日々是好日日記

心にうつりゆくよしなしごとを<思う存分>書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ

おいおい、悪い冗談は止めてくれ!

2019年11月29日 07時27分09秒 | 政治
 「金融市場で『ポスト安倍』への警戒感が強まり始めた。安倍晋三首相続投の可能性が低下したとの見方が広まる中、次の本命候補が一向に浮上してこないためだ。政治の安定は日本市場の数少ない長所だけに、『後継者問題』がうまく解決されなければ、日本株売りの材料にされかねないと不安視されている」(2019/11/21ロイター)。
 子ども時代に、股の下から景色を眺めると普段見慣れて飽きあきしている風景が全く違って新鮮に見えて楽しくなったことがある。視覚のマジックとでも言えばよいのかもしれない。この記事は、まさに「お尻の下」から過去7年間の安倍政権の政治的「景色」を眺めながら論じたものとして筆者は読んだ。
 7年前の2012年12月の日経平均株価に対して現在のそれは2.3倍。株式売買を、その本来の姿である「投資(investment)」でなく、「投機(speculation)」としか見ない経済界にとっては、儲けさせてくれる政治家が良い政治家なのであろう。7年で2.3倍は、実体経済の内実が、預金金利がマイナスになろうかというテイタラクの中にあって、原理として有り得べくもないマジック数値に違いない。そういうマジックを演じてくれる政治は投機家にとって有難いには違いない。
 未来を創造するためには、未来に向かって「投資」が行われなければ将来は見えてこない。この7年間、この国では、次の時代を生きていくための技術開発も新産業も企業もまったく育っていない。それどころか、何を勘違いしたのか、「Small is beautiful」と言われていた時代に巨大合併を指導した上に、政府肝入りで税金を注ぎ込んだJDI(ジャパンディスプレイ)のように今や気息奄々、加えて幹部社員たちがネコババしたい放題だったとまで報道されている。また、原子力開発に未練を残し、巨額の火傷を負った上にすべての商談が破談となった。こんなアナクロニズムの政治・行政がこの内閣のすべてであった。
 株屋が喜ぶのは、安く買った株券が法外に値上がりしてくれればよいというだけのこと。7年間に株価が何倍になろうと国民生活は株価値上がりの倍率で幸せになるわけではない。実体経済の質と量だけが意味のある数値なのである。預金金利がマイナスというのが国民生活の実態である。
 この記事には、こんなことも書かれていた。
 「市場でささやかれているのが、安倍首相が一度辞めて、それから復帰するという再々登板のシナリオだ。自民党党則では『1期3年、連続3期まで』となっているので、一度辞めれば、四選禁止を避けられる」(同上)。
悪い冗談は止めてくれ!


「泣いた赤鬼」と大阪・栃木少女誘拐事件

2019年11月28日 07時40分45秒 | 政治
 浜田廣介原作の児童文学作品「おにのさうだん(鬼の相談)」は、現代の「小国民」たちへの絵本などでは別名「泣いた赤鬼」として今もひろく読まれる名作である。
村人と仲よくしたい赤鬼はさまざまな試みをためしてみるが一向に彼らの心を開くことができない。悲しんでいる赤鬼に同情した青鬼が好いアイデアを教えてくれた。それは、青鬼が村に出て行って悪さをする、そうすれば村人は怖がって助けを求めるだろう。そこで、「赤鬼君、君がやってきて僕をさんざんに打擲するんだ。そうすれば、村の人たちは君が良い鬼だと思うようになって仲良くしてくれるだろう」。
 二人は早速それを実行したところまんまと計略どおりに成功して、赤鬼は村の子供たちはもちろん、大人たちからも信頼されるようになった。とりあえずめでたしめでたしである。
 さて、話かわって、「彼」がこうなることを望んだのかどうかは分からないのだが、このニュースを聞いた途端に、なんだかこの「作品」のことが真っ先に筆者の脳裏に浮かんできた。その「彼」とは、他ならぬ大阪住吉区の小学校6年生の女児を誘拐した栃木県小山市の自称派遣社員(35)のことである。まだ警察から彼の「犯罪」動機など詳しい犯意についての発表が無いが、なんだかこの男、現代の「泣いた赤鬼」だったような気がしてならないのである。
 新聞記事によれば同人は「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上で女児の相談に乗っていたことが、捜査関係者への取材で判明した。大阪府警は、○○容疑者が女児の悩みにつけ込み、言葉巧みに誘い出したとみている」(2019/11/25毎日新聞)。
 残念ながら、この容疑者には信頼に足る「青鬼」が居なかったので、SNSシステムを青鬼に見立てて「村人」=少女たちと仲よくする方法を模索していたのではないか?というコトが筆者の脳裏に浮かんだのである。
 報道によれば、この「赤鬼」君は中学校では成績優秀者で、栃木県内のトップ校(県立宇都宮高校か?)を受験したのだが、同じ中学からの受験者の中でただ一人不合格となってしまったという。以後、自信喪失から世間との交流を断ち切ってしまい、文字通りの「赤鬼」に変じてしまったということらしい。人は、かくも容易に「鬼」になれる弱い動物なのである。
 15歳の春に、いたいけな少年を「鬼」に変身させてしまう高校入試。またその欠陥を補うシステムを持たない学校教師や大人たち。ちょっとだけでよかったはずだ、この男に鬼の角を生えさせない指導や助言が有ったならと思わずにいられない。
 と、深読みに過ぎるかもしれないが、筆者は新聞を読んで浜田廣介作「おにのさうだん」をふっと思い出したのである。


