ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

2013ハーフセンチュリー茨城 お勧めポイント

2013-10-21 21:08:20 | 自転車
またしても、ハーフセンチュリー茨城のネタである。

今回は、ルート上のお勧めポイント
緒川の「ふるさわ」
生クリーム大福がお勧めである。地元で有名なのだ。
http://www.e-daifuku.com/shouhin/shouhin.html

ハーフセンチュリー茨城のルート上には、コンビニはほとんどない。
田園地帯、里山地帯をひたすら走るわけだ。

スタートしてから途中のチェックポイントまでコンビニはない。ものすごく小さな売店はあるだろう。しかし、十分な商品がない。そのようなお婆ちゃんが店番をやっている店でお婆ちゃんと会話をしながらアンパンを買うのもお勧めである。きっと、純粋の茨城弁を聞くことができるだろう。でも、純朴さは伝わってくるはずだ。お婆ちゃんも、ふだん見かけることもない派手な格好の人に興味を持つに違いない。未知との遭遇である。ファーストコンタクトである。いかに友好的に振る舞うかが大切だ。


チェックポイント通過後は、緒川に入るとかろうじて一軒だけコンビニがある。
ココストア緒川店である。

途中のチェックポイントで、補給はすると思うが、この緒川地区でも生クリーム大福をお買い求めいただきたい。
あるいは、ココストア緒川店で、ミニ羊羹、アイスクリームなどお買い求めいただきたい。

というのは、その後、コンビニがないからだ。
チェックポイントは約34km。
ここで補給。
ちょっと記憶が怪しいところがあるが、その後は藤井町74km付近のセブンイレブン、79km付近の国田大橋を渡ったところにあるセブンイレブンしかない。ゴールはそこから約10kmしかない。

こう考えると、事前にジェルなどを準備していない人にとっては、緒川の「ふるさわ」かコンビニのココストアは携帯食を購入するほぼ最後の場所となるだろう。






甲府 歴史ポタリング 五山を訪ねて

2013-10-15 05:13:31 | 自転車
午後1時を回っていた。
住宅街の中を走っているせいか飲食店やコンビニが見当たらない。
お腹がすいているのだが我慢するしかない。
日差しはまるで夏のように照りつけて、暑い。

次は、信玄公の父である武田信虎公の墓所のある大泉寺を目指す。
住宅街の細い路地を通って、どうやら大泉寺の横のマンションのあたりにたどり着いた。
目の前は大泉寺である。
しかし、敷地の境目に鉄線があり、自転車を担いでも、そこは乗り越えられない。
目の前にありながら、迂回しなければならなくなった。
iPhoneの地図アプリで、どこから行けばよいのか調べたが、わからなかった。
それで、道路工事のガードマンのおじさんに大泉寺への道順を尋ねた。
おじさんも詳しくは知らなかったが、
「詳しいことはわからないのですけど、地図によるといったん上の方へ行って右へ曲がるとお寺に着きますよ」
にこやかにこれから先の道順を指さしながら教えてくれた。
こんな暑いのにもかかわらず、親切な対応に感謝し、教わったとおりに上へ、そして右へ右折してみた。
そこも住宅街だった。
どうも、大泉寺の墓地のあたりに出たらしい。
しかし、入口がわからない。うろうろと墓地の周辺をうろついて、やっと民家の隣の50cmくらいの道を見つけた。
たぶんそこだろうと目星をつけて、中へ進む。
墓地だ。たくさんの墓石が立ち並ぶ。
相当広い。どうも、お寺の裏の山にある墓地に出てしまったようだ。
やっと階段を見つけたので、自転車を担ぎながらゆっくりと下りた。
寺の裏側から入ってしまった。
すぐに信虎公の墓所が見つかった。




信虎公といえば、信玄公に追い出されており、親子の不仲が有名である。
事件の背景には諸説あるらしい。
wikiによると、
信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたというものまで伝わっている。
いずれにせよ家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。
また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。

現在でも父と子の不仲はあるが、当時は現在のような家庭環境で父と子が一緒に暮らしていたわけではないので、同じように考えてはいけないだろう。
どこかに書いてあったか忘れたが、当時は子どもが生まれると乳母の元で育てられたので、乳母やそれを支える者たちの影響を強く受けるらしい。
それにしても、世代間で意見があわないので、先代に引退を迫るというオーナー企業の事例はよくある。




裏の墓地から寺に入ったので、山門は最後出るときに見たが、立派だった。



さて、次は甲府五山の寺を回る。
甲府五山とは、何か。
Wikiによると
臨済宗に帰依した武田信玄は、京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度にならい、甲府に五山制度を定めるために、甲斐国の古刹を府中(甲府)城下に集め、これらの寺院を臨済宗妙心寺派に改めた。通常の五山制度では1位から5位までの格付けがされるが、甲府五山においては順序、格付け等の明確な規定も資料も残されていない。

室町、戦国時代のころは武士の時代なので、禅宗が流行っていたのだ。その後、徳川の時代になると禅宗よりも浄土宗が力を持つようになる。


次の寺を目指すのだが、お腹がすいてたまらないのに、まったく飲食店が見当たらない。
だんだんと身体がだるくなってきた。
いくら何でもそのうち、どこかで食べ物を補給できるだろうと自分を騙しながらペダルを踏む。


長禅寺
甲府五山の筆頭にあげられる名刹だ。
ここには、信玄公の母である大井夫人の墓所がある。
長禅寺の開山時の住職である岐秀元伯は、大井夫人が招いたという。
岐秀元伯は、信玄公の師であり、人間形成に大きな影響を与えたらしい。
信玄公に「晴信」から「機山信玄」という法号を与えたのも岐秀元伯とのこと。

まるで京都の寺かと思うくらいにでかい。








この五重塔は、昭和になってから築かれたものとのこと。
昭和になってから五重塔を建てられる財政基盤があるなんて驚きだ。
このお寺山には、いったいどういう檀家さんがいるのだろうか?

