ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

輪行~どこに置くか

2012-11-28 22:10:43 | 自転車
ちょっと遠くに行きたいと思うときに輪行すると範囲が飛躍的に広がる。
たとえば100km走るとすると往復を考えると50kmが行動範囲になる。
ところが、輪行すると行きの100kmを輪行で、帰りの100kmを自転車で自走で帰ってくることができる。
これはとても大きなことだ。
地図を広げて100kmがサイクリングで行ける範囲になるとかなりの場所がターゲットに入ってくることは間違いない。

ところで、
輪行で頭を悩ませる問題は、自転車を列車のどこに置くかである。
いくら輪行袋に入れたとしても、やはり自転車はそれなりに大きな荷物である。他の乗客の邪魔にならないような工夫が必要である。
私が使用しているのはモンベルの輪行袋だが、電車に持ち込むとどうなるか写真を撮ってきたので、参考にしていただきたい。

まずは、普通車両の車いす用のスペース
車いすの人がいなければ使わせてもらおう。


この列車は乗客があまり乗っていないからまだいいが、朝夕の通勤ラッシュの時間帯は避けた方がよい。
あれだけのでかいものを持って、乗車下車をしようとしたら他の客から白い目で見られることは間違いないし、満員電車だったら乗せることはできない。

次に、新幹線の出入り口付近デッキ
それなりにスペースはあるが人が出入りするので邪魔になりやすい。自転車のそばについていないといけないかもしれない。


新幹線の3列シートの後ろ
ここは余裕で収容できる。席をとるときは自転車を持ち込むのでシートの後ろに起きたいので、できれば車両の最後尾の席にしてくださいとはっきりというべきである。
もし、真ん中の席だったりしたら、自転車はデッキに置くしかなくなる。

2列シートの後ろだと輪行袋によっては、少しはみ出てしまう可能性もある。
そうすると他の乗客が輪行袋にぶつかったり、躓いたりすることがあるので、注意しないといけない。
これは3列シートで余裕で置くことができた。

天狗党を追う~敦賀

2012-11-27 20:01:46 | 自転車
最終日は、朝から晴天であった。風が冷たい。
しかし、宿泊したビジネスホテルの窓が隣のビルの壁に面していたためずっと真っ暗なままだった。
朝食付きで4700円だから文句はいえない。
1階にある朝食会場で、簡単なトーストとサラダとコーヒーをいただいた。
その後、荷物をパッキングして自転車に搭載する。
そして、気比神宮に向かう。
朝が早かったので、まだ人が少ない。
ピンとした空気が心地よかった。
参拝してから、天狗党が収容された寺院を探した。
本勝寺
本妙寺
長遠寺
これらはなんとか見つけることができた。
予想していたのに比べてずいぶんと小さい。これでは約800人を収容できない規模である。
おそらく時代の変遷につれて規模が縮小してしまったのだろう。
しかし、天狗党に対峙した加賀藩が祐光寺は見つけることができなかった。
これらの寺はすべて近くにあるはずであるのに、見つからない。
もしかすると、明治の頃の廃仏毀釈により廃寺になったのかもしれないが、確認は取れなかった。
天狗党の身柄を預かった加賀藩は、天狗党に同情的で面々を丁寧に扱ったという。

その後、
天狗党が幕府により裁きを受けた永覚寺へ向かった。
寺には、そのような表記はないが、おそらくはこの地に仮白州が設けられ、武田耕雲斎がたんたんと弁明をしたのだと想像してみた。
幕府の吟味はしごく簡単なものであったという。おそらく最初からきちんと言い分を聞くつもりなどなかったのだろう。
天狗党への助命運動が始まる前に処刑してしまいたかったということだ。

この近くには、天狗党に参加した15歳以下の子どもたち10名を引き取った永厳寺があるので、そこにも立ち寄ってみた。
境内には、天狗党に関しての表記は一切ない。
そのようなことがあったことは忘れ去られてしまったのかもしれない。