ローマ教皇に共感しなかった安倍政権の「核政策」

2019年11月27日 07時28分21秒 | 政治
 文字通り「馬の耳に念仏」となった。どんな有難い<お言葉>も「馬の耳」にはただの雑音にしか聞こえない。まして、「生き神」さまの言葉となれば、悲しいかな邪悪な心には決して届かない。
 「フランシスコ・ローマ教皇の来日は、核兵器に関する考え方をめぐる日本とバチカンの溝を浮き彫りにした。両国は核廃絶という究極的な目標は共有しているが、核抑止力も許すべきではないと訴えた教皇に対し、日本政府は抑止は当面必要との立場を変えなかった」(2019/11/26時事)
 3泊4日のローマ教皇の日本訪問はその盛沢山の日程をすべてこなして終わった。「日本は唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界の実現に向け、国際社会の取り組みを主導していく使命を持つ国だ」という教皇のお言葉は多くの日本人の胸にストンと落ちたことであろう。現に、教皇と面会された天皇は「教皇が人々の幸福と世界の平和のために勢力的に活動されていることに深い敬意を表します」と述べられたという。
 しかし、この教皇訪問を受けた安倍官邸スポークスマンの菅官房長官は、教皇・首相会談直後の定例記者会見で、「核を含めた米国の抑止力を維持・強化していくことが現実的で適切な考え方だ」として教皇の発言に真っ向から反論した(2019/11/26時事)。それだけではない。フランシスコ教皇が世界中に呼び掛けている国連の核兵器禁止条約批准についても菅長官は「『条約は現実を十分踏まえず作成されたため、核兵器国のみならず非核兵器国からも支持を得られていないのが現実だ』と述べ、批准に否定的な立場を改めて強調した」(同上)、という。
 つまり、フランシスコ教皇の「極東ニッポン」への訪問は、1587年バテレン(伴天連)追放令を出した豊臣秀吉同様に、政治的には事実上「完全拒否」をもって応えたのである。
 教皇が長崎で述べた「核戦争の脅威での威嚇に頼りながら、平和を提案できるのか?」という問いかけも、「核抑止論」を金科玉条として信じている安倍政権には全く通じなかったのである。
 本当に「核戦争」が現実化したときに、彼らがすがってやまない「核の傘」をアメリカがさしてくれると信じている「幻想」を捨てない限り、現実主義者のフランシスコ教皇の警告は彼らには決して理解できない。そして、そういう者たちによって究極において「核戦争」は呼び込まれてしまうに違いないと、筆者は確信してもいるのである。