信玄公の母の墓所。



長禅寺の拝観を終えて、腹ぺこのせいでひどく疲れてきてしまった。
台風の影響で、風も強くなってきたようだ。

次は、能成寺だ。
地図アプリでは、線路脇の道路が標示されていないが、車1台がやっと通れるくらいの幅だが線路沿いにどうにか進めそうな気がした。
途中まで行って引き返すのも悔しいので、たまたまた通りかかった女子高生に聞いてみた。
「この道はずっと行けますか? のうせいじという寺に行きたいのですが?」
セーラー服を着た女子高生は、一瞬、固まったような気がしたがすぐにこちらに他意がないのを見て取ったらしく、親切に答えてくれた。
「ええ、行けます。でも、そのお寺は知りません」
おかしいな。甲府五山で有名なはずなのに、まあ、女子高生は寺に興味がないから寺のことは知らなくても当たり前かと納得。
感謝の言葉を述べて、線路沿いに走った。
途中のT字路を左折。

能成寺(のうじょうじ)
この寺は、のうじょうじと呼ぶのだ。
知らなかった。高校生が知らぬのも当たり前だ。
ここには芭蕉の句碑があった。
寺は小山の麓の傾斜地にあった。自転車を降りて、歩く。
寺の横や後ろにはブドウ畑が広がっていた。
ブドウ畑とお寺。
組み合わせが自分の中でいま一つフィットしないが、斜面一面に広がるブドウ畑は異国的でいい感じだ。


禅寺らしく清楚な感じで掃除されていて気持ちがいい。






東光寺
ここは庭園が有名だ。
知らずに行ってみてびっくりした。失礼だが、甲府にこんな寺があるなんてと驚いた。
蘭渓道隆の作庭とされる池泉鑑賞式庭園。石庭も素晴らしい。
しばし、空腹も忘れて、庭を鑑賞した。











国の重要文化財の仏殿。




東光寺には圧倒されてしまった。素晴らしい庭園が無料で拝観できるとは。なんと懐が広いのだろうと感嘆しながら、次を目指す。

この付近には、普通にブドウ畑があり、庭先で直売している。

庭先をかすめながら細い道を走っていたら地元のさびれたスーパーを発見。
やっと食べ物が買える。

店の中に入ると、誰もいない。
「こんにちわ」
何度も大声で呼びかけるが反応がない。
それで奥のほうへ向い、大声で呼びかけてやっと店主が出てきた。
店はあまり流行っている感じではない。おそらくは20年以上前がピークだったのでは、客もごく近所の人だけなのだろう。品揃えは豊富ではない。
カロリーメイトかジェル系のものが欲しかったのだが無かったので、そのようなものがあるはずもない。やむなく、あんパンと牛乳を買った。

店の外へ出て、駐車場においてあった古タイヤの上に座り、ゆっくりと食べる。
牛乳が喉を通り、胃袋に入ったのが冷たさでわかった。
ほっとした。

時計を見ると午後3時30分を過ぎていた。これからまだ回るところがある。6時までにホテルに帰れるだろうか。

予定を考えながら、善光寺へ。
東光寺から東へ向かうと善光寺がある。

甲斐善光寺
甲府五山ではないが、長野の善光寺とゆかりがある。
本堂は、東日本最大の木造建築物らしい。
これもwikiによるが、
信玄は信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と衝突し、現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島の戦いを行うが、弘治元年の第二回合戦では戦火が信濃善光寺に及び、信玄は自分の領国である甲斐へ本尊などを移したといわれ、以後、川中島の戦いの戦火は善光寺方面へ及んでいない。上杉謙信もまた領国の春日山城下に本尊以下を遷しており、善光寺別当栗田氏も武田方と上杉方に分裂している。



甲斐善光寺には、日本一の泣き龍と戒壇めぐりがある。
さっそく、龍を試してみた。ここで手をたたくともっともよく響きますという場所にたち、手を打った。
反響音が重なり、龍の鳴き声に聞こえなくも無い。なるほど納得。

2回試してから、ご本尊の裏側へ回り、戒壇めぐりに挑戦をした。
真っ暗な階段を下り、何も見えない空間を左手の壁に触れる感触だけを頼りに進んでいく。
ちょうど腰のあたりにカギがあるらしく、これに触れたら良いことがあるらしいというので、ゆっくりと進む。
幸運なことに途中で左手にカギが触れた。
瞬間、家族の健康と幸せを祈った。
入口はこちら


その後、展示されていた地獄絵を見て回った。文字が読めず、映画もテレビもない時代に民衆を教化するためにはこのように分かりやすい絵が有効であったろう。今なら地獄絵は大迫力のスペクタクルな3D映画のようなものだろうか。絶対的な善悪の基準が揺らぎ、経済的な損得でしか物事を考えなくなっている現代人ははたして幸福なのだろうか。

宝物殿も見学したかったのだが、もうすでに閉まっていた。残念だ。

あと二カ所を回らなければならない。


甲府城趾
工事中のところもあったのだが、天守閣跡まで上ってみた。
そこから、甲府の街や甲府盆地を取り囲む山々が一望できた。すばらしい眺望だ。
芝生の上に座り、次第に、太陽が黄色から赤くなっていくのを眺めた。
観光客もほとんどいないので、江戸時代などへタイムスリップする空想にふけることができた。
この場所に立ち、同じような景色を眺めた古人の気持ちはどのようなものであったろうか。



