蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

古本まつりのあと。

2005年11月06日 15時27分15秒 | 古書
古本まつりの余波がまだ続いている。じつは古本まつりが終わったあとの神保町のうほうが面白い。売れ残った品がまるで嵐の後の浜辺みたいに店頭に並ぶので、古本まつりがまだ終わっていないような雰囲気で、要するに賑やかなのだ。
昨日は神保町に行く前に高円寺の都丸支店を覗いた。二週間ぶりなので何か面白いものはないものかと探したら、店内に衛藤即應の『宗祖としての道元禪師』が千二百円で出ていたので買ってしまった。あとは店外の廉価本コーナーで数冊。店内の語学書コーナーにSandersのドイツ語文法書があったけれども三修社からの復刻版だったのと、お値段高めだったので今回は見送った。そんなわけで都丸での成果は、
1.『宗祖としての道元禪師』衛藤即應著 岩波書店 千二百円。
2."Grammatica Italiana Descrittiva Su Basi Storiche e Psicologiche"M. Regula J. Jernej Franke Verlag Bern und München 1965. 五百円。
これはイタリア語で書かれたイタリア語文法書。ただし出版社はドイツ語圏の会社というのがいかにもヨーロッパだ。
3."Gramatica Portuguesa"Pilar Vazquez Cuesta Maria Albertina Mendes da Luzcho著 Gredos Madrid 1961. 三百円。
スペイン語で書かれたポルトガル語文法書。
4."Gramatica Catalana"全二巻 Antonio M. Badia Margarit著 Gredos Madrid 1962. 六百円。
同じくスペイン語で書かれたカタルーニャ語の文法書。表紙が痛んでいたので糊で修繕した。
3.4.はともに仮綴本。どうもラテン系の言葉を研究していた人の放出品らしかったが、有り難いことに傍線、書き込み等一切無しだったので、保存の悪さには目をつぶることにした。
この日は店内が混んでいた。古書店で混み合うなんてのは常識的にはおよそ考えられない。ところが都丸はわたしが訪れるときはいつも必ず客が入っているからすごい。しかし、すごい、すごいと思いつつも成果としては今ひとつだった。
ここは神保町でリベンジだっ、てなわけで勇んで古書会館のぐろりや会に臨んでみたら、
1."Erkrälendes Handbuch der Fremdwörter"F. A. Weber著 Verlag von Bernhard Tauhchnitz 1888. 八百円。と、
2."Dictionnaire Médical des Langues Allemande et Française"Paul Schober著 Verlag von Ferdinand Enke Stuttgart 1908. 八百円。
があったので買った。武蔵野市境にある泰成堂書店の出品で、1.はドイツ語における外来語の辞書で、2.は医学用語辞典。こちらは二部構成になっていて一部は仏独、二部は独仏のリファレンスとなっている。安いだけあって二冊とも背の皮装丁が少々痛んでいたが、これはワセリンをすり込んで修理できる。こんな作業ができるのも洋古書を買う楽しみのひとつなのです。
しかしぐろりや会での成果はこれ止まりで、わたしとしてはかなり前向きな姿勢で書架を漁ったのだけれども、気に入りの品は見出せなかった。ぐろりや会では八月に宇井伯壽の『佛教汎論』を三千円で購入したことは前に書いたことと思うが、どちらかというとこのところ不調に終わることが多い。
そこで最後の勝負、ということですずらん通り入口の大島書店を覗いてみた。Ph. Plattnerの"Ausfuhrliche Grammatik der franzosischen Sprache"全五巻を二千円で購入した。ところでわたしの記憶に間違いがなければ、この本は先般の洋書展でたしか都丸支店から三千円で出品されていたはずだが、それと同じ品なのだろうか。わたしには同じものに見えて仕方がないのだ。でもそんなことってあるものだろうか。昨日は都丸、今日は大島なんてちょっとねえ。なぜ洋書展のときに購入しなかったかというと、その時点ではフランス語文法書に興味がなかったのと、荷物が多すぎて持ちきれなかったからなのだ。たしかにこれはわたしの原則「古書は気合で買う」に反した行動だったけれども、結果として千円分得をすることとなった。それにしても、この大島書店という店はどうもよくわからない。とにかく安いのだ。薄利多売を営業方針としているのだろうか。
その後、三省堂裏の古書モールをチェックした。左近義慈の「新約聖書ギリシャ語入門」を五百円ということと、小口も見た目がきれいだったのでコンディションチェックをしないまま買ってしまった。かなり疲れていたので、そんなことになったのだが、カフェテラス・古瀬戸でキリマンジャロを飲みながら改めて点検してみた。27ページ位まで鉛筆で傍線や書き込みがされていたが、それ以降は手付かず。つまりこの本の旧所有者は第六課「未完了過去直説法能動相」までで挫折してしまったらしい。ま、外国語学習の典型的なパターンです。