こうして骨を抜かれてきた日本の大学

2019年11月26日 07時32分12秒 | 政治
 「今月導入が延期された英語の民間試験について、東京大学は去年4月、それまでの慎重な姿勢を転換し、活用へとかじを切りました。今回、NHKは、その直前に開かれた自民党の会議の音声データを入手しました。そこでは大臣経験者が、東京大学に民間試験を活用するよう、文部科学省に指導を求める発言などをしていたことが分かりました。専門家は『大学が萎縮する発言だ』と指摘しています。これについて、東京大学は外部からの影響はなかったとしているほか、大臣経験者は『発言は当たり前で議院内閣制の意味も無くなる』と話しています」(2019/11/19NHK)
 この記事中「大臣経験者」として匿名で扱われている人物は下村博文元文科大臣にちがいない。この人が「英語の民間試験導入を躊躇する東大に対して、文科省から『指導』するようにけしかけ、そのため東大はこの試験を導入することに方針を転換させられた」というのが、この記事の核心である。学術文化とは何か?その中で大学がどうあるべきか?、に無知な政治家による、この国にはびこる「強権政治」のめずらしくもないほんの一例である。
 ここで主題の「英語」の民間試験なるものは、実に不出来な構想であって50万人が受験する規模の試験に採用できる代物ではないとして、手続き初日の11月1日に突如として、来年度不実施と決定した代物である。その事実からしても東京大学の判断は妥当であったことが「証明」されたのである。そういう的確な判断に対して下村氏はあえて干渉していたのである。この干渉が実に不適切であったことはこの一連の事実から明白である。
 ところで、教育と研究という大学の役割について、政治は一定の距離を持つべきであるとして「大学の自治」という概念が世界中で共有されている。しかるにこれが日本国において厳粛に守られてきたかと言えば遺憾ながら首肯できない。戦前史で多くの政治介入が有ったことは歴史に明らかだが、戦後も数々の介入があった。
 しかし、大学の自治への介入は下村氏のように「政治」からばかりではない。彼の「命令」に唯々諾々と従った文部科学省もまた同様であって、「監督」官庁という「誤解」の上に、この原則を侵し続けてきたのである。
 しかし目を転じて、これら両者に唯々諾々と従った東京大学もはたして大学の自治を主張することができるのであろうか? 文科省の「指導」という名の「干渉」に大した「抵抗」もせずに従ってしまった不見識は、この大学に「自治」を主張する資格を疑わせる所業である。
 そもそも、大学入試はそれを実施する大学が自らの設置理念に合致する学生を選別するために責任をもって選抜方法を考え、実施することが当たり前であって、50万人近い受験者に一律の試験を実施するというのがそもそもあるべきことではなかった。それでも共通テストをしたいのであれば、受験資格試験として高校卒業資格認定とし、最終的な合否判断は各大学の入試選抜システムに任せるべきである。
 1981年に共通一次テストを国立大学に課したのは明らかに文部省(当時)の拡張主義であった。それを公私立大学にまで拡張して「入試センターテスト」とし、ついに民間業者にまで参入させる商業主義に堕落したのではなかったか?
 大学に責任と自覚を持たせるためにも、この際、すべての入試選抜の仕組みを大学に戻すべきだ。


今年は梅で始まって桜で終わるらしい?

2019年11月22日 07時55分32秒 | 政治
 「銭湯で 上野の花の うわさかな」、正岡子規の作という。下町の若い衆がザクロ口から出てくる煙にむせながらうす暗い洗い場で向島や飛鳥山、上野のお山の開花のうわさをしているものと病床で想像しながら詠んだ句であろうか?
熊:「八っつあん、おれ、今日上野のお山に行ってきたよ」
八:「どうだった?」
熊:「いや凄ぇなんてもんじゃねぇ。人間だからいいが、犬じゃきっと咬みあって、てぇへんだぜ!」
八:「そんなに人が出てたのかい!? それで花はどうだった?」
熊:「花?!、、花はどうだったかなぁ!?」
 熊さんは、何のために上野の山まで出かけて行ったのかが分からない。何のことは無い。熊は大騒ぎを見に行ったので花などは咲いていようといなかろうとどうでもよかったのである。
 桜という花は、こういうあわて者の熊さんや八っつあんの世界でも愛される、よく言えば大衆的、悪く言えば俗物である。もっとも、こういうように庶民の花になったのはそう古い話でもなくて江戸時代末期から明治に入ってからだという。とりわけソメイヨシノのような絢爛豪華な桜が発見されそれが広く普及していった明治以降、その世俗化に拍車がかかったということらしい。
 しかし、本当は桜は古来そういうものではなかった。桜は、戦乱で多くの命を失った戦跡にその死者の霊を鎮魂するために植えられたものだったという。サクラの名所と言えば吉野山だが、吉野の桜は南北朝戦乱の戦場で落命していった無数の兵士の死を悼む献花だったのである。
 死をいたむ花が、やがて死を美化する花に変ったのは先の大戦中だ。「靖国で会おう」を合言葉にした兵士たちの脳裏にあった光景は九段坂に咲くソメイヨシノの絢爛豪華な花だったのであろうか?。桜の花の記号論のこういう聖性と俗性、これがこの花の一大特徴であり一大欠陥でもある。
 その点、梅には桜のような通俗性が無い。新元号「令和」は萬葉集から「梅花」を読んだ貴人らの歌会から採ったという。少々こじつけっぽかったが、この春の4月朔日、総理大臣の記者会見における元号制定の説明では梅の花の「聖性」について語られていたように記憶している。
 しかし、その説明者の安倍氏は、その2週間後には新宿御苑の満開の桜の下で大いに「俗物性」を発揮した。こういうインモラルを刺激するのは桜なればこそであろう。幸い、来年はこの行事は止めるそうだが、いっそのこと「桜を見る会」は永久にやめて、「梅を見る会」にしたらば羽目を外すことは無くなるかもしれない。水戸の偕楽園でも会場にして開催してはどうだろう?
 もあれ、間もなく師走、今年は聖なる「梅」に始まって俗な「桜」で終わるらしい。そういえば、毎日数通年賀欠礼のはがきが届いている。桜でふざけている「煉獄」を後にして「西方浄土」に身罷った人々がこんなに沢山いたのだ。こういう便りが来なくなるころには年賀状のあて名書きを始めなくては・・・