次に、港の近くの倉庫付近をゆっくりと走ってみた。
もしかしたら、鰊倉の名残が残っているかもしれないというかすかな望みがあったからだ。
鰊倉は、もともと肥料用の鰊をいれておく倉庫だったが、幕府が加賀藩から天狗党を引き受けて、すぐに彼らを押し込めた建物である。
あまりの過酷さに、早く殺せと叫んだ者が多かったと言われる。
当時の鰊倉はほとんど取り壊され、現在は、敦賀市松原神社と水戸市回天神社にそれぞれ1棟ずつが残っているにすぎない。
現在の敦賀の港には、当時の鰊倉の面影は残っていなかったが、現代風の冷蔵建物が並んでおり、なんとなく想像をすることはできた。
その後、天狗党とは関係はないが、気比の松原に立ち寄った。

気比の松原の近くに、幕府が本陣をおいた永建寺がある。山門もあり、回廊もある立派な寺院であった。
永建寺のそばに、来迎寺がある。
武田耕雲斎は、鰊倉から出されて、駕篭に乗せられ来迎寺に運ばれた。そして、斬首を言い渡される。
寺の中に5カ所の穴が掘られ、次々に首を落とされた。
352名が次々に斬首されたという。前代未聞の規模の処刑である。
死骸には多数のカラスや鳶が群がったという。

その地には現在、天狗党の墓がある。国指定の史跡となっている。
小一時間、その地にとどまっいた。
彼らがどのような気持ちで京都を目指し、途中の敦賀で降伏し、処刑の日を迎えたのか、墓の中で何を思っているのかに思いをめぐらしてみた。
静かに過ごしていると、気比の松原の海岸から潮騒の音が聞こえてきた。
そして、海岸からの風を受けて葉ずれの音も。
当時の耕雲斎たちにも今と同じ音が聞こえていたにちがいない。
墓前の前に、耕雲斎の立像があった。
その前に立ち、耕雲斎の顔を見つめてみた。
耕雲斎は、半歩ほど脚を前に出し、その眼は遠くを見つめていた。
耕雲斎にとっては遠い未来の地点から耕雲斎を見つめる男がいる。
時代を超えて思いを通い合わせることができたように感じた。







天狗党を追う~大野市から敦賀市まで

2012-11-23 18:00:58 | 自転車
今日もきつい一日だった。
まず宝鏡寺の峠
次に県道203号の名前がない峠。
最後に木ノ芽峠。
たぶん、それぞれ700mくらいの標高しかない。それくらいの標高ならと思っていたらとんでもない。
勾配が無茶である。
上りも凄いが下りは落下していく感じである。落ち葉や砂利が路面にあるし、道幅も狭いので慎重に下りなければならない。
下りの際にブレーキをずっとかけ続けなければならない。
そのせいで最後にはパッドが減ってレバーの引きしろが大きくなってしまった。
木ノ芽峠は下りが無茶だった。
ハイキング用の徒歩の山路でもちろん舗装はない。幅は30センチくらいだ。雨でドロドロで滑りやすい。ゴツゴツと石が転がっている。右には谷川がある。落ちたら大変だ。急勾配をブレーキを引きながら慎重に下りた。ちょっとでも油断したらアウトだった。
今回、地図帳でルートを決めたが甘かった。もっとネットで情報を集めておくべきだった。
知っていたら、通らなかった。
毎日90キロ走り、獲得標高が2000mのコース設定は無茶だ。
事故にならず幸運だった。
今日、感動したのは新保宿の武田耕雲斎の本陣跡の建物だ。
ここで加賀藩と交渉を重ね、降伏を決断したのだ。
重い決断だったと思う。

いろんなことを感じたが正直疲れた。
写真をアップしてお茶を濁すことにしたい。

木ノ芽峠の茶屋


下り坂。ここからもっとひどくなった。2キロ山路を下った。







天狗党を追う~酷道157号

2012-11-22 17:59:51 | 自転車
恐るべし。
国道157号、酷道マニアには有名な酷道だ。
予定より2時間早めにスタートして、本当に良かった。
何かトラブルがあったら、死につながりかねい危険な道路だった。
どこまで行っても峠にたどり着かない。
すれちがった車はたった2台。
何かあったら誰も助けてくれない。
本当に恐怖を感じました。
1人で走ってはダメです。
もう一度走るかと聞かれたら、10万円未満の金なら積まれても走らないでしょう。
よくも天狗党はこれよりもひどい道を雪の中行軍したものです。
一種の狂気に、取り憑かれなければ無理でしょう。
とりあえず写真アップします。