素晴らしい石垣。武田神社の石垣と比べると、石を積む技術の進歩がわかる。





ほぼ唯一の建物といえる櫓。


要害山や武田神社との位置関係を確かめることができる。


外堀まで出て、ぐるっと回ってさきほど上から見ていた櫓を下から見上げてみた。





法泉寺

ここには、勝頼公の墓所がある。
法泉寺のHPによると、以下のとおりだ。
信玄公が世を去って後を継いだ勝頼公からも引き続き保護を受けましたが、長篠の戦い以後武田家は衰運に向かい、ついに天正10(1582)年、織田・徳川連合軍に追いつめられた勝頼公は天目山(現在の甲州市大和町田野)の地で自刃し、武田家は滅亡してしまいました。そして勝頼公の首級は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となったのです。
 しかしこれを知った当山三世の快岳禅師は、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼公の首級(歯髪ともいわれている)をもらい受け、当山に持ち帰り手厚く葬ったのです。







お参りを終えて、山門のところへ戻ったら、近所の子どもたちが遊んでいた。
こんにちはと声をかけたら元気よく返事が返ってきた。

子どもたちはもうちょっとだけ遊ぼうとか帰ろうとか話し合っていた。
そこに、犬を連れたご老人が現れた。
夕日は赤くなり、山の向こうに沈みつつあった。
子どもたちは、じゃあまた明日遊ぼうと言って手を振りながら自宅へ駆けていった。

夕暮れが迫っていた。
そうだ、帰ろうと私も知らずに呟いていた。


2013ハーフセンチュリー茨城 今年のルート

2013-10-13 20:26:12 | 自転車
先日、2013ハーフセンチュリー茨城の資料が届いた。
それによると、今年はルートが一部変更になったようだ。



ものすごい上りはないが、4、5の上りがあり、その他は細かいアップダウンがある。
コースのコンセプトは、多少のアップダウンをスパイスにした茨城の秋の里山サイクリングといったところだろう。
獲得標高は、約840m
距離は約85km


では、コースだが、

スタートから最初のチェックポイントまでは例年通り。

運動公園を出てから、金砂郷の工業団地まで上りはない。

その後は、田舎道を走り、通称そば街道へ。
そこからフラットなのだが、かなり緩い上り。金砂の湯から犬吠峠への上りはややきつい。
峠の標高は約130m。
コースの最低標高は約10m。

その後は、標高約30mまで、一気に下る。
びゅんびゅんスピードが出ますので、注意。

国道118号線を越えると再び上り。斜度は8%くらいか?
8%の坂は約1km。

そして、南沢公園チェックポイントになる。
ホカホカの御前山味噌まんじゅうがたぶんもらえるはず。味わってください。

チェックポイントを過ぎての下りは狭くカーブが連続するので危険。要注意。
例年事故が起こっているようだ。

その後のコースは、例年と異なっている。
南皆沢公園チェックポイントを通過して下り、アップダウンがあり、ほぼ上りきったところをわずかに過ぎて左折し、県道102号線を走るのだが、今年はそこで曲がらずに真っすぐ進む。
ここも上りになる。
標高差約60m。斜度は3%くらい。距離は1700mくらいだろう。

左折する場所は下檜沢、県道29号と163号のY字型交差点を坂の途中で左折しなければならない。
坂道だからといって飛ばし過ぎると行き過ぎてしまうので、注意した方がよいだろう。

その後、下檜沢を左折して、旧緒川村に入り、たぶん、旧緒川村の集落をすぎて、県道12号線を南下。

下小瀬で右折して山の中に、カバヤゴルフのほうへ(地図では鹿島神社の手前を左の方へ)
途中、少し上りがある。
標高差約50m。斜度は2%をちょっと、距離は約2kmくらいか。

そして南下し、下ると国道へ出る。
下りは6%くらいで、距離は2kmくらい。

那珂川を渡り、コマネギ峠へのルートへ。
ダム湖の脇を走る。

コマネギ峠から那珂川の千代橋あたりへのルートは例年通り。
コマネギ峠が最後の上りになる。


コマネギ峠の標高は約205m。
途中、那珂川付近が標高25mくらい。
約180mの標高差。
平均斜度は、4~5%
10%を越える場所はほとんどないはず。
コマネギ峠の下りは、途中、路面が荒れているところがあるので要注意。
穴が空いていたり、濡れ落ち葉があったりする。

峠を下ったら、後は基本は平坦。
残りは約20kmくらいだ。

コマネギ峠を下りて平地に出て那珂川付近の橋あたりからのコースは例年とが異なっている。
ここは走ったことがないのだが、たぶん、田んぼの中の道を走る。
途中国道123号と合流する。
国井大橋を渡り、県道102号線を北上。
戸というところで龍昌院の信号を右折。


ゴールまでは、風がなければ快調に走れるはずだが、那珂川を挟んで南北にユータンすることになるので、風が吹くかもしれない。
コマネギ峠までの峠で足を使ってしまった人はちょっとの風でも意外に辛いかもしれない。

龍昌院からゴールまでは例年通り。
最後にほんのわずかの距離の坂があるが、疲れた脚にはきつく感じるかもしれない。



この地図だと上部に千代橋とあるところから那珂川の左側の田んぼの中を国道123号線と平行しながら途中まで走り、岩根町の下あたりで123号線に合流し、下の方の赤い線(常磐高速)を過ぎてから曲がって那珂川の国井大橋を渡り、上へ向かう。


