ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

会沢正志斎寓居跡

2013-01-21 07:22:24 | 自転車
後期水戸学の学者としては藤田東湖と会沢正志斎が有名だ。
会沢正志斎は新論を書いており、これは当時の尊王攘夷のバイブルとされていた。
会沢正志斎が新論を書いた場所は、水戸市大町、現在の水戸地方裁判所の裏にある。すでにそれらしい建物はなく、跡地には案内版があるのみだ。
会沢正志斎の家の跡は、国道50号の大通り沿いの住友生命ビルのところにあり、小さな銅像が立っている。

寓居跡は駐車場になっている。



自転車漫画

2013-01-18 07:01:43 | 自転車
先日、Amazonで自転車漫画を買った。
漫画はふだん見ない、読まない、買わない。
Amazonであれこれと検索をしていたら、お勧めされて、ついポチとしたのだ。
たぶん、自転車関係のムック本を何冊か買ったり、子どものために漫画本を買ったことで、こいつは自転車漫画を買うに違いないと判断されたのだろう。Amazonのお勧めはそれほど押し付けがましくないところがいい。他のネット通販ショップなど一度購入したら次々に商品案内のメールを送りつけてきて、それが煩わしくしょうがない。
それで、今回、購入した漫画だが、タイトルは「じこまん~自己満~」作者は玉井雪雄氏。
カバーには、スクランブル交差点で自転車をかついだ全裸っぽい眼鏡をかけた髭面の中年男が描かれている。
これを見たときに、一瞬、薔薇族系の人を連想してしまった。タイトルが自己満つまり自己満足なのだから、それは自己愛ナルシシズムとも言い換えることが可能だと思えば納得できる。
内容は、薔薇族系ではなく、中年男の自転車にまつわる実体験を描いている。この体験が、ああっ俺もそうだった、わかるよ、そうだよ、うんうんと納得できるものなのだ。
自転車を趣味としない人間に自転車の魅力を語るのは結構難しい。すごく面白いんだよと語れば語るほどこちらの熱意に反比例して相手が興ざめしていくことも多い。
なぜか? それは自転車が自己満足以外の何物でもないからなのだ。このように割り切れないと他人に向かってなぜ魅力がわからないのだぁと叫びたくなる、叫ばなくても何でわかっんないのぉと不満顏になる。
しかし、自己満足であると割り切れば他人様が何を仰言っても関係ない。理解されなくてもいい。たとえ、後ろ指を指されても開きなおれるのだ。
言い過ぎかもしれないが、この漫画に「四十にして惑わないのは自己満足のみで生きる術を体得するから」というフレーズがある。まさにそのとおり。日本人は世間体を気にし過ぎるのだ。
この辺いろいろと言いたいことがあるが、脱線するのでやめておこう。

この漫画本はお勧めである。
自転車乗りにはもちろん面白い内容だし、自転車を乗らない人に読んでもらい、彼らに我々自転車乗りが自己満足を追求するため自らを苦しみの中に投げ入れ悪戦苦闘することを楽しみとする高尚な?人種であることを知ってもらいたいと思うのだ。

