3月11日。この日は絶対忘れられない日です。
10年前の東北地方の大地震の日、という事もですが、わたし個人としても忘れられない日です。
”忘れられない日”と言う理由の一つ。今日は初孫が生まれた日です。たった一人の孫娘です。今日で孫娘は26歳になりました。彼女は看護師になり、病院で元気に働いています。彼女とは仕事柄もあるのですが、コロナの流行で会えるチャンスが少なくなり、寂しいです。
”忘れられない日”と言うもう一つの理由。母の通夜でした。6日に富士宮で急逝。わたしは母に毎日に朝、昼、晩の3回電話をしていました。たまたま10年前の今日は、琵琶湖マラソンの日でした。マラソンや駅伝が大好きな母が寝ている訳ありません。マラソン中継を見ないはずありません。
翌日の7日に、母の遺体を大森の自宅に連れて来ました。お通夜までの4日間、母はベッドでは無く座敷に布団を敷いて寝ていました。
11日の午後、母を迎えに葬儀社がやって来ると言うので、お昼前に実家に移動していました。
実家は10階建てのビルの10階でしたから、その揺れは経験したことも無い物でした。地震の時に揺れる様に建てたそうですが、建物が倒壊するのデハ?と思ったほどです。食器棚から食器やグラスなどが床に落ち、粉々に割れガラス片が飛び散り危険でしたので、掃除機を掛けていました。
通夜式が終わってから葬儀場の控室でテレビで凄まじい光景を見て、言葉が有りませんでした。
余震がありましたし、10階では怖くて寝られないと言う姪たちとその子供たち全員、葬儀場に泊まることになりました。わたしは妹が彼女の家に泊まるよう声を掛けてくれましたので、妹の家に泊まりました。実家から近いことも有り泊まるのは初めてでした。
この所の新聞やテレビは3月11日の報道ばかりです。被災地の痛ましい様子を見ながら涙しながら、母を想い出してます。我儘な母でしたからわたし的には大変でしたが、憎めない母でした。
時々、コロナ下の今、母が居ましたら大変だったのでは?と時々思います。
富士宮と横浜の往復も、運転を辞めたわたしにはもう出来ません。わたしには永久的に、3月11日は重たい日になるのでしょうね。
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