それほど例年のタイムに大きく影響するほどの変更ではなさそうな気がするがどうだろうか?
自分の感覚では、去年に比べて20分くらいよけいにかかるような気もする。
トレーニング不足だからだ。

御前山 サイクリング

2013-10-13 17:10:17 | 自転車
10月13日は、O君とIさんと3人で、水戸から御前山まで往復した。

御前山は、水戸から西北西に約25キロ、那珂川の上流に位置する。
明治までは、那珂川が水上運送で用いられていたことから、御前山にも船着き場などがあったらしい。

 御前山の名の由来だが、伝説によると女帝であった孝謙天皇の愛を受けて法王の座についた道教が下野国に左遷され、やがて御前山に孝謙天皇とともに住んだことからいわれている。あくまでも、伝説である。

御前山は徳川家により伐採を禁じられたため緑がたくさん残っており、キャンプ場などがあり、アウトドアを楽しむ人が多い。


さて、今回のサイクリングの目的は、11月3日のハーフセンチュリー茨城に備えて、なまりきった体を少しでも鍛えようという魂胆である。

まさかそんなことはないが、途中の坂で息切れしてぶざまな醜態をさらしたくないのだ。

巡航速度は30kmとした。これでも50歳を過ぎた親父には結構キツイ。
最近は、歴史ポタリングばかりで、ちょっと走っては寺社仏閣などで立ち止まり、あれこれ詮索いや散策して歩くことが多くなっており、速度を維持して走ることがめっきりと少なくなった。

本日のルートは
三の丸から法務局の横の坂を降りて、那珂川を渡り、青柳のプールのところで左折し、那珂川沿いのサイクリングロードを走り、下国井のあたりから、県道102号線を走り、県道21号線にぶつかったら、左折し、御前山を目指す。
帰りは、途中まで那珂川の西側を走り、同じコースを戻る。

このルートは、那珂川沿いの自然を楽しもうというものだ。
残念ながら、これといった絶景はないが、のどかで気持ちがよい日本の田舎風景が楽しめる。
田舎の空は、大きく、広い。田舎であるがためにビルや建物など視界を遮るものがない。
左右に広々とした田園風景が広がり、そこに点在する農家や小さな里山、那珂川の流れなどが楽しめる。
秋になると、農家の庭先に柿の実がなり、すすきがキラキラと光り輝きながら風に揺れ、赤とんぼがのどかに空を飛び、鳶のピーヒュロロという声や那珂川を遡上する鮭の群れを水面の中に見つけることができるだろう。
約1300年前の常陸国風土記の世界がまだそこに残っているのだ。

県道を走るので、自動車の交通量がそれほど多くないために走りやすい。
とくにダンプカーやトラックなどの台数が多くないのが有り難い。
有名な国道を走ると、大型車両に怯えながら走ることになるのだが、ルートを考える際には、極力、有名国道は避けるようにしている。
最近は、大型車両もサイクリストに気を使ってくれているのだが、それでも怖い。
遠くからでも、だんだんと近づいてくるのがわかる。
追い抜かそうか、どうかタイミングをはかりながら、ここぞとアクセルを踏み込むと、ブォブォブォ~と猛獣のような大きな音とともに風圧で左に押し出されそうになる。これが怖い。

晴天に恵まれ、気温も秋らしさを感じさせるくらいのほんの少し肌寒さで、湿度も猛暑の頃のまとわりつくしつこさもなく、快適に走ることができた。

御前山の赤い橋に到着すると、饅頭を食べることになっている。
交差点のところに饅頭を売っている店がある。それほど大々的に売り出していないので、地元の人間しか知らないが、人気の饅頭だ。

出来たてホカホカの饅頭は、美味しい。バラ売りもしている。一個でも売ってくれる。手触りが柔らかく、暖かい。出来たてなのだ。ビニールの包みを外すと、饅頭の甘い香りが漂う。一口で食べられるくらいの大きさなのだが、二つに割る。片方を口に放り込む。口の中にほどよい甘さが広がる。素朴な優しい美味しさが広がる。御前山饅頭は、やはり、美味しい。

饅頭を頬張りながら、交差点を見ているところ、オートバイのツーリンググループが多い。信号のたびにグループがやってくる。

ここを通ってひたちなか方面、つまり海へ向かうか、逆に茂木や那須へ向かうのだろう。

赤い橋の周辺を見るとテントやバーベキューの準備をしている人やら、釣り人がたくさんいた。

御前山は、川や自然を楽しみ、遊ぶ場所なのだ。
行けば何かをしてくれるところではない。自然が身近にあるが、手取り足取りサービスしてくれる親切さはない。遊ぼうとする人が主体性を発揮しなければ何ともつまらない場所になってしまうだろう。観光で見るだけとか、プレジャーランドのような楽しみを期待してはいけない。
ウォーキングで、釣りでも、河辺でキャンプでも、バーベキューでも、ウォッチングでもいい。自然と触れ合う気持ちが大切な場所なのだと思う。