漫画を読み終えたら、さっそく近くの峠を越えたくなってきた。今年はどのような自己満足ライドをしようか。

富士ママチャリグランプリ

2013-01-17 06:19:23 | 自転車
1月12日にママチャリグランプリに参加してきた。
まるきりの寄せ集めチームで、ロードバイクに乗るのは私だけ、クロスバイクに乗る奴が1名。他は普段ママチャリも乗っていないという。
富士サーキットでママチャリで走るというF1のカッコよさとママチャリのユルさが真逆的に結合し、耐久7時間というチャレンジでありながら子どもも参加できる敷居の低さが受けるらしい。真逆の結合が面白いレースなのだ。
だから、本気で勝ちにいくマジなチームと仮想して目立つのを目的とするチーム、成績度外視で完走だけが目的のチームなど多様な人たちが走る。
で、私はどうかというと、知人たちと親睦のために走った。
仲間たちは、上位を目指す気はこれっぽっちも微塵もさらさらない。
もともと20名くらい参加を表明していたのだが、ノロやインフルエンザにかかったとか仕事が忙しいとか受験が近いとかもろもろの理由であっという間に参加者が減っていった。最終的には3チームで13名となったのだが、さらに1名は、前日になって日にちを勘違いしていてキャンセル。
で、当日になって全く走らなかった奴も3名いた。なんと自転車を20年も自転車に乗っていないという。安全のために走らないという。なるほど、確かに危険かもしれない。
残りは9名だが、女子が2名で一周しか走らないという。サーキットを走ったのよと言いたいための記念走行である。これもよし。女子だからね。
で男子は7名。これで3台のママチャリ。これで7時間。これはキツイわ。
サーキットは約4キロ、フラットな直線コースだけでなく、意外に上りがある。予備知識無しに参加したが、上りでは多くの人が押して歩くという。

仲間が持参したママチャリは、どういうことかギシギシ音がなる。
ブレーキレバーを引いても何だか引っかかる。明らかな整備不良だ。
1台は変速機付きなのだが、変速機のケーブルの外皮が裂けて中からワイヤーが飛び出していた。
走り出してみたものの全く変速しない。最も重いギアのまま、ピクリとも動かない。下りと平地は何とかいけるが、上りは全くダメだ。体重をかけて踏み込むのだが前に進まない。チャリはギコギコと軋む。次第に膝回りが痛くなってきた。膝を壊したくないので途中で降りて歩くことにした。
変速機付きなのに、何ということだ。
2周して交代。
後から、変速機の不良のことを指摘したら、ずっと雨ざらしで全く整備せずに持ってきたとのこと。
何とメチャクチャなのだろうかと嘆いても、もともとがシャレで参加している意識なので整備不良なんて全く気にならないらしい。
もうどうしようもないのでそのまま自転車を走らせ何とか無事にゴール。

最後はチャリを止めて富士山を撮影した。
とても綺麗で気持ちが良かった。








天狗党を追う~田中愿蔵生誕の地

2013-01-10 06:30:40 | 自転車
田中愿蔵は、現在の常陸太田市の東蓮地で産まれた。
猿田家に産まれた愿蔵は、田中家の養子となった。
生家はないが、跡地に子孫の方が建立した石碑が立っている。
栃木や真鍋を焼き払った悪名のためか生誕の地を案内する表示はどこにもなく、さんざん周辺を捜し歩いてやっと見つけることができた。
ご近所の方のお話しだと稀に歴史を趣味としている人たちが訪れることがあるという。

草が生えた土地の奥に石碑がある。


石碑

天狗党を追う~田中愿蔵の終焉の地

2013-01-07 19:11:55 | 自転車
天狗党の中には、闘いの途中で分派した者たちがいる。
私が興味を持っているのは、田中愿蔵である。
田中愿蔵は、栃木宿、真鍋宿を焼き討ちにしたとされており、他の天狗党の多くが明治になり名誉回復されたにもかかわらず、現在も汚名をきたままである。
なぜ興味を持っているのかというと他の天狗勢が討幕まで考えていなかったのに彼だけは討幕を考えていたからである。水戸藩の者であればほとんどが尊王攘夷を唱えながらも佐幕の立場であったが、彼だけは水戸藩という枠を越えて討幕まで考えていたのだ。
また、田中愿蔵の部隊は、散切り頭であったためザンギリ隊と言われていた。チョンマゲ無しにしたのは、身分を問わないという発想からだ。士農工商が尊王攘夷が当たり前の時代に身分を問わないという発想には凄いものがある。
田中愿蔵は、郷医の養子となり、江戸の昌平黌にも学び、野口の郷校の校長にもなっている優秀な人であり、生徒達にも慕われていた。
そのような彼が栃木の商家を焼き討ちしたというのはなぜだろうか。どういう経緯があったのだろうか。
吉村昭の天狗争乱では田中愿蔵の栃木焼き討ちが取り上げられているが、どうも腑に落ちない。
今後も考えてみたいテーマである。