アナザ・ワールド

2005年11月05日 06時16分41秒 | 悼記
友人のSは三島由紀夫を気取っていた。彼の相貌そのものは三島に似ていたとはいいかねるが、体躯については筋肉質タイプでクレッチマーの分類でいうなら粘着質タイプ(E型)といったところか。
もう数十年も前のこととなってしまったが、あるときSが奇妙な話をした。いつも通っている近所の銭湯で「日本画の先生」と顔見知りになったというのだ。Sの話によるとなよなよした感じの男性で、身体を洗うときも人目を避けるような仕種をするらしい。その「先生」から掛け軸を鎌倉まで持っていくアルバイトを依頼されたのだそうだ。Sは「先生」から掛け軸を預かると、鎌倉の指定された住所まで持参した。受取り人は「先生」と同年輩の、つまり五十代くらいの男性だったそうだ。結局話はそこまでのだったが、Sによるとその受取り人は自分を嘗めるように見ていたという。と、ここまで聞けばいくら鈍感なわたしにだって大方の察しはつく。その「日本画の先生」とやらはSに目をつけて、というか贄として彼を鎌倉の同好者に送りつけたわけだ。結論としてSはこの鎌倉在住の同好者の好みに合わなかったらしい。露骨ないい方をすればオカマを仕掛けられずに済んだということになる。
Sの話をどこまで信じたらよのか、わたしには判らない。しかし彼の性格からして作り話をするようなことはないので、おそらくこれは本当にあったことなのだろう。当時のSの風貌からして、その趣味の者には心引かれるものがあったことは大いに想像できる。しかし、例えばジャン・ジュネを気取って白色ワセリンを持ち歩いたり、近所の某大学に美少年がいるという噂を聞きつけては見に行こうなどとはしゃいだりしても、けっして男色だという印象は受けなかった。どうしてそう感じたかというと、彼のそのような行為があまりにも戯画的だったからだ。ところでSは女子学生から秋波を送られている気配があった。当時わたしが好意を寄せていた某女子学生もSに興味を持っているようだった。だからわたしは一層Sに嫉妬した。当時のわたしにはSが自分にないものすべてを持っているように見えたものだった。
ところでこの鎌倉の一件は、わたしにとって軽いショックだった。自分の身近なところにそのような世界へのインタフェースがあるこという事実を容易に受け入れることができなかった。しかもそんなインタフェースに遭遇していたのはSだけではなかった。同じクラスのYもエロ映画専門館で誘われたそうだ。YはSよりもずっと容姿は劣るのだが(失礼)そんな彼でも誘われる、いやはやなんともわたしの理解を超える世界もあるものだと、自分の世間知らずをつくづく思い知らされた。。
今わたしは何を語ろうとしているのだろう。Sが男色ではないことを主張したいのではない。そんなことは明らかだ。なぜならわたしは彼が亡くなるまでその日常を聞かされてきたのだから。もっともSがはっきりとわたしに「俺は年下の女はだめだ」と自身の嗜好を白状したのは、お互い学校を出て社会人になった後のことだったが。
しかしそれにしても、記憶というものはいつも今現在のものでしかなく、けっして重層的であることはない。だから過去の時点の出来事は何もかも今現在の記憶の中に収斂され、あの時この時の否定的評価も肯定的評価もすべて一緒くたになってしまい、今生きているこのわたしの視点でしか再構成されないということになる。この点はちょっと注意しておく必要があると思う。

三ノ輪橋でサムソンだって???