さてさて、
御前山へ向かうサイクリングする際に、お勧めは、

1、御前山まんじゅう「ひやま」
  できたてホカホカの饅頭を1個から販売してくれています。地元の名物。

2、御前山の赤い橋
  那珂川大橋が正式名称であったかな? 途中で下を見ると、鮭の遡上などを見かけることがあります。

3、鮎の塩焼き
  ところどころで鮎の塩焼きを売っています。那珂川は鮎釣りで有名です。

4,藻屑カニ
一部のマニアにしか知られていない季節もの。上海蟹の親戚?と言われる川蟹。美味。

いかがでしょう。



甲府 武田を訪ねて 歴史ポタリング 円光寺と信玄公墓地

2013-10-10 12:45:28 | 自転車
甲府の街、歴史探訪のポタリングはさらに続く。

台風通過のためか、甲府盆地はすっかり晴れ上がり、まるで夏に逆戻りしたかのように気温が高くなってきた。
今回は、街中ポタリングのつもりなので、すぐに水も食べ物も手に入るだろうと考えて持参しなかった。
急峻な要害山から下りたときには、昼を過ぎてしまい、お腹がすき、喉が渇いていた。
どこかに食堂はないかと探しながら要害山からの街へ戻る坂を下っていったのだが、店はなかった。
やっと見つけたのは、飲料水の自動販売機。
ジリジリとした暑さに喉が渇いたので炭酸飲料を飲むことにした。
自転車を止めて、デカビタCを買う。
自販機近くの手頃な石の上に腰を下ろして座り込み、キャップをねじり蓋を開ける。まずはひと口。
シュワーッという音と一緒に甘さとパチパチした刺激が舌の上を通り、喉にしみる。
溜息とともに疲れを吐き出し、午後の行き先を考えてみた。

生誕地の次は、埋葬地だろう。
そして、信玄公の父、妻、子どもたちの墓所だろう。
甲府には甲府五山といわれる禅寺が点在しているらしく、そこも回ってみよう。
最後は、やはり甲府城だろう。
おおざっぱなプランニングを終えて、出発した。

今朝、お参りした武田神社へ戻り、神社の前にあった甲府歴史の街の案内板を見て、行き先の場所をおおざっぱに頭にいれた。

次は、円光寺。甲府五山の一つ。現在の本堂は昭和になってから建て替えられた。
1時前には着いたが、人影は見当たらなかった。

信玄公の奥方の墓所がある。1570(元亀元)年に亡くなった武田信玄の正室三条夫人の菩提寺。
三条婦人は五摂家の方であるらしく、武田家よりも家の格は上であった。
仲人は、どうも小田原の北条氏らしい。
京都のお公家のお嬢様がどうして甲府へ嫁入りしたのだろうか。
おそらくは、財政的な問題が背景にあったに違いなく、武田家側としては都にコネを持ちたいという願望があったにちがいない。
三条婦人の人柄について、境内内に看板があり、「西方一美人 円光如日 和気似春」とあった。
これによると、美人でお日様のように光を放つがごときであり、そばにいると春のようなほんわかした気持ちになってしまう性格であったらしい。







さて、円光寺の次は、信玄公の墓所である。
信玄公は、天正元年(1573年)4月12日、甲斐へ引き返す途中の三河街道上で死去、53歳の生涯を閉じた。
今の時代ならすぐに公表するのだが、戦国時代であるため信玄公が亡くなったことを周囲の大名が知れば攻め込んでくるに違いない。
そう考えた信玄公は、混乱を避けるため、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したという。
正式な墓所は、塩山の恵林寺にある。遺言通り3年間秘匿した後に葬礼を行い、埋葬されたのだ。
では、亡くなってから3年間どうしていたのかというと、この場所に埋葬されていたらしい。





河尻塚
織田家臣の河尻秀隆が埋葬された場所らしい。
信玄公の墓所のすぐ近くに河尻塚があった。まったく予備知識はなかったが、案内の看板があったので立ち寄ることにした。
場所は、ゲートボール場と民家の間のきわめて狭い場所にあった。どうしてこんなひどい場所にあるのだろうと疑問を感じた。
天正十年(1582)3月11日、織田軍に追い詰められた武田勝頼と嫡子信勝は自害。
甲斐武田氏は滅亡。織田信長は、河尻秀隆に河内地方を除く甲斐と信濃諏訪郡を与える。そして、秀隆は、躑躅ヶ崎館には入らずこの河尻塚のあたりに館を構えたらしい。
その後、本能寺の変が勃発。
信長が死んだことを知った甲斐国内には一揆が発生し始め、6月18日、河尻秀隆は一揆に襲撃される。
織田は徹底した武田の家臣狩りと寺などを焼き払うなどのため甲斐の住民に相当に恨みを買っていたらしい。
ついに、秀隆は三井弥一郎に討取られ、逆さにして埋められた。それがこの河尻塚なのだという。
甲府の人間にとって、河尻秀隆は許すまじき人物で憎むべき存在なのだろう。それゆえ、このようなひどい扱いなのだろう。

現代で置き直すと、買収した会社へ単身赴任して頑張ろうとしたが、徹底したリストラなどがあり買収された側の従業員などの恨みが深かった。ちょうど、そこに買収した側の会社の経営が危うくなった。それをチャンスとみた従業員や役員などが反乱して、追い出したという感じになるのだろうか。

入口がまったくわからないような状況。かろうじて、ゲートボール場側のフェンスに入口がある。


あたりをうろうろとしていたら、ゲートボールを楽しんでいたご老人たちからフェンスのドアは開いているから自由に入りなさいと声をかけられた。
中に入ると、狭い。
すぐ後ろには民家が迫っていて、トタン板の錆が茶色に流れているのが印象に残った。



河尻塚を後にして、次は、信玄公の父である信虎公が埋葬されている大泉寺へ向かうことにした。

しかし、腹が減った。
民家は数多くあるのだが、食堂がまったくない。
売店もない。市街地だからどこにあるだろうと思っていたが、寺があるような場所ははずれにあるから、店がないのもしかたがないのだろう。



