平成26年 1月 16日 木曜日
「“永遠の0(ゼロ)”…2014」(小説“永遠の0”より)
今日はバスケの話しではありません。
『永遠の0(ゼロ)』(えいえんのゼロ)は、 講談社から出版された百田尚樹 氏による小説です。
著者のデビュー作であり、売上は100万部を突破 、文庫部門では13 作目のミリオンヒットとなりました 。
昨年の12月に岡田准一主演で映画化されています。
2010 年から2012年にかけて須本壮一作画で漫画化もされました。
終戦間際に特攻により亡くなった主人公 宮部久蔵の足取りを孫である佐伯慶子と健太郎の姉弟が追って行き、宮部久蔵の記憶をさまざまな人間関係の視点から描いたものです。
私は四年前にこの文庫本を読み、今…改めて読み返して、感じたところを書いてみました。
平和な時にあって日本人が忘れてはならないのは…日本が体験した戦争のことでしょう。
先の戦争…支那事変から太平洋戦争に至る戦争が昭和20年に終結してから、69年の時間が経ちます。
時間は事実を風化させていきます。
しかし、この事実は風化させてはならないものと思います。
何故なら、二度と繰り返してはならない事実だからです。
この事実をフィクションとして描いた読み物が「永遠の0(ゼロ)」という小説です。
ここに言う「0」とは零戦のことです。
以下は、この小説の解説の一部をばっすいしたものです。
『仲間から「臆病者」とさげすまされた祖父の宮部久蔵…、絶対に妻と子のために生きて帰るのだと宣言し、
必死で生き残りをかけて空戦に臨んでいた彼が、いったいなぜ終戦直前に特攻を志願し散ったのか、
読み進むほどに宮部久蔵の真の姿が浮かび上がってくる。
男として、人として、いかに彼が魅力にあふれた者であったか、
彼は決して臆病者でもなければ、ましてや卑怯者では絶対に無いことことがわかってくる。
彼は戦争から逃げようとしたのでは断じてない。
むしろ逆に、敢然として闘いながら、全能力を駆使して、この戦争に生き残ることを決意したのだ。
周囲からどう見られようと、どう思われようとかまわない。
肝心なのは なりふりかまわず
どんな手段をとろうが、愛する人のために絶対に死んではならないということだ。』
さて、私がこの小説を読んで感動を覚えたのは、ふたつあります。
ひとつは、主人公の孫が、自分達のルーツである祖父の生い立ちを知っていくことで、自分達が今を生き、生かされていることを知ること
ひとつは、宮部久蔵が語る…十死零生について語るところです。
『特攻機を特攻まで、直接守る役目を担った直援機がありました。
この直援機も未帰還機があり、特攻機でなくとも特攻のようなものでした。
しかし、宮部久蔵は言うのです。
「直援機は特攻機とは全然違います。
直援機は、九死に一生ということがあります。
たとえ絶望的であろうと、生き残るために戦うことができます。
しかし、特攻員は十死零生なのです。」
十死零生は、死ぬことが決まった任務なのです。』
なぜこのような愚かな任務をエリート将校は思いつき実行させたのでしょうか?
これで散っていった者は、ほとんどが当時、学徒出陣で出兵した大学生の若者達です。
まさに、次代を担う若者達を消耗品のように扱ったのは…
陸士、海兵や陸軍大学、海軍大学を出たエリート士官と呼ばれた職業軍人なのです。
学徒出陣された方達は、十死零生を自ら受け入れたのではないのです。
この人たちが残していった手紙の行間には、生きて帰りたいという強烈な想いがあると言います。
十死零生は「必ず死ぬ」と書く「必死」とも違います。
必死とは、生きることなのです。死ぬ思いをもって生き抜くことなのです。
戦争という悲惨で、理不尽なことも…、“国”という立場ではあり得るのです。
戦争などしてはならない。
そのためには、この事実を忘れない、この事実の悲しみを二度と繰り返してはならない…
その想いを、小説「永遠の0(ゼロ)」は心に染み込ませてくれました。