2005年11月04日 06時32分51秒 | 本屋古本屋
都電荒川線は新宿区早稲田と荒川区三ノ輪橋間を結んでいるチンチン電車だ。なぜチンチン電車かというと発車するときにチンと鐘を鳴らすので俗にそう呼ばれている。これはむかし車掌が乗務していたころ、運転士に発車の合図をするための鐘をならしていた名残で、ワンマン運転の今日では必要ないものなのだが、どうしたわけか今でもチンチン鳴らして発車する。チンチン。
一昨日の水曜日、ちょっとした用件で南千住の叔父の家まで出向くことになってしまった。じつはこの日わたしは仕事を休んで西早稲田の古書店街を徘徊する予定を前々から立てていた。古書店巡りはとても疲れる。歩き回るから、というよりも棚の本を一冊一冊チェックするのに結構体力を消耗するのだ。苦労をしたあげくそれでも収穫ゼロの日には帰宅するのさえ億劫になり、通りがかりの喫茶店(どういうわけかルノアールが好き)に入り込んで一時間ほど休憩を取らなくてはならなくなる。そんなわけで古書店を見歩いた後、自宅とは反対方向の叔父の家に向かうのは正直言ってものすごく嫌だった。それでは古書店巡りのほうを諦めればよいではないか、たかが趣味なのだから、と常識ある人はいうに違いない。ごもっとも、仰るとおり、全面的にあなたは正しい。しかし、そのような融通がわたしには利かない。理由はいたって簡単、つまりわたしが書痴だからだ。
わたしは予定を変更することなく、早稲田通りを行ったり来りして古書店を覗いて回った。ここは神保町と異なり通りの両側に店がある。だから横断歩道を渡ってあっちへ行ったりこっちへ来りなんてことになってしまう。神保町に新規開店の古書店が増えているという話をきいたけれども、早稲田は古書店が減っていく一方のように見える。それとも増えているのをわたしが知らないだけなのか、それならよいのだが。ところでこの日の成果はというと、これはまったく無し。期待していた文英堂も五十嵐書店もだめだった。五十嵐は以前の店舗のほうがわくわくさせられたが、新しくなってからどうもいけない。
話は変わるのだが、かなりまえ穴八幡の近くに小さな洋書専門店があった。緑色をしたFelix Meiner社の"Philosophische Bibliothek"が狭い店内一杯に詰込まれていてとても人間の入る隙間などない、不思議な店だった。それとH堂がめっきり元気がなくなってしまった。わたしが学校に通っていた頃はまだ活気を感じたものだったが、いまではまるで死んだように侘しい。本郷も古書店が激減しているそうだ。神保町だけが頑張っているという構図はちとさびしい。
すっかり疲れて夕方五時頃、早稲田から都電荒川線に乗り込んだ。早稲田大学横のグランド坂を下って停留所までたどり着いたのだが、帰宅してから調べてみると西早稲田の古書店街への最寄駅は終点早稲田の一つ手前、面影橋停留所だった。早稲田では遠くなってしまうことを知った。しかし心身ともに疲労困憊だったわたしには、始発の停留所で腰掛けることができたのは幸運だった。というのもこの路線、思いのほか混んでいて特に町屋まではなかなか席が空かなかったからだ。町屋でかなりの乗客が降り車内はがらがらになってしまう。終点の三ノ輪橋に着いた時、客は数人にまで減っていた。
ところで三ノ輪橋停留所を出て左折すると古書店があった、どうも最近開店した様子で店の中は広いほうだ。「古書~」と金文字で入り口の表に店名を掲げていたが、名前を失念してしまった。入店するとまだ建材の匂いがプンプンとする。並べられているのはほとんどがコミックで、奥のほうの棚に小説の単行本が置いてあったが、白っぽい物ばかりでこれで「古書」店でとはちょっと痴がましい。せいぜい「古本」屋に留めておいて欲しいものだ、などと思いながら店の一番奥の棚に目を遣ると、これはなつかしい『薔薇族』『アドン』『サムソン』なんて雑誌のバックナンバーが置いてあった。わたしはノンケなので内容には一切興味ないが『サムソン』の表紙に描かれているデブ男たちの絵は笑えた。いったいどのような人物がこんなデザイン考え出したのか、大いに興味を掻立てられたのもだ。チンチン。
でもって、その後叔父の家になんとか行き着き、用事を済ませ一杯ごちになって地下鉄日比谷線で帰宅したら、十二時近くになっていた。今日も疲れた、頭が重い。

