回遊草(KAI YU SO)

さすらいの乙男妄想オヤジの妄想ブログ。あらゆるジャンルのカワイイを中心に浮気中?でも、惚れてるのはやっぱり「ミク」かな?

「尽くす」と「尽くしたい」の違い~くぅの恋愛についての私的考察

2008-12-01 23:06:54 | 倖田來未(くぅちゃん)
『Mフェア21』の中で、「尽くしたい派」か「尽くされたい派」かのアンケートがあり、くぅは予想どおり「尽くしたい派」であると答えた。

ファンなら誰でも知っているように、「くぅは、恋愛になると尽くす」人である。

もうひとつ、ファンなら誰でも知っているように、「くぅは、彼氏の【携帯】を見る」人である。

実は、私も「(もし)恋愛をしたら、尽くす」人である・・・w(どうでもいいことであるが・・・www)


しかし、(もし彼女がいたとしても)、【携帯】を見たりしない・・・。
(実際に、奥さんの携帯を見たことなどない。)

そのことが、どうしても気になっていた・・・。




そこで出たひとつの結論が、以下である。


【尽くす】と【尽くしたい】は、違うものである。


そもそも、基本的に人は「恋愛」をすると、相手に対して何らかの【尽くす】行為をするものではないだろうか?

例えば、「贈り物」であり、「手料理」であり、「褒め言葉」、・・・である。

好きになった相手に対して、何かをしてあげたい、相手を「喜ばせたい」と思うのが「恋愛」なのではないだろうか?

人によって、その行為の「質」「量」に差があるというのではないだろうか?



では、なぜ「尽くす」のかを考えてみよう。

答えは、簡単である。「応えて」欲しいのである。

多かれ少なかれ、「恋愛」は「ギブ・アンド・テイク」である。「見返り」を期待しているのである。

そんなことはないという人もあるかもしれないが、「恋愛」はそうである。間違いない!

ただ、人によってその「見返り」の「期待値」に差があるのである。


くぅについて、考えてみた。

くぅは、かなりの「見返り」を期待している人である、と私は見た。

「尽くされたい」(たくさん愛されたい)からこそ、たくさん【尽くす】のではないだろうか?

「見返り」を期待するし、自らの【尽くす】行為に対する「代償」を強く求めているに違いない。

だから、自分に対する「裏切り」を許さないのではないか?

それが、「携帯を見る」という行為なのではないだろうか?

くぅの恋愛観を、他にも挙げてみよう。

☆白黒つけたい。→早く、「次」へ行く。

これも、「見返り」が期待できないと「見切り」をつけたら、もう別の相手を探そうとするくらいハッキリしているのである。


『愛のうた』のリリース時の、くぅのコメントを覚えているだろうか?

  今までの自分の恋愛観とは、真逆の恋である

『愛のうた』の「女の子」は、ひたすら【尽くす】人である。【尽くす】ことだけで、「満足」なのである。たとえ終わって「いた」としても、それを「確定」しないで欲しい、「嘘」でもいいから終わらせないで欲しいという女性である。

究極の【尽くしたい派】である。彼女の【尽くす】見返りは、彼女の「想い」を拒否しないことである。嘘でも「恋人」のフリを続けてくれるだけでいいのである。

くぅは、自分はそうではない(白黒ハッキリさせたい)と言っていた。

もしかしたら、彼女と彼の間には「不釣合い」なくらいの立場の違いがあるのではないだろうか・・・?



「モテ男」くんや「モテ子」さんは、どうだろうか?



「モテ男」くんや「モテ子」さんは、【尽くしたい派】である。

なぜなら、彼らは【尽くされる】ことに「慣れ」ているからである。【尽くす】必要なく(暇なく)、【尽くされる】からである。だから、本気で「恋愛」しない。「遊び」である。

そんな「モテ男」くんや「モテ子」さんが「本物」の恋をすると、どうなるだろうか?

