一国の政府が執る一挙手一投足はすべからく法律的な根拠をもっているものとばかり思っていたが、どうもこれは間違いだったらしい!? というのは他ではない参院選の遊説中に銃で撃たれて急逝した安倍晋三元首相を追悼するために、岸田内閣は9月に国葬を執り行うことを去る22日「正式に閣議決定した」という。「正式に」というが敗戦前にはあった「国葬規定」があの悲惨な敗戦を契機として以後「六法全書」の中から消えた。思うに明治憲法の立憲君主制下での価値観が戦後民主主義といかにも齟齬をきたしたためだったのであろう。特に議論をするまでもなく戦後法体系の中からこれは除外されたのだという。時の政権の恣意的政治利用の侵入を防ぐためだったのであろう。
にもかかわらず1967年10月31日、時の佐藤栄作内閣は、上述の意味で「戦後大系」を作り上げるに最も功のあった人として吉田茂元首相の死に対して「法的根拠の無いまま」に「国葬」と称して国民服喪の儀式を強行した。いかにも日本的というべきか?、感傷的というべきか?? 佐藤首相の「吉田学校の優等生」という自負心が、「恩師」の国葬の名の下に儀式を強行する私的動機 だったのではなかったかと思われる。
しかし、その佐藤氏自身の死に際しては、彼がノーベル平和賞受賞者という国際場裏において最高の栄誉をもって国際社会から遇された政治家であったにもかかわらず、その死にあっては「国葬」はあり得ず、以後これに準ずるものが実に半世紀以上にわたって無かったのは、他ならぬ「吉田国葬」の例が立憲制原則からの脱法的行為であったがためであったのだろう。
佐藤栄作首相をして脱法させた「吉田茂国葬」に比べて、この度の「主役」安倍氏はいかにも毀誉褒貶に激しく、歴史の評価に耐え得る人物とは筆者には断じて思えない。その人に対してふたたび国家の基本原則を破ってまで、かつ異論噴出する中にあって国内外に向かってこれを強行するというにはどんな夾雑物が含まれているのであろうか??
筆者には、最大派閥のリーダーの死による権力闘争の政権政党内部の消波装置にしか見えない。そんなドメスティックな権力闘争のために、世界中にイベント開催を呼びかける非礼について一国民として大いに恥じ入っているのである。
国家の一挙手一投足は常に法律によって律せられている。これを法治国家という。そして我らの国は実に70余年にわたって「法治国家」であったはずだったのだが、貧弱な政治指導者が精神世界のエントロピーを極大にしていくのである。