ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

竜泊ライン~その2

2013-09-26 06:47:22 | 自転車

灯台から竜泊まりラインの方向を眺める。海岸線、緑、海の色が美しかった。



青函トンネル工事の拠点。本州側はここから掘り下げたらしい。見学ができるらしいが時間節約のため立ち寄らなかった。



竜泊まりラインのスタート地点。五所川原方面を目指す。
始まりから急勾配。



風力発電。この地方は風が強く、そのため数多くの風力発電施設があった。残念だが霞んでしまった。


ほとんどが上り坂。フラットなところはない。時速8kmくらいまで落ちる。


上り坂でカーブが多い。雲が出てきた。


展望台。
とにかく疲れた。暑い。トイレへ向かい、頭から水をザバザバかけて冷やす。
展望台にいた観光客からお疲れ様とねぎらいの言葉をもらう。
バイクツーリングのライダーから話しかけられて、しばし雑談。
ここまでが上りで後は下るだけ。


下りのカーブ。
道路はくねくねと連続して曲がりながら海辺へと落ちていく。
美しい道路だ。


展望台の全景。
出発する。この後はブレーキレバーを握りしめて急坂を落下する。


あっと言う間に速度が出る。たぶん時速40~50kmくらいか。
途中まで坂を下りたら、目の前に海が見えてきた。


まるでそのまま海に飛び出してしまいそうな感じがした。


後ろを振り返るとどんな坂を下ってきたのかわかる。遠くに展望台らしいものが見えた。


いかに山深いかがわかる。


海が見えた。綺麗だ。


坂の終わり近くに石碑があった。この坂は自衛隊の工兵隊が建設したという。一の坂と名付けたのはその当時の苦労を記念してのことだ。確かにこんな場所に急勾配の道路を作るのは大変であったろう。


下り切ってから坂を撮影。
なんとなく急坂だというのが伝わってくる。


この後は海岸線沿いにフラットなコースが続く。快調に飛ばす。
何もない。海を見ながらただひたすらペダルを回す。
人家がない。
自然だけだ。
冬景色も美しいだろうが、生きていくには厳しすぎるだろう。






竜泊ライン~その1

2013-09-25 05:09:43 | 自転車
いつもブログに書くのは遅れがちだ。
時間は過ぎていく。
先月の下北半島の自転車の旅を写真で振り返る。これも途中だが少しずつ。

ねぶただ。間近で見るとすごい迫力だ。


早朝の青森駅


これに乗る。始発だ。


湾。靄が出ていた。


蟹田駅。乗り換える。風の街だという。


これに乗り換える。乗り鉄の人たちと地元の学生が多い。


本州最北の駅。三厩駅のホーム。




駅舎 三厩駅


魚の尾鰭。漁村で見かけた。


風力発電の羽。でかい。ここは風の町だ。


三厩という地名の発祥の地。義経がこの地に馬をつなぎ、船に乗って北海道へ渡ったという伝説がある。


漁村。崖地の下のわずかな隙間にひしめきあうようにへばりついている。


竜飛岬の宿。昔、太宰治が泊まった。現在は観光案内所。


座敷に入り、座布団の上で、太宰治が泊まった頃を空想した。



2013ハーフセンチュリー茨城~その2

2013-09-08 14:21:20 | 自転車
茨城サイクリング協会のホームページで今年のハーフセンチュリー茨城の応募が始まったようだ。

最近になって、去年書いたハーフセンチュリー茨城を読んでくれる人が増えた。

去年のハーフセンチュリー茨城の記事は、書きかけで終わってしまっていた。
スタート地点の那珂市総合運動公園を出て、久慈川を渡り、旧金砂郷町を北上し、犬吠え峠のあたりで終わった。

中途で終えては、まずい。
そう思って、残りのコース案内?らしきものを書くことにした。

ハーフセンチュリー茨城の峠、あるいは坂道は3つある。
1つ目は、犬吠え峠
2つ目は、犬吠え峠を下りきると、交差点を過ぎて、すぐに立ちはだかる坂
3つ目は、那珂川を渡ってダムを過ぎてから始まるこまねぎ峠