ところで
田中愿蔵の終焉の地は、福島県の塙町の久慈川の河川敷である。
現在は道の駅に碑が残っているが、道の駅に立ち寄るほとんどの人は田中愿蔵のことは知らない。

この河川敷の辺りで処刑されたのだろう。


愿蔵の石碑。
後ろに辞世の句が刻まれている。








天狗党を追う~飯田から妻籠

2013-01-05 15:59:06 | 自転車
天勢勢は、和田峠での闘いの後、下諏訪から伊那路を下り、飯田を過ぎて、峠を越えて木曽路の妻籠、馬籠を通り、中津川に向かった。
天狗勢を追う幕府軍は、天狗勢が下諏訪を出て甲府へ向かうのではないかと予想していたが岡谷へ向かったことでその予想がはずれ、天狗勢が京都方面を目指しているのだとわかった。幕府は、天狗勢の行く先にある諸藩に討伐命令を出した。
しかし、どの藩も下仁田、和田峠で勝利した強力な戦闘力を有する天狗勢とは闘いを避けたいのが本音であった。そこで彼らは幕府に申し開きできるように、形ばかり戦う姿勢を見せ、実際には天狗勢に城下町を避けて間道を進んでもらい戦闘を避けて、天狗勢が去った後から大砲を打ち、いかにも追い払ったかのような対応をとった。また、伊那路には国学の影響もあり、尊皇を掲げる天狗勢には親近感を抱いていたためか、伊那路を抵抗もなく順調に進んだようである。
飯田を過ぎてから、天狗勢は梨子野峠を越えて清内路村、そして木曽路へとルートを変更する。
当時と同じルートを辿ろうと考えていたが地図にはその頃の梨子野峠の道は見当たらなかった。止むを得ず、さらに南下して国道256号を辿ることにした。国道が153号と分岐するところまでは交通量が多かったので、車道ではなく歩道をのんびりと走った。
歩道は段差があることがあり危険もあるから速度は出さない。
阿智川橋を過ぎて谷の右側を走ると、まだ紅葉の名残りがあるモミジが見えてきた。和田峠付近では紅葉は終わりかけて葉の色が褐色がかっていたのにこちらはまだ色が鮮やかだったので自転車を止めて眺めてみた。近くに寄ると紅葉も終わりかけているのがわかった。目が覚めるような鮮やかな紅葉は、私が住んでいる茨城県辺りでは寒暖の差が激しくないためか目にすることができない。東北や中部の山間部ならと期待していたのだが少し時期が過ぎてしまっていたようだ。天狗勢がこの辺りを通った頃は現代の暦ではおそらく12月末頃だったろうから、葉はすべて落ちて寒々しい雰囲気だったろう。
清内路峠、そして妻籠に向かう256号線は、平日だったので自家用車の観光客が少なく、走っているのは仕事の車とたまに観光バスくらいでとても走りやすかった。
途中、お腹が空いたので目についた店に入った。お勧めは何かと尋ねたらキノコ鍋だというのでそれを注文した。出てくるまで間に、店主に話を聞いたらもともとは下の街で料理店に勤務していたが父親の影響でこの清内路村でレストランを開いたという。彼の父親は昔イノシシや鹿の牧場をやっていたとかだが、今はイノシシも鹿もたくさん獲れるようになったという。メニューを見ると確かにイノシシや鹿の料理が出ていた。地元の肉屋ではイノシシや鹿の肉も普通に売っており、別に珍しいものではないらしい。鹿の肉が美味であるかはわからないが、場所によってずいぶんと食材に違いがあるのだと実感した。
しばらく待って出来上がったキノコ鍋は絶品であった。あまりに美味いので、主人に作り方を教えてくれと頼んだら気持ちよく教えてくれた。しかし、実はこの美味は、天然の土の香りがしているようなキノコでなければ絶対に出せないのだという。いくら調味料を使っても栽培ものでは深みがなく淡白な味になってしまう。天然物のキノコが山の腐敗土などから養分を摂って作り出す微妙に深みのある味は出さないとのことだ。