出世街道発見 水戸歴史探訪

2013-10-08 17:06:51 | 自転車
日曜日の朝、久しぶりにO君とポタリングをしてみようということになった。
午前8時30分に集合。
集合場所は水戸の県立図書館前だ。
行き先は、その場で決めた。
11時頃までに戻らないといけないので大洗方面にしようということになった。

まずは、三の丸から二の丸を抜けて、水戸一高の坂を下り、国道50号線沿いに大洗方面に向かった。
6号線の架橋下をくぐり、しばらくすると、六地蔵寺入口の表示があった。

六地蔵寺は地元では有名な寺なのだが、これまで縁がなく訪れたことがなかった。
そこで、まずは六地蔵寺へ向かった。ここは水戸徳川家の位牌が置かれている由緒正しいお寺だ。
六地蔵寺の次はダイダラボウのある大串貝塚公園へ。
縄文や弥生時代の展示品をじっくり見て歩いた。

帰りに、たまたま常澄支所の看板に出世街道という文字を発見。
これは面白いというので、行ってみることにした。
なかなか場所がわからず、とりあえず目標は仏生寺付近に定めて、その付近を探査してみた。

それで、
仏生寺の入口からさらに南へ進んだところで、千勝神社を発見。
千、勝つ神社。千回勝負して千回勝つ。
勝負事に強くなれそうな神社の名前だ。
さっそくお賽銭をあげてみた。


さらに2,300メートル進むと
出世稲荷神社発見。
出世することができる気がしてきた。
またまたお賽銭をあげてみた。


神社から南側へ道路が走っている。
これが出世街道だ。
普通の田舎道のような気もするが、だまされてはいけない。
きちんと教訓があるのだ。
出世への道はごく当たり前の道をごく当たり前に進むのが秘訣なのだ。
この道はそれを教えてくれている。


北側からアプローチすると
勝負して千勝
そして出世する。
その後は、出世街道をまっしぐら。
という配置になる。

南側からアプローチすると
出世街道をまじめに歩む。
出世稲荷にその努力が認められる。
そして、
その後の勝負はすべて勝つとなるのだろうか。

実に素晴らしい。
知り合いに聞いてみてもほとんど出世街道のことは知らないようだった。
この街道は、きっと、ミステリー? パワースポット? として有名になるだろう。

これを見て、現地を訪ねたい人はご自身で場所を探り当ててください。
ネット上にちらほら情報があります。

甲府 武田信玄を訪ねる歴史ポタリング 要害山

2013-10-07 05:22:46 | 自転車
武田神社から、要害山へ向かった。
少しずつ傾斜がきつくなってくる。

登坂の途中に、お聖堂様がある。武田信玄の二男の墓だという。生まれつき目が不自由のため仏門に入ったが、武田氏が滅ぼされるときに自害をしたという。


お聖堂様


登坂の途中で。甲府市内が見える。すっきりと晴れて気持ちがよかった。山に囲まれている。盆地というのはこういうものだというのを実感した。


登坂。いかに急勾配かがわかる。


積翠寺。
臨済宗妙心寺派行基が創建し、その後夢窓国師弟子竺峰和尚が一時衰えた寺を興し、武田家の菩提寺として再建した。
この寺は、境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていましたが、後に積翠寺と改められたという。
大永元年(1521年)11月3日、戦火を逃れて避難した信虎夫人は、この寺で信玄を出産したと伝えられている。


中に武田信玄公の像が祀られていた。


水を持たずに出かけたので喉が渇いて仕方がなかったので、和尚さんに、お許しをいただいて、水をいただいた。
脱水症状気味になっていた身体に水が染みわたる。
バケツの中にキュウリとトマトが浮いていて、蛇口から冷たい水が注がれていた。水はきらきらと輝き、とても美味しそうに見えた。
本堂の下で休んでいると、和尚さんから「信玄公の産湯の井戸が裏にあるからご覧ください」と声をかけていただいた。
裏に回り込むと、庭園があった。

信玄公の産湯に使われた井戸。寺の裏にある。庭園を過ぎてかなり奥にあった。



積翠寺を出て、さらに上がる。
要害山の表示が出ていた。
積翠寺の裏には要害山がある。永正17年(1520年)つつじがさき(武田神社のあるところ)の援護地として信虎が築城した要害城跡だ。
本丸に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もよく遺存しており、戦国武将武田氏の城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして重要であるとして、1991年3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
上り口に着いてから、わかったのだが、山頂まではとても自転車でいけるような場所にはなかった。
山城で、急峻なのだ。
しかし、せっかくここまで来て、登らないも悔しいので、にわか登山にチャレンジすることにした。

案内板。かなり本格的な山城があったことがわかる。
この城はふだん生活をするためのものではなく、敵に攻められた時に立てこもるための城であることがわかる。


自転車を降りて、徒歩で上ることにした。
細い山道が続く。


途中にあった仏像。
樹間に甲府の街を見下ろすことができた。当時を想像してみる。いったいどんな景色が広がっていただろう。



国の指定遺跡になっているので、曲輪や門跡などの看板がある。
城跡は、私のような素人には単なる山肌にしか見えないので、このような表示は有難い。
館への道などは防衛の観点から作られている。まっすぐ楽に館へ到着してもらっては防衛からは困る。そこで、いざというとき、いろいろな障害になり得るものが設けられている。
だいたい、人工物について考えるときは、意図があって作られているから、なぜ?と素朴に考えてみると自分なりに答えが見つかり、納得できることが多い。