天狗党を追う~飯田から中津川

2012-11-21 18:55:24 | 自転車
下諏訪から飯田まで輪行。
ホテルの出発が早かったので朝食は抜きになった。
飯田駅からしばらく南下して途中で右折、清内路峠を目指す。
この峠もきつい。
さすがに脚に疲れが溜まってきている。
8%くらいならなんとか上れるがそれ以上は歩きにした。
最後の集落を過ぎてから押して歩く時間が増えた。押しながら歩くと渓流のせせらぎが聞こえてくる。寒いが晴天だったので、安らかな気分になる。
そうこうしているうちに頂上に着いた。
峠の頂上はトンネルになっているので眺望がよくない。だから上ってきた達成感かない。なお、天狗党が通った道は今はわからない。旧国道も がっちり閉鎖されていて立ち入り禁止だ。
峠の途中でキノコ鍋を食べたがダシが出ていてとても美味だった。作り方を尋ねたが、要は地元のキノコをふんだんに使えるかがポイントらしい。
峠を下り、妻籠を見学。
そして馬籠峠を越える。
この峠も傾斜がきつい。何度か押して歩いた。予定では、楽に越えるはずだったが、脚が売り切れ状態だった。
明日も大きな峠越えがあるので無理は禁物と納得した。
おかげで小一時間かかってしまった。
馬籠には4時20分頃着いたが、もう夕暮れどきになっていた。
島崎藤村博物館を訪ねて、藤田小四郎の揮毫などを見た。
その後は、また下り。馬籠は高い所にあったのを実感。
途中で高校生に中津川駅までの道順を教えてもらい助かった。
その後、名古屋経由で大垣へ向かう。

清内路トンネル


夕暮れが迫る馬籠峠


妻籠の紅葉


夕暮れの馬籠

天狗党を追う~和田峠

2012-11-20 17:38:14 | 自転車
今日は望月宿、芦田、笠取峠、長久保、和田宿、東餅屋、和田峠、樋橋村、下諏訪本陣、歴史民俗資料館、下社秋宮を回った。
約80キロだが、上りがこたえた。笠取峠はそうでもなかったが、和田峠はきつい。
もちろん旧道を通った。
日光いろは坂のようにくねくねしながら高度をあげていく。
この付近の林は、すべて葉が落ちている。道路には雪が微かに残っていた。
一昨日に雪が降って除雪車が出たと東餅屋の主が語ってくれた。店は11月には閉めるが、今年は中山道を歩くツアーが来るので頼まれて11月末まで店を開けているという。私はこの時期には相当珍しい客らしく、しばらく話しこんでしまった。
この峠の店を過ぎると、直ぐに和田峠のトンネルに出る。
もうすぐ山頂なのになぜかトンネルだ。ここのトンネルは信号で片側通行になる。
下諏訪側に抜けると、さらに寒々しい山肌が目についた。1500mもあるのことに納得した。
この旧道は、実は路面がヒビ割れて、路肩も注意しなければならない。センターラインはない。
正直、荒れたひどい道路だと思う。ロードバイクなら溝にタイヤをとられかねない。
こんな道路なのにトラックが結構な数通っていた。途中の水汲み場で聞いた話だと、新道の有料料金を会社が負担しないので止むを得ず通行するらしい。
危険なことに変わりはない。途中、道から落ちかけたトラックが乗り捨てられていた。
斜度は10%や12%の標識が出ていた。延々と上りが続く。
こんな道だから途中にコンビニがあろうはずがない。
望月宿のコンビニで昼飯用にアンパンを買っておいた。携帯食がなければ完全にハンガーノックになり、危険だ。
峠を越えての下りは延々と8%勾配の下り、身体が冷えてどうしようもない。いくら防寒をしていてもこの季節の下りは寒い。特に、上りでかいた汗が身体を冷やすから、困る。
峠を下り、途中で合戦場であった樋橋村を見つけた。
ここに水戸浪士の塚がある。
お参りして、周囲の地形を確認する。
なんとなく合戦の様子がわかった気がした。
その後、下諏訪へおりた。