さんぽ、日本橋室町。

2005年11月03日 05時44分39秒 | 彷徉
日本橋に用事があったちなみに、ちょっと界隈を徘徊してみた。
三井本店、そうあの三井住友VISAカードの三井。擬古典主義というのだろうか、とにかく立派な建物だ。だいたいこういうのが好まれるところは新興諸国に多いのであって、例えばアメリカなどがその好例といえる。アメリカ合衆国は中南米諸国に劣らず、ヨーロッパから見れば新興諸国の一つに過ぎないのだから。さて一九二九年(昭和四年)竣工なったこの建築物は、設計をトローブリッジ&リビングストン事務所(米国)、施工をジェームス・スチュアート社(米国)が請負ったが、これら米国の会社に任せた三井合名会社の大番頭、団琢磨はさすがに先見の明があった。
三越といえばなんといっても入り口に鎮座する獅子像二体。仄聞する所によれば大英帝国はロンドン、トラファルガー広場のネルソン提督記念塔の脚下に配された四頭の獅子の昆季にあたる践歴正しき血脈とか。努々これに跨ろうなどと思ってはいけません。ところでしかし今日注目すべきはライオンではなく、三越の金文字の上にこれまた燦爛と輝くメルクリウス像。商人と泥棒の守護神である一方、身罷った者を冥界へと導く案内役としての顔も持っているこのギリシア神話の神がまさに飛翔しようとしているその下を、善良なる消費者は日々出入りしているというわけだ。
中央通に沿った家屋が皆ビルディングに建て変ってしまった中で、この一軒、鰹節の大和は未だに木造二階建て、往時の店屋の佇まいを今日に残してくれている。ここに来たならまずは黒塗りの下見板に注目しなくてはならない。どこかの地方都市でなら決して珍しくはないのだろうが、しかしここ所は東京の中央通、しかも正面が三越で斜め右前には三井本館というロケーションにおいて、黒塗りの下見板に瓦屋根の木造二階屋なのだ。これはまさに奇跡的といっても過言ではない。
室一仲通商店街の中ほどから中央通方向を眺めると、丁度昼時とあって近辺の企業の従業員などが外に出始めたところだった。中央通を挟んで三越側もこちら側も室町なだが、街の様相はというとかなり異なりこちら側には木造家屋などが比較的多く残存している。つい先ごろまではデフレ不況の影響もあってか、再開発という名目での町内破壊は一時休止状態にあるようだったが、いずれはこの辺りも鉄とガラスとコンクリートの埃っぽい家並みになってしまうのだろう。室一仲通商店街から脇に入った路地、道の中央に排水の為の窪みが設けられた光景は、どう見ても昭和三十年代のまだ働く大人の街であった渋谷や新宿、池袋を彷彿させる。そう、街とは須らく大人のものなのであって、大人にあらざる者、畢竟自ら食べて行くことができないような若輩どもの出歩くような場所ではないのであります。
大衆食堂だと思うのだが、これはショー・ウィンドウに展示されたサンプル食品を見て、こちらで勝手に判断したもの。しかし恐らくこの判断に誤りはないものと確信している。わたしは実際にこの店に入っていないので、というよりも入る勇気がなかったので、美味いか不味いかまではわからない。興味のある方は現地を訪れてこの店を探してください。ただ、一言申し添えるならば、店先に放置された雑草生い茂る薄汚い植木鉢や、開け閉めの際にはガタピシ音をたてそうな曇りガラスを嵌め込んだ引き戸や、いかにも安物然としたショー・ウィンドウのサンプル食品などからは、この店の基本方針が「フリの客お断り」なのではと疑わずにはいられない。要すればわたしの趣味に合わない。浅草の仏壇屋の広告に「こころは形を求め、形はこころをすすめる」ってな文句があるが(三善堂だったかな)、このような「形」が勧める「こころ」とは如何様なものか、それは読者諸賢にて御判断いただきたい。
街の鶏肉小売店。段々と少なくはなってきているが、まだまだ商売に励んでいる店屋はある。スーパーに並べられたパック詰めの食肉よりも、トレイに積まれた新鮮な肉が冷蔵ウィンドウに並んでいるのを見ると、思わず知らず食欲が沸いてくるのはわたしだけではありますまい。わたしは思うのだが、良い物を手に入れようとするならば、それに見合う対価を負担しなければならないという、まったく当たり前の原則を何故消費者は理解しようとしないのだろうか。今回の東証のシステム障害だって金を惜しんでシステム試験を手抜きした結果に違いないのだ。鶏肉に話を戻そう。鳥皮を焼いてタレで食うのは、なんとも美味いですな。鳥もモツたまりません。私は肉の部分よりむしろこちらの方が好みだ。このことは何も鳥に限った話ではなくて、牛豚、魚にしても、いわゆるホルモン部分の方が一段と美味い。そういえばサバンナの肉食獣は捕獲した獲物の内臓からまず食い始めるという話をきいたことがある。
などと、取り留めのないことどもを考えながら人形町駅まで歩いた。