犬吠え峠の入り口あたり、金砂の湯のあたりまでは比較的ゆるやかな上り基調であるが、金砂の湯を過ぎるとちゃんとした坂になる。
坂を上りきると、今度は長い下りで快調にビュンビュンと飛ばせる。
たぶん時速50kmは出せるだろう。

この下り坂は、道も広いので、そんなに危険はないが、速度が速いので、路面には注意しながら下ってほしい。

下りきると、久慈川が見えてくる。
左側を見ると、釣り人や遡上する鮭が見える。
国道118号の交差点のところには、案内係の人が立っていて誘導してくれる。
この交差点に右側にトンネルがあるが、そのトンネルの上に、御城が建っている。
その昔、山方氏がこの地を治めていたころの城を復元したものだ。
もし、信号で止められたら、右側の丘の上の城を探してみてほしい。

交差点を過ぎると、まっすぐな坂道が始まる。
係の人に5%くらいはありますよねと聞いたら、2~3%しかないよと答えてくれた。
走ってみればわかるが、そんなはずはない。
この坂では、ほとんどの人がインナーでかなり軽いギアを使っている。
なかには、ヨレヨレの状態になりながら根性で走っている人も。
ほとんどがこの坂で速度が落ちてしまうのだ。
初めての人は、この坂がいったい何パーセントあるのか楽しみにしてほしい。


やっと坂が緩やかになり、パークアルカディアを過ぎて、ぶどう園などが現れ、ちょっとすると、左側に公園が見えてくる。

そこがチェックポイントだ。
チェックポイントには、
バナナ、味噌まんじゅう、ポカリスエット、水が置いてある。
このうち味噌まんじゅうがこのチェックポイントの名物なのだ。
実は、御前山の赤い橋のところに御前山まんじゅうというがあり、できたてのホカホカのまんじゅうが届けられるのだ。
疲れて糖分不足の体には、なんとも嬉しい。
ただし、一人1個限定のような気がした。
食べ過ぎないようにお願いしたい。


この公園の近くに陰陽神社という水戸黄門が建てた神社がある。もし、暇があるなら見学してみてはどうだろうか。
見学すべきは、狛犬と2つの岩である。夫婦円満の神社と言われている。
ただし、かなり長い階段があるのでビンディングだと滑るかもしれない。

このチェックポイントを出ると、まだ坂道が続く。
この坂道を上りきると、細かい下りと上りが続く。
ここが事故になりやすい場所なので、要注意だ。頂上手前で、誘導係の人がいて、下りで細いので減速してくださいと声をかけてくれる。
ここは、しっかり減速してほしい。

まず、道路が細い。たぶん、1・5車線くらい。しかも、対向車もやってくる。対向車は地元が多いがふだんあまり車などが通らない道なので、こちらから自転車がビュンビュン下りてくるとは考えていない。そんな道を飛ばして下ったらどんなことが起こるかおわかりいただけるだろう。
下りの坂道で細くかなり細かにカーブしているので、対向車線に飛び出してしまうことがあるし、逆に崖のほうのガードレールに激突してしまうこともありうる。
十分に減速してほしい。
ちなみに、私は目撃していないが、事故を起こして救急車で運ばれた人がいると聞いたことがある。
何年か前も事故の話を聞いたことがある。
下ったらすぐにぐねぐねの上りがある。長い下りではない。
このぐねぐねの細い道を過ぎて、頂上かなと思ったら、すぐに、90度以上の急激な左折ポイントがある。下りだと思って速度を出してはいけない。ヘアピンカーブ的な左折なので速度を出すと膨らみすぎてしまう。