天狗党を追う~下仁田から八幡宿

2012-11-19 19:25:08 | 自転車
朝9時頃に宿を出て、旧道を探しながら内山峠を目指した。
新しい道と交差しているのでうっかりすると見落としてしまう。
何度か見落として通り過ぎてしまい、戻ることがあった。怪しいと思うときはiPhoneの地図アプリで現在地を確認する。
で、旧道の感想だが、かなり傾斜がある。
最初は谷沿いの道、ほとんど崖にへばりついている車が一台通るのがやっとの幅である。谷底を覗いて見たが底が見えない。
高度を上げるにつれて谷底が見えるようになり、その後は道と谷がうねうねと絡み合っていた。
傾斜はきつい。ギアを目一杯軽くして上る。
しばらく走ると新道にぶつかる。
新道を進むが、旧道入口を見落とした。せっかく坂を上ったのに、下へ戻る。残念。
新道にはいくつも谷をまたぐ橋がかかっている。途中で下を覗いてみた。
ほぼ真下にさっきまで走ってきた道路が見える。
なんとか旧道入口を見つけ、上る。
上るというのが正しいくらい傾斜がきつい。旧道を行くと、新道が真下に見える。新道は内山トンネルで峠を越えずに反対側に抜ける。
天狗党は旧道を上り、内山峠を越えている。
負けてなるものかと精一杯にこぐ、ダンシングを織り交ぜながら、九十九折を幾つか乗り越えたが、力尽きた。
後ろを振り返ると、荒船山が航空母艦のような形で樹々の隙間から現れた。
自転車を降りて、コンビニで買ったアンパンを食べた。延々と上ってきて、脚も疲れ、喉も渇き、お腹がすいていた。どかっと道に腰をおろしてアンパンをかじった。
いったい、この九十九折はどこまで続くのだろうか。
上を見上げると山頂まではまだ距離がありそうだ。九十九折まだまだ続くことは間違いない。
普段、ロードバイクを乗るときは、坂で下りたりしない。これまで絶対に下りるものか根性で乗り切ってきた。
今度もと考えたが、辞めることにした。明日以降も峠を走り続けなければならない。今回のバイクはクロスバイクで荷物満載である。
色々と言い訳を考えて自分を納得させて押して歩くことにした。30分は押したに違いない。そのくらい九十九折は続いた。やっと乗れそうな傾斜になり、乗り出して、直ぐに下りのパスタハンターとすれちがった。月曜日、こんな山の中で人とすれ違うなんてと驚いた。他人のことは言えないが。
牧場との分岐点を過ぎると尾根伝いの道になったらしく、楽に漕げた。
内山峠の手前で、下仁田方面の谷や山がずーっと見渡せる場所があった。
晴天だったので遠くまですっきりとした青空だった。
峠の上のほうは、樹々は葉を落として寒々しかった。
気温も下がり、上りで開けたウインドブレカーをしっかりと閉じた。
荒船山がほぼ真横に見えた。
内山峠のてっぺんに、標識があるかと探してたが、標識は見当たらなかった。残念だ。
荒船山への登山口が峠付近にあり、10台を超える車が駐車していた。
峠を超えると延々と佐久市まで下りだ。その後、中山道をたどり、望月宿にたどり着いた。
午後3時30分頃だった。
思ったより早く着いた。
明日は、笠取峠、和田峠を超える。




天狗党を追う~下仁田町

2012-11-18 17:24:12 | 自転車
群馬県の下仁田は町は、下仁田ネギとコンニャクで有名な場所だ。

天狗党を追う旅は下仁田から始めることにした。
朝6時30分に家を出て、輪行で電車を乗り継ぎ、昼過ぎに、下仁田駅に着いた。
荷物が多いので乗り換えの移動は正直辛かった。あまり電車に人が多くなかったで助かった。
下仁田駅について、自転車を組み立てて、天狗党の史跡を訪ねた。
今日は、ほぼ予定していた天狗党関係の場所は回ることができた。計画では一箇所20分くらい時間をかけるつもりでいたが、それほどはかからなかった。意外に小さな街という印象だ。
小説ではわかりにくい場所の雰囲気や位置関係を掴むことができたのが収穫だ。これで、下仁田の戦いをかなりリアルにイメージできる。


