これが一個人としての「行為」であったとすれば、重過失の罪として生涯にわたってその「行為」を行うことを禁じられるか、死刑のあるこの国では「死刑」が判決されるかも知れないという「話」である。
たとえば、無免許で自家用車を運転して、暴走し転倒して破損した燃料タンクからこぼれたガソリンで半径数十キロの住宅を全焼してしまったというような暴走事故。この運転手は重失火罪に問われて最高刑死刑か、軽くても終身刑で再びハンドルを握る権利は輪廻による転生で生まれ変わりでもしない限り許されまい。ところが、これを原子力規制員会は再度「運転」を許すというお墨付きを与えるという話だ。
東京電力柏崎刈羽原原子力発電所6、7号機の「再稼働を巡る審査」を続けてきた原子力規制委員会は、東京電力が提出した「安全に対する基本的な姿勢」を了として、同社に再び原発を運転する「適格性」があると認めた。筆者は、このニュースを聞いたとき唖然とし、暗澹たる気持ちに侵された。言うべき言葉が無いのである。
現実にはこの後、当該原発のある新潟県の「同意」が得られなければ実際に運転席に座ることは許されないとは言い状、第一関門は潜り抜けたのである。新潟県は、全県として責任を有する知事として、柏崎市と刈羽町の両立地自治体以外にも直接には利害を有しない自治体住民を含む全県民の総意をもって処さなければならず、直接利害(実施は利益)を有する地元の意見との狭間で難しい判断を迫られることになろう。そして、例によってここでも論理より政治的判断が、正しい(有るとすればだが)判断を捻じ曲げてしまう可能性も多分に懸念される。
そもそも、東京電力に原発を運転する免許資格が無いというのは、この原発が蒙るであろう「最悪」の津波が15メートルを超えるものとなるという見解は社内でいわば共有されていた。それを経営陣が一日延ばしに延ばしたという明確な過失責任がある。そうである以上、この速度で突っ走っていったらいつの日か必ず大事故を起こすと知りながら暴走した暴走族運転者と同じである。つまり、一発免許剥奪が至当なのである。
しかるに、国は「福島第一原子力発電所の廃炉について必ず最後まで責任を持つ」という誓約書を「諒」として上記「暴走」を「暴走」としないことにしてしまった。
しかし、未だに圧力容器から尻抜けしたデブリが何処にあるかすら東電は知らない。これは「チャイナシンドローム」だ。また、溜まりに溜まった汚染水の処理についても当事者能力を発揮しているようには見えない。いま、柏崎刈羽原発再稼働は同社にとって火力発電所の原料代が助かるというレベルの即物的経済合理性のためである。100年後の国家的エネルギーの方向性への真摯な責任をそこに設定したものではない。
民間シンクタンク「日本経済研究センター」( 東京都千代田区 )の推計では原発事故の国民負担は総額最大81兆円に及ぶかもと試算している。よろず反省しない人間を「猿」と言うそうだが、さて新潟県知事はどう判断する?。