誘導員が旗を振ってくれ、減速して、左へ大きく曲がりますと声をかけてくれるので、心配ないと思うが膨らまないようにしてほしい。

この左折ポイントを過ぎると、ほぼ下りの緩やかな田舎道で片側1車線で、車もあまり走らないので、快調に飛ばせるはずだ。
しばらく走ると、旧玉川村の集落に入る。

ここを過ぎて、国道にぶつかる。交差点を渡るとコンビニエンスストアが現れる。
ここで、休憩を取る人も多い。なぜかといえば、スタート地点からここまで売店がないからだ。
このコンビニを過ぎると、緩やかな坂をゆっくりと上ることになる。

坂を上り、下ると、また集落に入る。
集落を過ぎると再び別の国道に突き当たり、右折することになる。
国道なので、それなりに自動車も走っているが、めちゃくちゃに多いというわけではないので、ここも走りやすいと思う。
ちょっと走ると、右側にカーブしながら下ることになり、その後、御前山の集落に入る。

御前山の集落に入る前に、左側の那珂川と赤い橋と山を眺めていただきたい。
ここの風景は、地元では関東の嵐山と呼ばれているところなのだ。

赤い橋のところの交差点の右側の商店は、さきほど食べた味噌まんじゅうのお店である。
もし、余裕があったら、お店に寄って味噌まんじゅうを買い食いするとよいだろう。
店主はきっと喜んでくれるだろう。

この交差点を過ぎてからは更に国道を走る。
途中でコンビニが2軒ある。
ここがコマネギ峠前の最終のコンビニ店だ。
この後は、たぶんゴールまでコンビニ店はない。売店もない。
補給が必要ならここで補給してほしい。

国道沿いに走ると、那珂川が左に見えてくる。
那珂川の流れを楽しんでほしい。


しばらくすると、左折して那珂川を渡る。
この付近にも、秋には鮭が遡上してくる。
そのため、鳶が何羽も上空を旋回していることがある。
ときどき、空も見ていただきたい。
間近に、鳶が舞っているのを目撃することができるかもしれない。

川を渡ると、T字路になるので、右折する。
そして、次は、左折するところが現れる。
例年この左折ポイントには案内、誘導係がおらず、看板のみであるので、注意してほしい。前に人が走っていれば迷うことはないが、うっかりすると過ぎてしまうかもしれない。

左折すると短いけれども急な坂が待っている。
たぶん10%を超えているだろう。
蛇行する人もいるし、自転車を降りてしまう人もいる。
歩くくらいの速度でのろのろと上ることになる。
道幅も広くないので、蛇行する人もいるので、もし追い越すときは、必ず「右いきます」「追い越します」とか声をかけた方がよいだろう。速度が出ていないのでぶつかっても大したことはない。

この急激な坂を過ぎると、右側にダムとダム湖が見えてくる。農業用のダムだ。

また、ゆっくりとした上りが始まる。
この付近になると、ほとんど人がばらけてしまい、集団のようなものはない。
2、3人くらいで固まりになっているくらいだろう。
まあ、あるのかもしれないが、高速で走る集団は私が走る頃にはもういない。


このダム湖からずっと自然の林の中を走ることになる。
車は滅多に来ない。
騒音もなく、聴こえてくるのは風と風にそよぐ草木の音だけである。
ハーフセンチュリーの頃は、紅葉の季節である。
その年によって異なるが、紅葉が楽しめる。


この道はコマネギ峠への道だ。
だんだんと傾斜がきつくなる。
道路は舗装はされているが林道的な感じだ。車線はない。
左右にうねうねと曲がりくねるようになる。


何度も右へ左へとカーブを曲がる。
今度こそ、最後のカーブだろう、頑張ろうと言い聞かせながらペダルを漕ぐ。
しかし、
そんな期待は裏切られることだろう。



数えたことはないが、相当の数のカーブがあるはずだ。
最後の頃に「もうすぐ頂上」?的な親切な看板が出ている。
しかし、
「もうすぐ」とはいったい何個のカーブをさすのだろうか。
いったいどのくらいの距離をさすのだろうか。
私の友人など、この看板のおかげで心が折れたとわけのわからないことを言っている。
坂の途中で不貞腐れながら、タバコを吸って休憩しているオヤジがいたら、それは私の友人である。ほぼ毎年、坂の途中でタバコ休憩をとっているらしい。見かけたら、やあやあと一言かけてあげてください。