下仁田の常盤館に泊まることにした。竹久夢二ゆかりの旅館で年季のはいった木造建物が郷愁を誘う。

明日は、内山峠を越える。
気温は今日より5度低いらしい。
峠は、きっと氷点下以下になるだろう。
覚悟して行こう。




雨の日のツーリング

2012-11-17 06:56:13 | 自転車
自転車で走っていて辛いものの一つに雨がある。
何年か前、常陸太田市からスタートして白河、棚倉、大子と周回するコースを走ったことがある。
あれは10月でまだ紅葉には早い時期だった。
茨城でもっとも高い八溝山をぐるっと回ってみたくなったのだ。前年に富士山一周をしたので、同じように回ってみたくなったのだ。
出発まえの天気予報では白河方面が雨になるのは夕方頃だった。茨城県北部は雨の予報ではなかった。八溝山を挟んで南北で天気が異なる。夕方前に白河や棚倉を走り抜ければ雨に濡れずに済むという計算だ。
見事に予想は外れた。
栃木県の伊王野を過ぎたあたりで、パラパラと小降りの雨が降り出した。
最初はそれほど酷くなかった。
ちようどコースをミスしてしまい当初の目的地だった白河関跡ではなく、戸中峠への上りの道へ入ってしまったところだった。
なんとか凌げるだろうとウインドブレーカーでしばらく走った。
だんだんと強くなり、たまらずレインウエアを着用した。ヘルメットには、ホテルから持ってきたシャワーキャップを被せた。シャワーキャップは雨のときに役立つ。
戸中峠を越えて棚倉町へと向かう県道60号は交通量が少ない。
両側にある樹々がある程度横からの風と雨を防いでくれた。
しかし、峠の下りは身体が冷えた。
濡れた靴のつま先が、グローブの指先も濡れて、そこに風と冷たい雨が当った。
手が凍えてブレーキレバーを握る力がなくなっていった。
峠をしばらく下っても民家はなかった。
やっとわずかな民家が現れ、そこに自販機を見つけた。
雨の降る中で、甘いマックスコーヒーを買い求めた。ガランと落ちてきた缶コーヒーを両手で包むようにして暖をとった。凍えた指先がゆっくりとほぐれていった。そして、缶を開けて、コーヒーを飲んだ。甘く暖かいコーヒーが胃袋に流れ込んで、やっと生きた心地になった。
そこから、雨の中をさらに棚倉に下り、場末のラーメン屋に飛び込んだ。

天狗党を追う~武田耕雲斎の墓

2012-11-16 22:41:51 | 自転車
水戸市見川の妙雲寺に武田耕雲斎の墓がある。
天狗党を率いたリーダーである。
藤田小四郎は、尊皇攘夷の過激派であるが、耕雲斎は尊皇攘夷の思想を有していても穏健な立場であった。
藤田小四郎は、耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請するが、耕雲斎は初め拒絶。
当初、天狗勢、武田勢、潮来勢とばらばらであったが、那珂湊での戦いから逃れ、大子村に至ったとき、耕雲斎は止む無く首領となった。
天狗党は、敦賀で降伏し、簡単な取調べを受けて斬首された。
耕雲斎の家族も、市川勢に捕らえられて水戸の赤沼牢において処刑された。






天狗党を追う~峠の気温

2012-11-15 21:48:58 | 自転車
天狗党は真冬の峠をいくつも越えた。
今回の旅も峠にチャレンジする。天狗党の志士の旅を追体験してみよう。そこから何か感じることがあるかもしれないというのが今回の旅の目的だからだ。
しかし、無茶はいけない。チャレンジはするには何よりもリスク管理を考えなければならない。

今回、心配なのは気温だ。晩秋、冬の峠を越えた経験がない。どんな感じなのかが予想できないのだ。
気になっていたので調べてみた。
最近は、HPで山の気温を調べることがサービスがある。
有名な山で今回の旅で通る峠の近くの山を検索してみた。
初日の内山峠に近いのは、美ヶ原だ。
高度1400メートルでー2°から2°くらい。
高度1000メートルで2°から6°くらい。
これは寒い。この気温だと、ロードバイクで走らない。部屋の中でローラー台を使う。
雨や雪が降ってもおかしくない。
雪が降ったら困る。
また、上りは速度がでないからよいとしても、下りは風があたり、ものすごく寒いに違いない。
つま先、指先が心配だ。
ウエアは、一応、厚めのウインドブレーカーを準備はしたけれども、足りないかもしれない。
風を通さないようにレインウエアを重ね着して、インナーに冬用のものをしっかりと着込むことにしたい。
あと、使い捨てのカイロも持参することにしたい。