エミール・ファーレンカンプ

2005年11月02日 05時17分17秒 | たてもの
ケルンの西約六十キロメートルに位置する街アーヘン。カロリング朝ルネサンスを代表する建築物であるアーヘン大聖堂で有名なこの街に、一八八五年十一月八日エミール・ファーレンカンプは生まれた。
この年明治十八年、日本では第一次伊藤博文内閣が発足している。また世界に目を向けるとパストゥールが狂犬病の予防法を発見したり、ベンツ博士がガソリン自動車を発明したりと、人々はまさに輝く未来を信じて疑わない時代だった。ファーレンカンプはアーヘンの建築家カール・ジーベン教授の事務所で建築家見習として働きながら職業訓練を積み、一九〇九年にはデュッセルドルフに移って三年間ヴィルヘルム・クライス事務所のアトリエ主任として働いている。忙しく毎日の仕事をこなしながらも彼は建築コンテストに応募したり、自分独自の設計図を引く時間を作っては研鑚を積むことを忘れなかった。そうこうする内に、一九一一年にはデュッセルドルフ技術実業学校の夏学期に出勤し、最初の二つの学期をあのマイスター・アルフェレート・フィッシャーの助手を務め、一九一二年の夏学期からは補助教師として一本立ちし学生の指導にあたっている。一九一五年三月、ファーレンカンプは第一次世界大戦で召集されたが、ほどなく東部戦線で左腕を負傷し前線から「恒久的に役に立たない者」として送還させらた。しかし残った障害は幸いなことに軽く(つまり診断した医者が未熟だったためと言うべきか)仕事にも私的生活にもなんら支障が生じることはなかった。結局彼は一九一六年四月からデュッセルドルフで教師活動を再開することとなる。戦争が終わった年、一九一九年にデュッセルドルフ技術実業学校の建築部門が芸術アカデミーに併合され、ファーレンカンプは他の教師仲間ともども棚ボタ人事によりアカデミー教授職の地位を手に入れることとなった。こう見てくるとエミール・ファーレンカンプという人物はかなりいろいろな幸運に恵まれていたのだということがわかる。概して人は才能だけではなかなか生きては行けない。では逆に幸運だけで世の中を渡って行くことができるのかというと、これはこれでなかなか難しいものがあるとも思う。
ドイツ工作連盟"Deutscher Werkbund"はとヘルマン・ムテジウスによって一九〇七年ミュンヘンにおいて設立された団体であり、その目的とするところは「芸術と産業と職人技術の協力」を通して工芸の「品位を高める」ことにあった。設立の背景には経済的事情(輸出振興のためのデザイン改革)や政治的状況(民族主義の勃興)があったようだが、高品質な仕事をめざして各産業分野の協調を奨励した結果、工業製品製造の機械化およびこれに伴う規格化が推進されることとなった。初期のメンバーとしてはユリウス・ホフマン、ハンス・ペルツィッヒ、ペーター・ベーレンス、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデといった人物が挙げられる。当然といえば当然のことなのだが、芸術志向のヴァン・デ・ヴェルデにとってこれは肌が合うはずもなく、一九一四年のケルン連盟博覧会の後彼はドイツ工作連盟を離れることとなった。因みにドイツ工作連盟は一九三三年ナチスによって解散させられている。エミール・ファーレンカンプがドイツ工作連盟に加盟したことについては、彼が特にベーレンスの主義主張に同調していたというよりは、むしろ彼の処世的態度にその理由を求めたほうが判りやすいのではないか(簡単にいやあ出世志向ってやつですか)。デュッセルドルフ芸術アカデミー教授としてのファーレンカンプは工業界が必要とする技術者を養成するための職業教育を導入していわゆる産学協同を進めて行くのだが、この工業界との良好な関係のゆえにあの時代ヘルマン・ゲーリンクの取り巻きのなかに生き残ることもできたわけだ。
ドイツの東端、ポーランドとチェコに国境を接する街、ツィッタウ。ザクセンの郡役所所在都市、木綿紡績、金属製品、自動車、電子技術が地場産業だが、鉄道ファンにとってはまさに巡礼地のような場所として知られている。そのツィッタウでエミール・ファーレンカンプが手がけた"P.C.Neumann G.m.b.H."の織物工場は彼の一九二〇年代のプロジェクトに見られる簡潔で単純な形態のなかに、石とクリンカーで仕上げられた壁面に特徴的だが、表現主義的で装飾的な要素がよく現れている。この作品は「ドイツ織物市場においてこの企業が外国で兄弟企業が既に占めている指導的立場を手に入れることを、より短時間で可能にする工場施設がここに完成されたのである」(注1)と当時評価されている。ただし実際の現地の現場監督および平面図構成の改造に当たっては、多忙なファーレンカンプに代わってツィッタウの建築家レーヴとウェンティッヒが手がけている。