峠の頂上は、感動?ものだ。
やっとの思いで上りきったという充実感で、感動ものなのだが、このコマネギ峠は残念なことに眺望がまったく開けていない。
うっかりすると、ここが頂上なのかと思う間に過ぎてしまう。
峠マニアの方は、十分に気をつけてほしい。
しっかりと記念写真を撮りたいのだが、どこが写真撮影のポイントなのか分からない場所なのだ。

峠を過ぎると、路面が悪いところが続く。
落ち葉が濡れていたりするので、注意が必要だ。
途中、右側に牛舎だか豚舎だかある。
たぶん強烈な匂いで気づくだろう。

ずっと下りが続く。
里山の農村地帯が続く。
左右に田畑が広がり、その後ろに山林が、そして、ところどころに民家が見える。
典型的な日本の里山の農村風景だ。

しばらく走ると
那珂川を渡る。
左側の風景がなんとなくお気に入りなので、いつも写真を撮っている。
橋を渡ると、右折する。
係の人がいて誘導してくれるので従ってほしい。ここの交差点は意外に車が多い。



県道を走る。あまりアッダウンがない。自動車も多くはない。
しばらくすると誘導の人が見えてくる。
その人が左折だと指示してくれたら、もうすぐゴールだ。

ただし、左折すると20mくらいの標高の坂が待っている。意外にきつい。
もうすぐゴールだというのに、こんな坂がと思うだろう。

それを上りきり、しばらく直線を走ると左折、もうすぐゴールだ。

笑顔で走ろう。

ゴール前では係の人がお疲れさまと声をかけてくれる。



ゆっくりと走っても、午後1時頃にはゴールできるだろう。

せっかくなので、久慈川、那珂川、里山の紅葉や空気を楽しんでください。

ゴールした後に、汗を流したい人は、近くの風呂へどうぞ。
静神社の近くに風呂があります。




















二孝女物語~常陸太田市の青蓮寺

2013-09-08 06:35:50 | 自転車
久慈川サイクリングロードの上流に山田川があり、終点からおよそ1km手前の沈下橋を渡ると、青蓮寺がある。



たまたま、ご住職がおられたので、お話しをうかがうことができました。
ここには、二孝女物語があります。
旅の途中で倒れた父親を尋ねて1200kmもの旅をした二人の娘の物語です。



娘さんたちは周囲の人が止めるのもきかず、しかもほとんどお金を持たずに旅に出たそうです。
途中、娘さんたちから話を聞いた人たちが、次から次へと人を紹介してくれて、常陸太田市までたどり着くことができたということです。
そんなことがあるのか信じられない幸運が連なっていて、まるで、映画に出てきそうな話です。
それにしても、見ず知らずの娘たちをやさしく援助してあげる、そういう時代があったのですね。

山田小学校のホームページから引用します。

「これは,今から200年も昔の江戸時代の話です。
豊後国(ぶんごのくに)臼杵藩(うすきはん)野津郷(のつのごう)泊村(とまりむら)(現大分県臼杵市野津町)の川野初衛門(かわのはつえもん)は,お寺参りの旅に出たまま7年も行方知れずになっていました。

 実は,初衛門は旅の途中に東連寺村(とうれんじむら)(現常陸太田市東連地町)の青蓮寺(しょうれんじ)にたどり着いた時,病が重くなり歩くことができなくなってしまい,青蓮寺や地域の人たちが世話をしてくれていたのです。

 そのような時,京都の西本願寺で青蓮寺の住職と豊後の善正寺(ぜんしょうじ)の住職が会って,初衛門が生きていることが分かりました。その話を聞いた初衛門の娘(ツユ22歳,トキ19歳)は,遠く300里(約1200キロメートル)離れた青蓮寺までお父さんを迎えに旅に出ました。