水戸歴史探訪サイクリング~祇園寺

2012-11-14 13:07:18 | 自転車
水戸市八幡町に祇園寺はある。
水戸駅方面から国道を走り、茨城高校入口バス停を右に曲がる。
すると正面に山門が見えてくる。
山門に近づき、見上げると葵の紋が目に入ってくる。
祇園寺の開基は、徳川光圀公である。
光圀公は明の心越禅師を招いて建てた寺なのだ。
山門をくぐると樹々が葉を紅葉させていて、晩秋の空に色が鮮やかに際立つ。
京都へ行かずとも、由緒ある寺の醸し出す落ち着いた空気を感じることができる。

実は,この寺の墓地には、幕末に天狗党と敵対し天狗党に協力する者その家族に徹底した弾圧を加えたた市川、朝比奈の墓がある。
市川三左衛門らはいわゆる保守派である。
これに対する改革派と激しい抗争を繰り広げた。
水戸学という学問,とくに後期の水戸学は尊皇攘夷を旗印とする。
尊皇を強く打ち出すと,幕府の権威が揺らぎ,その結果水戸徳川家の基盤もゆらぐことになる。
水戸は激しい時代の変化の中に先駆けとなる思想を持ちつつ,他方で存立基盤として徳川家の一つであるという矛盾を抱え込んでしまった。
もちろん,天狗党が倒幕の思想を持っていたわけではない。しかし,幕府からするとその権威を揺るがす不遜の輩の集団にしか見えなかったろう。
ちなみに,天狗党の中で,倒幕の思想を抱いたのは田中愿蔵のみであったように思う。
天狗党は天下の魁として悲劇的な最後をたどったが,これに敵対した市川らも最後は悲劇的であった。

水戸は,天狗党,諸生党と別れて内部抗争を繰り返した結果,藩士が約3分の1にまで減少してしまったと聞いたことがある。
明治維新の夜明け前に,力尽きてしまったのだ。

晩秋に落ち葉がはらはらと舞い散る境内を散策しながら,市川らがどのような思いで、天狗党と対峙し弾圧したのかを想像してみる。
これもある本に書いてあったことだが,市川らは斉昭公に呼ばれて水戸藩のこれからのことをよろしく頼むと言われ大変感激したらしい。
斉昭公のご恩に報いるためには,水戸徳川家のお家を何よりも大事に考え,存続させなければならない。
幕府に逆らうようなことがあればお家の取りつぶしもありえたであろう。
そのようななかで,激情家の集団で抑えが効かなくなっていた天狗党の人々の扱いをどうするべきか悩んだに違いない。
振り返ってみれば,市川らの天狗党やその家族への弾圧はやりすぎである。
しかし,自分が当時同じ立場に置かれたならどうか。
保守派として天狗党や改革派の人間に葬り去られるおそれもあったにちがいない。そうなってしまっては斉昭公のご恩に報いることはできない。
水戸家を危うくする天狗党や改革派を根こそぎにしなければならないと考えるかもしれない。

境内の木々は,これらの争乱をだまって静かに見ていたに違いない。









輪行袋

2012-11-13 20:03:45 | 自転車
今のところ、愛用しているのは、モンベルのコンパクト輪行袋である。
理由は、ボトルケージに輪行袋を入れて運ぶことができるくらい小さいからだ。
使い方は、筒状のシートをたたんだ自転車に被せるだけなので、素早く自転車を収納できる。
手順は以下のとおり。
まずは、自転車を逆さまにして、車輪を外す。
そして、付属のヒモ3本で、フレームに車輪を固定する。
ハンドル部分とボトム部分にヒモをかける。
これは肩にかけるヒモになる。
そして、上から袋で覆う。
上部には、穴が開いていて、肩にかけるヒモをそこから出す。
覆ったら、下の部分を狭める。
下の部分にはヒモがついていて、引っ張ることで下の方を狭める。
下の部分を完全に袋で覆ってしまうことはできない。
だから、置き方によってはサドルなどが汚れてしまったり、自転車につけていた付属品が外れると底の穴の部分から落ちて失われてしまうことがあり得る。
ちょっと注意する必要がある。
すぐに、上から覆うことができるのがいい。
ただし、生地がすごく薄い。

