ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「赤穂城断絶」深作欣二 ~反逆者たち~

2019-03-07 07:01:21 | 映画


wowowで放送していたのを途中から(浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こして切腹した後で吉良はお咎めなしという報告を大石内蔵助が聞くところから)観たのですが、あまりの面白さにぐいぐい引き込まれてしまいました。

赤穂事件はほぼ内容をしているからというのもありますがやはり深作欣二監督の演出の痛快さにあると言えましょう。歯切れよく場面が動いていき所作といい、台詞といい、小気味い展開で構成されています。
大石内蔵助の前に集まった武士たちが誓紙血判する場面など計算されつくした画面でありオペラを感じさせるものがありました。

大石を演じる萬屋錦之助はじめまばゆいばかりのオールスターキャストであり、美術も今とは違う重厚さがあります。登場する人の数も衣装も今の時代ものとはまったく異なるように見えました。
そして動きやセリフ回しの妙はやはり時代が進むごとに軽くなってしまうのは仕方ないことなのかもしれませんが俳優自体も昔のほうが骨太い個性があると思えてしまいます。

大ヒットした「柳生一族の陰謀」の半分にも満たない興行成績と書かれていて内容的にも監督自身不本意な作品だったようですが、それでも深作欣二の醍醐味であるアクティブで破天荒な味は今観るとより感じられるのではないのでしょうか。
浪士たちが勝手に起こした狙撃事件の顛末などにも臨場感ある緊張を演出していました。

さてこの映画「赤穂城断絶」の「赤穂事件」は数えきれないほどの小説・舞台・映画・ドラマとなっています。そして面白いのは様々な角度からこの物語を見ていくことができ、様々に考えられる、ということです。


例えばこの「赤穂事件」が「忠臣蔵」というタイトルになってしまうと「ああ、昔のお侍さんたちの滅私奉公の話か」と今の感覚で思われてしまいそうです。
特に浅野内匠頭が我儘で世間知らずのおぼっちゃまだったためにかっとなって刃傷沙汰を起こし切腹を命じられたことで忠実な家来たちが(武士として仕方なく)敵討ちをすることになる、という風にとらえてしまうとどうしてもそんなイメージになってしまうわけですね。

が、本作などを見ていると(途中からだったので浅野氏の行動がわかりませんが)「武士道は喧嘩両成敗。我が殿が切腹したのにもかかわらず相手の吉良はお咎めなしとは何事か」という「政府への怒り」が描かれていると思うのです。
つまり「忠臣蔵」というと「忠義ある武士たちが忠義への反抗もせず上司の名誉のために自らを犠牲にした」と読めてしまいます。
しかし角度を変えればこの「赤穂事件」は
「幕府は力の弱い武士(浅野家)だけを処分して力の強い武士(吉良家)を守ったのだ。こうした政府の腐敗した政治に対してのクーデター」であるわけですね。「忠臣蔵」の忠義は小さな工場長への忠義で政府に対しての忠義ではないのです。

このことはこれまでも言われてきたことだとは思いますが、この映画を観て改めてそう思いました。


気になるのはこの「赤穂事件」「忠臣蔵」がかつては毎年年末にいろいろな演出で必ず映画ドラマ化されてきていたのにこの数年ぴったりとなくなってしまったことです。
毎年あってた頃は「また赤穂浪士か」などと言っていたわけですがなくなってしまうと不気味にも思えます。
繰り返しますが「赤穂浪士」「忠臣蔵」は政府へのクーデターの物語です。忠臣蔵、といってもその忠義は小さな会社社長への忠義であって政府に対してではありません。

力無き者に不正な処分をした政府への怒りであり反逆でありそれを示す暴力行動だったわけです。赤穂浪士がテロリスト集団なのは誰が見ても明らかです。
日本という国は毎年この政府へのテロリズム映画ドラマを作り続けて賛美し続けていたのですがこの数年制作されなくなってしまいました。
これは何を意味するのでしょうか。

「またか」と言いながらも毎年暮れに力強い赤穂浪士たちの結束を見て国民は自分たちもいざとなったらこうありたいものだと頷いていたのです。
こんな不正な政策には団結して反抗できると。

女子供もそうであると。

その映画ドラマがなくなってしまったということに、気づかなくなったら終わりのように思えます。

国家に対する一撃の心を持つことは大切です。



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