間から食堂内部を窺ってみると、キッチンに従業員は居ない。食餌サービスはもう終わっているようなのである。
 かたや、遠くで「れいわ新選組」を名乗る山本太郎氏が大勢の聴衆を集めてなにやらにぎやかに「夢」を語っている。そこに集まっている人々の姿を見れば、どう見てもあの安倍レストランに行くには貯えの無い貧しい人々ばかり、そういう人々が実に明るい顔してタローの演説に熱狂しているのである。
 どうやら、自分たちは待ちぼうけを食っただけでなく、太郎の集会に参加する資格も無いようで、ついに選挙会場に足が向かなくなってしまった。こういう逡巡が内閣支持50%の人々の中に現れたのが今次の参院選挙だったのであろう。今や夜明け前、一日で一番寒く暗い時間帯だが、明けない夜は無い、という。
  

津久井やまゆり園の悲劇から3年、死刑の不条理が見えてくる

2019年07月29日 07時36分53秒 | 政治
 「相模原市緑区の県立障害者施設『津久井やまゆり園』で入所者ら45人(死者19人、重軽傷者26人 筆者註)が殺傷された事件は、発生から26日で3年。殺人罪などで起訴された元職員の植松聖被告(29)は今なお、重度障害者への差別的な考え方を変えていない。来年1月に予定されている初公判を前に自身の刑事責任能力を認め、死刑判決が出た際には受け入れざるを得ないとの認識を示した。『そうでないと社会が丸く収まらないのでは』と語った」(2019/07/26神奈川新聞)。
 記名記事ではないが、過去一連の関連記事は同一記者らによる取材報告であるらしく、常に間然するところの無い良質な情報を提供してくれる。おかげで、植松聖被告の内面までが伺い知れる。この3年間で24回の面会と37通におよぶ文通が有ったというから、被告の心情は相当程度記者には見えてきたのではないか。
 その上でだが、この「殺人鬼」植松聖についていえば、「異常者」というより「確信犯」というしかないらしい? 同記事によれば、彼はこの3年間の拘留中に大学教授やジャーナリストなど専門家らとの交流を通じて「意思疎通がとれない“心失者”は安楽死するべきだという考えや知識を深められた」と言っているという。よもや、「専門家ら」が彼の確信を補強するようなことをするわけもないから、この3年間面会者と会う都度、彼は己の「信念」を補強して「虚栄心」を強化していったものであろう。
 来春から始まる公判によって極刑が言い渡される可能性について「『受け入れるしかない。死にたくないが、僕が死ななければ社会が丸く収まらないのでは』と自嘲気味に語った。ただ、控訴するかどうかは『制度があるなら、そのときに検討する』とも話した」(同上)という。自らの主張はあくまでも正当としながらも、それに殉じて死につくのはできれば避けたいという保身も、記事から見えてくる。虚勢と不安。
 加えて、「逮捕後から続く勾留生活は『常に監視され、自由もない。個人の尊厳をないがしろにされ、屈辱的だ』と不満を漏らした」とこの記事の末尾にあった。この一言は、この男の「改心」の核心ではないだろうか?。45人を殺傷するという殺人鬼が、官憲による自らの「尊厳」を侵す扱いについて強い不満を感ずる感性。それはそのまま、植松自身が体している「意思疎通がとれない“心失者”は安楽死するべきだ」という確信の不当性と全く同一のものであるからである。
 こういう彼我を交換して感ずる気づきこそが、「刑罰」の本質であるべきであることが見て取れる。植松被告が自らの擁護のための死刑反対を主張する資格は薄弱だが、ここから「死刑」の矛盾がくっきりと見えてもくる。
 植松は「意思疎通がとれない“心失者”は死ぬべきだ」という「死刑=私刑」を実行した。そして今、自分の「確信」によって「死刑」になるかも知れないと恐怖している。死刑廃止の主張の正当性が、植松聖という一人の行為から明らかになってきたと言えないだろうか。


我が遺書、何から書き始めようか?