まずは、自転車を逆さまに、そして、タイヤをはずして、ヒモでタイヤをフレームに固定


肩にかけるヒモをつけて、
自転車の上から袋をかぶせる


横置きなのでスペースは必要。たまたま車いす用のスペースが空いていたので、肩掛け用のヒモに手持ちのタオルを使ってバーにくくりつけることができた。



この写真ではリアキャリアがついていませんでしたが、リアキャリアを取り付けたクロスバイク、しかもスタンド付きで使えるかどうかを試してみました。
ぎりぎり使えました。
もちろん、下の方はある程度の穴が開いた状態で密閉はできません。
でも、どうにかスッポリと包み込めたのでよしとします。
なお、オーストリッチの輪行袋(縦置きタイプ)でも試してみたのですが、そちらはリアキャリアが障害になってしまい袋に入れることができませんでした。
ディレーラーとサドルが下になるはずなのですが、リアキャリアが邪魔になり、指定の位置に入らなかったのです。

天狗党を追う~バイク

2012-11-12 19:47:37 | 自転車
天狗党の足跡を追う旅にどのような自転車を使うか悩んだ。
最初は、ロードバイクを使おうと考えたが、キャリアを取り付けるためのダボ穴がない。
キャリアがないとバックを背負うことになる。
長距離にわたって荷物を背負うのはつらい。
そうなるとマウンテンバイクかクロスバイクかになる。
走りやすさを考えると、クロスバイクがいい。

私は、クロスバイクは所有していないので、義父から借りることにした。
義父は3年前くらいに四国巡礼の旅をクロスバイクで行った。
そのバイクを借りることにした。
四国巡礼の自転車旅は、長期間を要したので、荷物が多くなった。
そのため、多くの荷物を運べるようにキャリアもバッグも備え付けることができるようになっている。

リアキャリアに、オルトリーブのバッグ
オルトリーブのバッグは旅する自転車人に好評価を得ている。
フロントにもバッグ。
どんな感じかを見てもらいたい。


借り受けたバイクに若干付け足したものがある。
バーエンドである。
長めのバーエンドをつけてみた。
長時間走ったり、ダンシングをしたりするにはフラットなハンドルよりはバーエンドがあったほうがよいと思う。



次の問題は、これを輪行袋に入れることができるかである。
リアキャリアが問題だし、スタンドも問題だし、バーエンドも問題だ。
これがあるために、輪行袋に収容できない可能性があるからだ。

天狗党を追う~本

2012-11-11 16:31:15 | 自転車
天狗党の足跡を追うために、何冊か本を読んだ。
ここにあげたもの以外にもたくさん読んだが、とりあえず紹介するものとしてこのくらいを。

まずは、読みやすいものとして
義烈千秋天狗党西へ 伊東潤
藤田小四郎を主人公にしたもので、視点がはっきりしているため読みやすく、小説といえる。天狗党を知らない人にお勧めする本。

天狗争乱 吉村昭
定番。伊東潤氏の書と比較すると、視点は客観的、多数の人物が登場するので少しとっつきにくいところが、全体が掴める。いつ、どこで何があったのかが書かれており重宝した。

天狗党追録 室伏勇
天狗党西上の軌跡をたどった写真紀行。その日にどんなところを通ったのか、何があったのか写真で見ることができ、イメージがわく。簡単な地図と関係年表が役立った。ただし、入手は困難かも。

歴史の本を読むときは地図があったほうがいい。特に足跡を追うためには必須である。

でっか字 関東道路地図、中部北陸道路地図
天狗党の跡を追うために現代の地図が必要だ。
本来なら国土地理院の地図を使うべきだが、Amazonでやたらと古本が安かった。100円だった。これをコピーして使用することにした。
この地図を見ながら、当時の地名を探し出して印をつけていった。

そうやってプロットしたものをコピーした。
地図本を携帯するのは重すぎる。
コピーならその日走るのに必要なものだけを持てばいい。