ここは門の跡。両脇に土塁があり、真ん中を通行するが、そこに門があったらしい。


やっと山頂。ここに館があったらしい。平らになっている。


武田信玄公生誕の地の記念碑。東郷平八郎の揮毫。


水も持たずにやってきたので、またも脱水症状気味。お腹もすいてきて力が入らなくなってきた。
ちょっと見て回るくらいで、すぐに下山することにした。

下山後、要害山の案内板をみた。楽に登れそうなイメージだが、実際にはそうでもない。


要害山から甲府市内へ下る。


私は、城マニアではないのだが、要害山へ上ってみたよかったと思っている。
というのは、要害山城跡、武田神社、甲府城跡の3つを訪ねたことで、中世から近世にかけての城の変遷がなんとなく実感できた気がしたからだ。


甲府 歴史ポタリング 武田信玄を訪ねる旅

2013-10-04 05:26:24 | 自転車
甲府に用事があり、出かけたついでに武田信玄を訪ねるポタリングをした。
長距離ではないので、ホテルでゆっくりと朝食を食べ、朝8時頃に出発した。
事前にちゃんと地図を準備していなかったので、方向を勘違いして逆方向へ1kmほど走り、方向が違っていると気がついて戻る。
仕事が忙しかったので、事前にろくな準備ができなかったのだ。
甲府の街へ行けば、ホテルで観光案内地図がもらえると思っていたのだがちょっと甘かった。
しかたがないので、iPhoneで検索をして、甲府の観光案内を表示して甲府の観光案内のHPを開き、武田信玄に関係するところを回ることにしたのだ。

とりあえず、3kmほど離れた甲府駅へ向かい、近くにある武田神社を訪ねることにした。
この神社は、躑躅ヶ崎館の跡地( 武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神としている。

常陸太田が佐竹の街であるのに対して甲府は武田の街なのだ。
江戸時代になる前、佐竹氏が秋田へ移封され佐竹の時代が終わりをつげた。
甲府も同じように武田の街が江戸時代前に終わっている。
織田信長に武田が滅ぼされて、その後、江戸時代には徳川の直轄地になった。
水戸も佐竹から徳川へと変わったので、似ているともいえる。
常陸太田の街を理解するには佐竹の歴史を学ぶのが出発点になるのだが、武田の歴史を学ぶことが甲府の街を理解することにつながるだろう。

甲府駅の北口から武田神社を目指す。
さすがに盆地の街である。
武田神社への道路に緩やかではあるが傾斜があり、上り坂になっている。
甲府は7~800mクラスの標高の山に周りを取り囲まれている。

武田神社に到着すると、平日であったので、ときおりバスのツアー客が現れるが、あまり観光客はいなかった。
おかげで落ち着いた気持ちで参拝することができた。

武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎によって築かれた。その後、信玄・勝頼と武田三代の本拠地として使用された。この館は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であった。曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設されていったという。
その後、天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したという。

赤い橋を渡り、正面の階段を上ると鳥居がある。


神社の全体像がわかる。


鳥居をくぐり、すぐ右に桜がある。太宰治は甲府にも滞在していたという。そういえば、1ヶ月前に訪れた竜飛岬にも太宰治が滞在した旅館があった。太宰治には、縁があるようだ。中学生の頃に、走れメロスに感動して、人間失格を読み、衝撃を受けたことを思い出した。中学生の頃の自分にとっての太宰の衝撃はものすごく、その後、太宰治に触れてはいけないような気持ちになってしまい、ずっと避けていたことを思い出した。


風格を感じさせる建物。しかし、社殿ができたのは大正8年頃で新しい。どうして、大正になるまで武田信玄公が祀られなかったのだろうか。背景には、武田家と徳川家の関係などががあるのだろうか。


さざれ石。おそらく日本で最大のものではないだろうか。4トンもある。別名は亀石といわれるらしい。右側の上のところが亀の頭であり、下のところに前足があるように見える。ちなみに、さざれ石が置かれたのは2012年なのでつい最近のことだ。


井戸。今でも水が飲める。柔らかな味だった。


能の舞台があった。


水琴である。


塁が残されている。武田信玄の頃の時代のままだ。


当時の井戸が残されていた。覗いてみたが、濁っていた。この井戸は使われていない。


単なる神社ではなく、城跡であることがわかる。


水堀。


征清紀念碑
武田信玄公とは関係はないのだが、日清戦争に関する塔だ。なぜ建てられたのかというと、日清戦争において山梨県から二千余人が従軍し、死者百有余人という壮烈な戦いであったことから、この碑を建立したらしい。

常陸太田~昭和の面影

2013-10-01 09:56:46 | 自転車
常陸太田をぶらぶらと小径車で訪ね歩いてみた。
本当ならロードバイクで遠くまで出かけたいのだが、午後に子どもの送迎があり、午前中しか時間がないので、近場の歴史探索をすることにしたのだ。

出発点は、常陸太田市のこめ工房の下にある公園の駐車場である。
ここは便利である。
どうして便利かというと、駐車場がいつも空いているし、すぐ近くにセブンイレブンがあるからスタート前に補給食などの準備ができるからだ。
また、久慈川サイクリングコースの上流側の終点は山田川なのだが、山田川まで2kmくらいなので、この場所を起点にして久慈川サイクリングコースを下ることもできる。