写真資料:Moderne Bauformen Monatshefte für Architektur und Raumkunst XXVII. Jahrgang 1928 Verlag Jurlius Hoffmann Stuttgart
(注1)出典は写真資料に同じ。

羅甸語事始(二十)

2005年11月01日 03時51分24秒 | 羅甸語
はじめに、前回自分に課した宿題への回答から。
"In oppidis Italiae erant et ludi et scholae. In ludis pueri elementa prima discebant, sed in scholis Graecos poetas maximeque Homerum legebant. In Iudo vir qui pueros exercebat magister appellabatur, sed schola docebatur a viro doctissimo qui appellabatur grammaticus. Scholae pulcherrimae saepe erant et columnis marmoreis et statius Minervae ornatae erant. Nam Minerva dea sapientiae est. Grammaticus discipulis verba Homeri cotidie recitabat et discipuli verba grammatici iterabant iterabantque. Denique verba Homeri memoria tenebant. Quot verba Homeri vos memoria tenetis?"(注1)「イタリアの都市にはludus とscholaがあった。ludusにおいては少年たちは読書きの初歩を学んでいたが、scholaではギリシアの詩人とくにホメーロスを読んでいた。ludusでは少年たちを訓練する男性が教師と呼ばれていた。しかしscholaでは文法家と呼ばれていた大へん博学な男性によって教えられていた。立派な学校がいくつもあり、そして大理石の列柱とミネルバの像によって飾られていた。というものミネルバは知恵の女神だったからである。文法家は弟子たちのためにホメーロスの言葉を毎日朗誦し、弟子たちは文法家のいろいろな言葉を繰り返しては繰り返していた。そしてついにはホメーロスの言葉を彼らは記憶したのである。どれほど多くホメーロスの言葉をあなた方は記憶しているだろうか。」
このラテン語文を邦訳するに当たって注目した点についてあげると、
(1)"ludus" と"schola"は適当な訳がなかったので敢えて原語のままとした。なおオックスフォードのラテン語辞典では"ludus"については"play"の他に"A place for exercise, plase for practice, school"という説明が(注2)、また"schola"については"an intermission of work"の他に"A meeting place for teachers and pupils, place for instruction, place for learning, school"が載っていた(注3)。
(2)"elementa prima"の"elementa"は中性名詞"elementum"「第一原則」の複数形だが、複数形で「基礎」という意味にもなる(注4)。ところでランゲンシャイトの羅独辞典では"elementa"の意味としてはっきりと"Buchstaben"(文字)という訳を載せているが(注5)、これがもっともわかりやすい。つまり"elementa prima"を直訳すると「初めての読み書き」というほどの意味になる。