【尽くす派】に変身するのではないだろうか? 普段【尽くしていない】から・・・。

心の中で“【尽くしたい】”と、密かに想い続けていたからに違いない。


私のように、「モテナイ男」くんは、「モテタイ(【尽くされたい】)」から、【尽くす】のである。普段、あんまり【尽くされない】からである・・・w

ただ、私はくぅほど「見返り」は期待しない。「ありがとう」のひと言か、「スマイル」で十分である。(ほんとだよ・・・w 信じるか、信じないかはアナタ次第!www)

ちょっとキツイ言い方だけど、「神田來未子」さんは「モテ子」さんではなかったw

だから、【尽くす派】そして【尽くされたい派】になったのでは、ないだろうか?

それも、かなり「見返り」を期待する人だったのではないだろうか?

くぅは、ファンに対して「テンコ盛り」のサービス精神旺盛な人である。

ということは、ファンたる者、相当な「見返り」をくぅ様にしなければいけないのである。

  くぅちゃん、かわいい! くぅちゃん、大好き!

は、当然である。

CDやライヴグッズなども、財布の神様が許す限り、ご奉仕しなければいけないのである。  ・・・かも











ただし、「倖田來未」は、今や誰もが認める「モテ子」さんである。







じゃあ、「くぅ」は、【尽くしたい派」、それとも【尽くされたい派】?













 

論理の飛躍~孤独の闇~

2008-12-01 21:47:30 | Weblog
元厚生省事務次官を襲った連続襲撃事件で、男が出頭して“愛犬を保健所に殺された恨みから…”と動機を話した時、私は「秋葉原」事件を思い浮かべた・・・。

その時に、警察関係者や心理学者は“動機が釣り合わない”と口々に述べていた。

30年も前に死んだ1匹の犬の命と、厚生省トップという高級官僚とその妻の命とでは「釣り合わない」という意味もあったのかもしれないが・・・。

初期の報道で「テロ」という言葉が使われたように、被害者の地位の高さが社会的な「衝撃」を大きくしたかもしれない・・・。

女性の存在や、生活費の出所などの「謎」もあった。

ある人は、背後に「右翼的な組織」があり、彼は「鉄砲玉(単に実行するだけのチンピラ)」ではないかとも推測した。それは、確かに「説得力」のある考えだとも思った・・・。


しかし、彼の供述にはブレがなく、“愛犬を殺された”ことが動機であることは警察でも認めてきているようである。

それでも、事件との落差が大きく、「論理の飛躍」のきっかけを探していると書いてあった・・・。


私は「論理の飛躍」はないと思う。




①彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「小さい頃は、優秀」であった。

②彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「孤独」である。


①と②の間に、大きな「挫折」があり、それを乗り越えることができなかったのではないだろうか?

そこで、「家族」との絆も切れ、「孤独の闇」に沈んだのではないだろうか・・・?

“見違えてしまった”“印象がまるで変わってしまった”と口をそろえて語る「幼なじみ」が多いと聞く。


もし、彼の「存在」を認めてくれる「友」がいたなら、「闇の論理」に落ち込むことはなかったかもしれない・・・。

「普通の人」なら、30年前の「犬」の命と「人」の命とを「秤(はかり)」にかけたりしない。

けれど、「孤独」な彼にとって、おそらくは「人生の頂点」であった「子ども時代」の唯一とも思える「心の友」である「愛犬」の命は、計りようがないくらい大きな価値のあるものに思えたに違いない。

“「命の重さ」は「地球の重さ」にも匹敵する”とか平気で言うが、人は案外、無意識のうちに「命の重さ」に軽重をつけてはいないだろうか?

本当に“人の命は、犬の命よりも尊い”と言い切れるだろうか?

彼にとって、愛犬の命と釣り合うためには、高級官僚まで行き着くしかなかったのではないだろうか・・・?