主人に峠までどのくらいか聞いたら自転車なら一時間もかからない、ここからは楽勝とのことだった。しかし、自転車乗りでない人のアドバイスはまったくあてにならない。かえって斜度がきつくなっていった。
清内路峠までは、左側に川を見ながらずっと上りが続く。川が深い谷を作り、その谷沿いに道があり、道沿いに集落が形成されている。集落といっても谷の傾斜地にあるため平地がほとんどなく、道路沿いに細長い家々があるだけだ。道路沿いから眺めただけだが、この地形からすると田圃を作ることはほぼ不可能であり、畑を作るにしても平地がないので農作物を作るのに厳しい場所である。
天狗勢が清内路村に泊まった時には村人はふだん滅多に食べない米を出してくれたらしい。あちらこちらで乱暴狼藉を働いたという噂のあった天狗勢が思いのほか規律正しく振る舞い、また、その考えに共鳴したからであろう。
清内路には飯田藩の関所があったが、何の抵抗をすることもなく天狗勢を通過させてしまったことから後に幕府から御咎めを受け、役人が切腹を命じられた。
清内路峠への道は傾斜が厳しく、戸板から負傷者が落ちそうになるくらい傾斜のため落とされないよう必死に戸板にしがみついたという話があるくらいに天狗勢にとっては難儀な道であった。
当時とはルートが変わっているが現代の清内路峠への道も傾斜が厳しい。
さすがに上清内路村を過ぎてからは何度か自転車を下りて歩いてしまった。
峠の手前の左側に公園がある。ここで天狗勢が隊列を整えたらしく、石碑が残されていた。つまり、上りがきつかったので隊列が伸びて乱れてしまったのだ。
清内路峠越えには、少し前まで古い国道を使うルートがあったようだが、現在は閉鎖され自転車でも通行ができない。現在は、トンネルで峠を越えて木曽路側に抜ける。
清内路トンネルの標高は1090mで峠そのものの標高が1192mだ。
峠を越えるのはどんな峠か期待が膨らむ。
多分、柳田国男の本だったと思うが峠を越えると違い世界が広がっているとあったような記憶がある。峠はあちらとこちらを分ける境界なのだろう。詩などにも山の向こうへの憧憬をうたったものが多い。
今の時代は道路が改良され、車などで峠や山を容易に越えることができるようになり、楽になった分だけ峠や山の境界の意味がなくなったように感じる。自転車で峠を越えるのは、向こうの世界への憧憬らしきものを感じたいのかもしれない。
峠にもいろいろあり、切り通しなどであればまだ峠を越えた感じがするが、トンネルは峠の下を通るから峠を越えた感じはなくあちらとこちらを眺めて思いに耽ることもできず峠を越えた実感はない。
清内路トンネルは新しくトンネルの中では走りやすい部類に入るのだろうけれども、やはりトンネルであることには変わりなく、1614mは長い。ごぉおおおおお。怪獣が近づいてくるようだ。自動車の音がトンネルの壁に反響し増幅されるので、心理的にはものすごく怖い。
トンネルを抜けると、真ん前に山が現れる。南木曽岳だ。標高は1679m。てっぺんに雪をかぶって綺麗だった。
下りの傾斜がきつくなる。どんどんと速度が出てしまうがどんな路面かわからないのでブレーキで減速しながら下りていく。
途中に木地師の里が現れた。
せっかくだから何か土産になるものでもと考えてある店に寄ったのだが留守を預かる犬だけがワンワンと吠えるだけで主が不在だったので買うのを諦めた。
そこからさらに下った。えんえんと下った。下りながら、これだけ下ったら次はどのくらい上りがあるのだろうかと考えて、暗い気持ちになった。下りも傾斜がきついと盆地の底に向かって落ちていく感じがする。
いくつかのカーブを過ぎてさらに下るとやっと妻籠が現れた。
この辺りは相当に山深く、天狗勢が通過した頃にも1000名もが宿泊したり、食事ができる村もはなく、天狗勢は妻籠、馬籠、落合に分宿している。