元厚生省事務次官を襲った連続襲撃事件で、男が出頭して“愛犬を保健所に殺された恨みから…”と動機を話した時、私は「秋葉原」事件を思い浮かべた・・・。
その時に、警察関係者や心理学者は“動機が釣り合わない”と口々に述べていた。
30年も前に死んだ1匹の犬の命と、厚生省トップという高級官僚とその妻の命とでは「釣り合わない」という意味もあったのかもしれないが・・・。
初期の報道で「テロ」という言葉が使われたように、被害者の地位の高さが社会的な「衝撃」を大きくしたかもしれない・・・。
女性の存在や、生活費の出所などの「謎」もあった。
ある人は、背後に「右翼的な組織」があり、彼は「鉄砲玉(単に実行するだけのチンピラ)」ではないかとも推測した。それは、確かに「説得力」のある考えだとも思った・・・。
しかし、彼の供述にはブレがなく、“愛犬を殺された”ことが動機であることは警察でも認めてきているようである。
それでも、事件との落差が大きく、「論理の飛躍」のきっかけを探していると書いてあった・・・。
私は「論理の飛躍」はないと思う。
①彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「小さい頃は、優秀」であった。
②彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「孤独」である。
①と②の間に、大きな「挫折」があり、それを乗り越えることができなかったのではないだろうか?
そこで、「家族」との絆も切れ、「孤独の闇」に沈んだのではないだろうか・・・?
“見違えてしまった”“印象がまるで変わってしまった”と口をそろえて語る「幼なじみ」が多いと聞く。
もし、彼の「存在」を認めてくれる「友」がいたなら、「闇の論理」に落ち込むことはなかったかもしれない・・・。
「普通の人」なら、30年前の「犬」の命と「人」の命とを「秤(はかり)」にかけたりしない。
けれど、「孤独」な彼にとって、おそらくは「人生の頂点」であった「子ども時代」の唯一とも思える「心の友」である「愛犬」の命は、計りようがないくらい大きな価値のあるものに思えたに違いない。
“「命の重さ」は「地球の重さ」にも匹敵する”とか平気で言うが、人は案外、無意識のうちに「命の重さ」に軽重をつけてはいないだろうか?
本当に“人の命は、犬の命よりも尊い”と言い切れるだろうか?
彼にとって、愛犬の命と釣り合うためには、高級官僚まで行き着くしかなかったのではないだろうか・・・?
今の「大人」たちは、日本の成長の時代に育ってきている。大げさに言えば、「ギラギラ」した時代を生きてきた。
明日は、今日よりも「良い」だろう(少なくとも「かもしれない」)と思い続けて生きてきた。
だから、「健全」な思考をする。(囚われる。)
誰もが貧しかった時代には「衣食足りて礼節を知る」は、真理だったはずである。
誰もが豊かな(少なくとも「飢え」たりはしない)時代には、むしろ苦笑を誘うしかないかもしれない・・・。
総理大臣が二人続けて政権を投げ出すことなど、「ギラギラ」した時代では考えられなかった。(一人でさえも、そうである。)
ライバル誌が「コラボ」したり、他局にエールを送るなど、「ギラギラ」した時代では、考えられなかった。
いい事も悪いことも、「考えもしないこと」が起きても、何も不思議ではない時代になっていると思ったほうがいいのではないだろうか・・・?
その時に、警察関係者や心理学者は“動機が釣り合わない”と口々に述べていた。
30年も前に死んだ1匹の犬の命と、厚生省トップという高級官僚とその妻の命とでは「釣り合わない」という意味もあったのかもしれないが・・・。
初期の報道で「テロ」という言葉が使われたように、被害者の地位の高さが社会的な「衝撃」を大きくしたかもしれない・・・。
女性の存在や、生活費の出所などの「謎」もあった。
ある人は、背後に「右翼的な組織」があり、彼は「鉄砲玉(単に実行するだけのチンピラ)」ではないかとも推測した。それは、確かに「説得力」のある考えだとも思った・・・。
しかし、彼の供述にはブレがなく、“愛犬を殺された”ことが動機であることは警察でも認めてきているようである。
それでも、事件との落差が大きく、「論理の飛躍」のきっかけを探していると書いてあった・・・。
私は「論理の飛躍」はないと思う。
①彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「小さい頃は、優秀」であった。
②彼も「秋葉原事件」の男も、共通して「孤独」である。
①と②の間に、大きな「挫折」があり、それを乗り越えることができなかったのではないだろうか?
そこで、「家族」との絆も切れ、「孤独の闇」に沈んだのではないだろうか・・・?
“見違えてしまった”“印象がまるで変わってしまった”と口をそろえて語る「幼なじみ」が多いと聞く。
もし、彼の「存在」を認めてくれる「友」がいたなら、「闇の論理」に落ち込むことはなかったかもしれない・・・。
「普通の人」なら、30年前の「犬」の命と「人」の命とを「秤(はかり)」にかけたりしない。
けれど、「孤独」な彼にとって、おそらくは「人生の頂点」であった「子ども時代」の唯一とも思える「心の友」である「愛犬」の命は、計りようがないくらい大きな価値のあるものに思えたに違いない。
“「命の重さ」は「地球の重さ」にも匹敵する”とか平気で言うが、人は案外、無意識のうちに「命の重さ」に軽重をつけてはいないだろうか?
本当に“人の命は、犬の命よりも尊い”と言い切れるだろうか?
彼にとって、愛犬の命と釣り合うためには、高級官僚まで行き着くしかなかったのではないだろうか・・・?
今の「大人」たちは、日本の成長の時代に育ってきている。大げさに言えば、「ギラギラ」した時代を生きてきた。
明日は、今日よりも「良い」だろう(少なくとも「かもしれない」)と思い続けて生きてきた。
だから、「健全」な思考をする。(囚われる。)
誰もが貧しかった時代には「衣食足りて礼節を知る」は、真理だったはずである。
誰もが豊かな(少なくとも「飢え」たりはしない)時代には、むしろ苦笑を誘うしかないかもしれない・・・。
総理大臣が二人続けて政権を投げ出すことなど、「ギラギラ」した時代では考えられなかった。(一人でさえも、そうである。)
ライバル誌が「コラボ」したり、他局にエールを送るなど、「ギラギラ」した時代では、考えられなかった。
いい事も悪いことも、「考えもしないこと」が起きても、何も不思議ではない時代になっていると思ったほうがいいのではないだろうか・・・?
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