2019年07月26日 07時21分20秒 | 政治
 最近しきりと「遺言書」を書き始めなくてはと思うようになって来た。無意識に死の近かさを感じているのかもしれない。ついては、参考に供すべき立派な「遺言」は無いものかと探していた中に一つだけ見つかった。少し長いが全文を書き写してここに再掲する。
 「私の遺言執行者によって安全な有価証券に投資された資本で基金を設立し、その利子は、毎年、その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする。この利子は、五等分され、以下のように配分される。一部は、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした人物に、一部は、最も重要な化学上の発見または改良をなした人物に、一部は、生理学または医学の領域で最も重要な発見した人物に、一部は、文学の分野で理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人物に、そして一部は、国家間の友好、軍隊の廃止または、削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物に。物理学賞及び科学賞はスウェーデン科学アカデミーによって、生理・医学賞はストックホルムのカロリンスカ研究所によって、文学賞はストックホルムのアカデミーによって、そして平和賞は、ノルウェー国会が選出する五人の委員会によって、それぞれ授与されなくてはならない。賞を与えるに当たっては、候補者の国籍は一切考慮されてはならず、スカンジナビア人であろうとなかろうと、もっともふさわしい人物が受賞しなくてはならないというのが、私の特に明示する希望である」(1895年11月27日 アルフレッド・バルンハート・ノーベル)
 言わずと知れたノーベルの「遺言」であり、ノーベル賞の起源である。読み終えて思うことは沢山あるが、ここでは限定して「平和賞」に関するところに注目しておこう。
 そこでは「国家間の友好、軍隊の廃止または、削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物に」平和賞を与えよと書かれている。
 アメリカの大統領ロナルド・トランプ氏はこれを読まなかったに違いない。読んでいればいくらなんでも我らが宰相安倍晋三氏に推薦を依頼などしてくるわけがない。「国家間の友好、軍隊の廃止または、削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事」どころか、世界のトラブルメーカーであって、地球上の隅々で原理的に通用しない「アメリアファースト」を叫んでいる。かすかに、米朝接近の功績を上げれば上げられるとは言い状、アメリカ大陸に核弾頭が飛んで来なければよいというレベル。次期大統領選挙への「ウリ」に過ぎず、ノーベルが夢見る「世界平和」とは似ても似つかない。
 資格が無いことは一目瞭然のこのトランプ氏を、本人から頼まれたからとは言うものの、この男を推薦したという我らが宰相安倍晋三、彼もまた、この遺言状をまったく読んでいないことが明々白々だ。このノーベルの遺書、筆者にも真似るべき内容は皆無だったが、ノーベルの思いは立派で大いに参考になった。
 だが、はて我が遺書は何から書き始めようか? ノーベルの遺言など参考にしたばかりに書くことなど何んにも無いことがよく分かった。さて、次は誰のものを参照しようか?


「笑い」は消えて「冷笑」しか残らない

2019年07月25日 07時51分02秒 | 政治
 若くして死んだ大阪落語の名人桂枝雀は、噺のマクラに「笑いは緊張の緩和」だとしてそのさまざまな笑いの例を高座のマクラ噺として語っていたものだ。勉強家の枝雀さんは、この「学説」をおそらくフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの「笑い」(林達夫訳 岩波文庫)から得たのであろう、と筆者は推察している。
 ベルクソンによれば、「笑い」は、「習慣」・「クセ」・「単純な反復」・「慢性的な惰性」・「形式主義」・「偏見」・「因習」等々、人々の自由な精神の働きを妨げている「状況」からの瞬間的な「解放」によって生まれるという。枝雀さんの「緊張の緩和」とはこのような数々の例を一括して指していたのであろう。
 この「笑い」を生産して販売する企業、大阪の吉本興業が、いま全く笑えない厳しい「緊張」のみの状況下にある。「弛緩」に転ずる出口が見当たらない。当面、笑いは消えた。
 配下のお笑い芸人たち(彼らを「社員」と呼んでいたが、実際は職業安定法で規定される雇用関係にはなく、単なるビジネス協業の取引き関係、親会社と出入り個人業者の関係であるらしい)が、吉本興業の命じたものでない仕事をしたこと、それがあろうことか「反社会的集団」であったとして、そこに「出演」した芸人たちとの契約関係を一方的に破棄すると通告した。一方、処分された芸人たちは自らの誤りを告白して、公に詫びたいというのが認められず、ずるずると日にちが経過する中で禁断の「記者会見」を強行した。これに慌てた吉本興業社長が急遽22日午後に記者会見を開いたのだが、その時の報道;――
 「吉本興業・岡本昭彦社長(53)が22日午後2時半から都内で記者会見を開き、反社会勢力との闇営業で契約を解除した雨上がり決死隊・宮迫博之、謹慎処分中のロンドンブーツ1号2号・田村亮について、2人の処分を撤回することを発表した。また『芸人、タレントファーストでなかった。心からお詫びします』と涙をぬぐいながら謝罪した」(2019/07/22 デイリースポーツ)。
 これもまた「緊張と緩和」の亜種?かも知れないが、まったく笑えない。いや、笑ってはいけない。悪事は悪事として厳しく問うべきを、風向きが変わったらあっさりと、それも記者会見という「挙」に出たものだけを許すという。判断の基点が奈辺に有るのか全く不明。こういう人物たちがこの国の現代の笑いを売り買いしている。もはや、笑うことが「犯罪」のレベルにまで達している。
 ところで、本題の記号論的に言えば、笑いは「陽」であり、「虚」である。他方、政治は「陰」であり、「実」に分類される。それぞれは厳然として峻別される。
 しかるに、この社長が経営する企業と、時の宰相が入魂で、その経営する舞台に総理大臣がすすんで「出演」したり、この会社に巨額の国費が投入し、この企業幹部が首相官邸という一国の政治の中枢を「訪問」したりしているという。
 記号論理的には、「芸能」という「虚」の世界と、「政治」という「実」たるべき世界が平気で行き来している。この事態は、共に堕落なのである。
 この国から健全な笑い、祝祭的な滑稽が消えて、いたるところで「冷笑」しか残らない。悲しい時代である。