(3)"doceo"「教える」の未完了過去受動相三人称複数。ここで受動相が出てくる。これについては後ほど見てみる。
(4)"maximeque Homerum"の"que"は"et"つまり接続詞"and"と同じ働きをする。
(5)"qui"は関係代名詞男性単数主格。これはフランス語と同型なので類推できた。しかし関係代名詞も形容詞のように曲用がある。これについては別途関係代名詞の回を設けてじっくりと考えてみたい。
(6)"sed schola docebatur a viro doctissimo qui~"の"schola"は主格ではなくて奪格であるから、これは前置詞"in"を補って解釈すればよい。もっとも奪格そのものが場所を指示する機能があるので、前置詞は不必要かもしれない。しかしわたしのように現代語に慣れてしまうと前置詞がないと不安でたまらない。
(7)"a"は奪格支配の前置詞「~によって」だが、(5)でも述べたように必ずしも必要ではない。しかしあったほうが文意がより明確になる。
(8)"doctissimo"は形容詞"doctus"「博学な」の最上級形の単数奪格で「たいへん博学な」というほどの意味。もちろん"viro"を修飾しているのでこれに性、数、格が一致しているというわけ。
(9)"appellabatur"は"appello"「呼ぶ」の未完了過去受動相三人称単数形。またしても受動相。

(10)"grammaticus"は「文法家」あるいは「文献学者」というほどの意味に理解した。このラテン語文のネタ本である『初等ラテン語読本』の「語彙」には「語学者」という訳が載せてあるが(注6)、これは誤解を招くのでよくない。
(11)"ornatae" は"orno"「飾る」の過去分詞でここでは過去完了となるが、完了受動分詞と解釈して「飾られていた」と訳した。分詞についても別途そのための回を設けて考察する。
(12)"cotidie"は"cottidie"とも綴る。「毎日」という意味の副詞。
(13)"Grammaticus discipulis verba Homeri cotidie recitabat"の"discipulis"は奪格支配前置詞"pro"を補って解釈して「弟子たちのために」と訳した。
(14)"verba Homeri memoria tenebant"の"memoria"は女性名詞単数の奪格だからこれを手段の奪格として「彼らは記憶によって持った」となるが、これでは日本語ではないので単に「彼らは記憶した」と訳した。
以上、邦訳についての補遺を述べたのだけれど、何分にも素人なのでひょっとしてとんでもないことを書いてしまっているかも知れない。もしも間違っていたらコメントを下さい。
でもって、やっとここから今回の主題である受動相の話に入っていこうとしたのですが、一回分の文字数を既に大幅に超えてしまっているので、受動相は次回ということで。今回はこのあたりでお開き。

(注1)『初等ラテン語読本』2頁 田中秀央 研究社 1996年4月20日19刷
(注2)"An Elementary Latin Dictionary"p.481 Charlton T. Lewis Oxford Unversity Pres 1966
(注3) ibid. p.756
(注4) ibid. p.274
(注5)"Langenscheidt Großes Schulwörterbuch Lateinisch-Deutsch"s.422 Langenscheidt KG, Berlin und München 2001
(注6)『初等ラテン語読本』70頁