ここから、坂を越えて西山荘方面に向かうことにした。
西山荘までは坂を越えていかなければならない。

坂を上りきり、坂の下りが始まるところに交差点があるので、そこを右折する。
しばらく下ると、山の神というのがあった。
道路から少し外れて丘の方へ歩いて上ると山頂らしきものがあり、そこに山の神がある。
山の神の詳しい歴史は調べないとわからない。
詳しいことがわからなくとも、古人が何かを感じ、崇拝してきたのだから、なにがしかの尊きものがあるのだろうと思う。
遠い昔に、思いを寄せて、手を合わせることにした。
山頂から遠くの見通しがきくので、しばし風景を楽しむ。
緑の木々が重なり、山になり、海が波打つように見える。美しい。
おそらくは、昔の人もこのような風景を見ていたことだろう。


山の神からさらに下ると、すぐ近くに白馬寺がある。
昔、中国へ渡った僧が建てた由緒正しい寺なのだが、詳しい歴史を知らない。
現在とは異なり、中国へ荒海を渡っていくのは大変なことである。
費用も莫大であったろう。そのような留学が許された僧はよほど優秀であったに違いない。
その時代にはよほど立派な寺であったはずだが、惜しいことに現在はその面影はない。
その僧がどのような思いでこの寺を建てたのか、その思いや生き様が伝わるものがあれば素晴らしいのだが、それがわからない。
手がかりのようなものが残されていれば、残された断片から物語をイメージすることができるのだが、残念だ。
歴史とは、あらゆるものを風化させてしまうものだ。
どんな物語であってもそれを語り継ぐものがなければ後世には伝わらないのだ。


白馬寺を過ぎると、舗装路から砂利道になる。杉林の中を過ぎると、集落に出る。T字路を左折する。
さらにy字路を左に。
すぐ左に鉄製の柵がありその中に山寺水道の記念碑があった。
山寺の水道とは、永田円水が作った施設であり、全長約2kmのトンネル式の水道である。
江戸時代に、岩盤をくりぬいてトンネルを掘るのは並大抵ではない。
現在のようにドリルがあるわけではないのだから、鉄のノミをガツンガツンと岩に打ち付けて穴を掘り進むしかなかったはずだ。
2kmというと気の遠くなるような作業だったに違いない。
土木のことは詳しくないので、わからないが、水を流すためには勾配が必要である。2kmもの距離で水が上から下へ流れるようにトンネルを掘るにはどのような技術が用いられたのだろう。
わからないことだらけだ。
永田円水は、この山寺の水道以外に、久慈川、那珂川、笠原水道などの工事も行っている。
どのような人物だろうと思って調べたら、鉱山開発技術者であったらしい。金山などを掘り当てる仕事をしていたらしい。出身は、甲斐の国だという。
甲斐の国といえば、武田信玄である。
現在の甲府であるが、盆地であるため、農地が少ない。米を作ろうと思ってもそれほど収穫量が得られない。しかし、武田は、軍事力で優れていた。武器を購入するには資金がいるが、その資金はどのようにしたのかというと金山であった。金山を掘るために、武田は数多くの鉱山開発技術者を召し抱えていたのだ。
その技術者は、武田が滅ぶとともに各地に散らばったにちがいない。
その一人が永田円水であろう。
鉱山技術をちょっと応用すれば、堰を造ったり、水道を掘ったりすることは容易いに違いない。
思わぬところで、武田とつながってしまった。


杉林の中の坂を下り、左に折れ、集落のはずれまで行くと、旧久昌寺跡が見える。
現在の久昌寺は、常陸太田二高の近くに移っているが、昔は、この付近に久昌寺があったという。
写真の真ん中付近に昔の久昌寺があったらしい。
当時、かなりの規模の寺であり、学僧がたくさんいたという。
なぜ、寺を移転したのか理由は調べていない。
ところで、久昌寺は、徳川光圀公の母が祀られている。
徳川光圀公は、当時、かなりの寺を整理したらしい。
そのために、取り潰された寺が相当あったということである。



永田円水の墓。


運動公園前の木造の橋。


元治甲子の乱の際に、天狗党から常陸太田の街を守るために戦死した二本松藩士の墓。トンネルの脇にひっそりとあった。


常陸太田は坂の街。昔ながらの坂がたくさんある。


坂の途中にある井戸。


坂を登り切ると、これも昔ながらの建物が残っている。昭和の街がひっそりと残っている。マンゴク醤油。昔からの醤油店。とてもいい雰囲気の店なので、立ち寄ってみたい。
この家の柱には刀傷があるという。


博物館。煉瓦造り。残念ながら閉館中。


途中で見かけた建物。


いかにも昭和風。


雰囲気がよい。飲食店のようだ。


明治、大正、昭和のいずれに建てられたものだろうか?


昭和スタイルだろうか。


オシャレな雑貨店とその左側に昔風の煉瓦造りの建物。ここでは、ミニコンサートなどが行われる。


途中で見かけた薬屋さん。懐かしい雰囲気が漂っている。


スポーツ用品店。


本屋さん。


醤油屋さん。


最後は幼稚園。


常陸太田は、明治から昭和の建物がそっくり残っている。
空襲されなかったためだ。
残念ながら、自動車の時代になってからは商店街は坂の上から下へ移り、ひっそりとした雰囲気が漂っている。
たまに自動車が通るくらいだ。
それゆえ、タイムスリップした気持ちになる。
坂の街ではあり、上りは押して歩かなければならないかもしれない。
しかし、
いろいろな建物が昔のままに遺されているので、昭和を味わいたい人にはお勧めである。


なお、常陸太田市観光好協会のHPに史跡巡りのコースマップがあり、参考になる。
常陸太田駅に、電動アシスト自転車のレンタルがある。4時間200円で3台ある。
遠くの人はこれを活用すると楽チンだ。
http://www.kanko-hitachiota.com/wp/hitachiota/おすすめモデルコース/ひたちの歴史探訪コース/