今の「大人」たちは、日本の成長の時代に育ってきている。大げさに言えば、「ギラギラ」した時代を生きてきた。

明日は、今日よりも「良い」だろう(少なくとも「かもしれない」)と思い続けて生きてきた。

だから、「健全」な思考をする。(囚われる。)

誰もが貧しかった時代には「衣食足りて礼節を知る」は、真理だったはずである。

誰もが豊かな(少なくとも「飢え」たりはしない)時代には、むしろ苦笑を誘うしかないかもしれない・・・。


総理大臣が二人続けて政権を投げ出すことなど、「ギラギラ」した時代では考えられなかった。(一人でさえも、そうである。)

ライバル誌が「コラボ」したり、他局にエールを送るなど、「ギラギラ」した時代では、考えられなかった。


いい事も悪いことも、「考えもしないこと」が起きても、何も不思議ではない時代になっていると思ったほうがいいのではないだろうか・・・?



「原型師」【ボーメ】さん

2008-12-01 00:04:36 | my favorite(お気に入り)
今日の『ETV特集』で、「フィギュア」を取り上げていました。

特に「原型師」の【ボーメ】さんを中心に追っていました。「美少女フィギュア」の第一人者として、「フィギュア」をやらない私でも「名前」は知っていました。

その世界の人からしたら、「神」のひとりでしょう・・・。


私は、高校生の頃までは「プラモデル」をよく作っていました。

今はあるか分からないけど、「レベル社」製の1/72の「飛行機」シリーズでした。複葉機から第2次世界大戦までの「戦闘機」を夢中になって作ったり、壊していました・・・w

進学で家を出てからは、ぱたりと止めて今にいたっています。

フィギュアと飛行機のプラモデルでは「質」が違うけど、アキバ系の「美少女フィギュア」の造形には惹かれるものがあります・・・w

ただし、自分でも不思議なもので、「2次元」には「萌え」るのですが、フィギュアなどの「3次元」になると逆に醒める気がするのです・・・。

「立体的」つまり、より「オリジナル」に近づくという「リアリティー」の故に、逆にその「質感」に不満が出てくるのです。

飛行機とかの「人工物」では問題ないのですが、生き物、中でも「美少女」となるとどうしても納得できないものがあるのです。

それは、「髪の毛」なんです・・・。

フィギュアというものは、「理想」の「美少女」を表現するものだと、私は思います。

だから、「人間(オリジナル)」では「あり得ない」フォルムも可能になります。そして、その「理想」のフォルムを一番美しく表現するための「ポーズ」があると思うのです。

そこに、「原型師」さんの腕(職人技)が発揮されると思うのです。

だから、本体(からだ)を美しく表現するための「衣装」や「髪型」があると思うのです。特に「女性らしさ」を求めるなら、流れるような柔らかな造形が必要になるのです。

フィギュアは、その髪の毛の一番美しい流れの瞬間を切り取って、造形にするのです。

それは、まさに一番美しい瞬間であると同時に、もはや「動かない」つまり髪の毛本来の「柔らかい」という性質を放棄してしまうのです。この「矛盾」が私の中では、心を醒めさせてしまうのです。

他の部位では無視できることでも、「髪の毛」というある意味では(「乳」と並んで)、女性の象徴である大切なものでは、私には我慢ができないのです。


それでも、「美少女フィギュア」の造形には、心惹かれるのです・・・w



「ボーメ」さんの「原型師」ぶりの中でいちばん強く思ったのは、その仕事の「アナログ」ぶりでした。

中でも「粘土」での成形過程の、「無造作」なまでの作業ぶりです。ごく普通の男の無骨な「指先」で淡々と粘土を貼ったり、大まかな形を創っていきます。
もちろん、仕上げなどは「機械」も使いますが、フリーハンド下書きなしに画を描くように無造作に思うくらいにどんどん作業を進めていきます。
それでも、「何ヶ月」もかかるんですけど・・・w

やっぱり、「人間」てすごいもんだと思いました。