 旅に出ると言っても,現在の旅行とは違い,船や歩いて2か月かけての旅です。まして,若い女性が2人なので命がけの旅でした。この姉妹に心を動かされた地域の人々だけでなく,水戸藩なども支援してくれました。そして,次の年の春に,無事にふるさと豊後国へ親子3人で帰りました。」



この話しが史実とわかったのは、平成17年でした。
それまで住職がいない寺で荒れていました。
父親から説得されて、この寺の住職を引き受けようか悩むご住職が寺を家族と訪ねました。
境内は雑草が繁茂し、荒れ放題でした。
寺に着くと、地元のご老人たちが涙を流しながら、ご住職たちの手を握りしめ、歓迎してくれたそうです。
田舎の寺に住むことに抵抗があった奥様の気持ちが変わった瞬間だとご住職はお話ししてくれました。
このような偶然からこの寺に住むことになったご住職を、これも偶然ですが、郷土史の研究家が訪ねてきます。
古文書の中に出ていたわずかな断片のような情報だったそうです。
これを聞いてご住職は、寺に残っていた古文書などを探しました。
そして、ついに、当時の手紙を発見し、この話しが本当にあったことが確認されたのでした。



この物語の発掘もいくつかの幸運が重なっていたのでした。

古地図から見た水戸城

2013-09-04 09:08:13 | 自転車
先日、某所にて、古地図と折りたたみ自転車を利用して、水戸の城下町としての魅力を再発見してみようというお話をさせていただく機会があったので、そのときの骨子をのせます。
古地図があると、ずいぶんと面白い発見があるということと歴史ポタリングに自転車が役立つというのが骨子なのですが、かなり長文になっています。


折りたたみ自転車は、歴史散歩に最適です。
同じ自転車でも、ロードバイクなどでは、なぜかゆっくり走る気になれません。
ロードバイクは走りを楽しむものなのです。したがって、走るよりも観光に力点を置きたいなら、折りたたみ自転車はいいと思います。
たとえば、遠い観光地でも、折りたたみ自転車を車の後ろに積んでいき、現地に着いたら折りたたみ自転車で、ゆっくりと走り、気になったところで自転車を下りて、史跡を訪ねる。徒歩の観光では歩く範囲が限られてしまいますが、自転車なら楽に観光地を回ることができます。




では、水戸のお話です。
日本の都市の多くは、近世(およそ安土桃山時代~江戸時代位)に形成された城下町や在郷町等の都市の構造を基盤としています。
水戸もそうです。昭和20年の空襲で昔の建物はほとんど焼けてしまい、江戸時代よりも以前の建築物はほとんどありません。しかし、建築物ではなくとも、城下町には変わらずに残っているものもあります。
古地図と現在の地形図や航空写真とを比較すると、地形、道、水路、区画割が残っていることがわかります。それらを手がかりに水戸の城下町を想像してみようと思うのです。

つくば市の国土地理院の地図と測量の科学館で見つけた水戸周辺の地図



水戸の古地図。水堀にご注目


昔の人は、どうして水戸の台地に城を造ったのでしょうか?
城がどんなものかというと、①敵に攻め込まれた際の防衛拠点、②戦闘の拠点、食料、武器、資金の集積場所、③指揮官の居所、政治、情報の拠点の機能を持ちます。近世以前には防衛のために山地に建築されることも多かったのですが、軍事技術や職業的武士の成立などがあり、近世以降は街道や河川などの交通や産業の要所をおさえるべく平地に造られることが多くなりました。

自然の地形からも水戸は北に那珂川、南に千波湖、東西に長い台地で防衛に適しています。
また、物流などからはどうかというと、江戸街道、岩城街道(陸前街道)、磐城棚倉街道、茂木街道、結城街道がありますし、昔の物流は河川運行が主で、那珂川が重要であったことなどを考慮して水戸に城を構えたことが見えてきます。那珂湊は今は当時の面影はありませんが、江戸時代はものすごく活気のある街でした。ちょっとたとえが大きすぎるかもしれませんが、現代で言うと、横浜や神戸のように物流の拠点だったのです。

次に、城下町の配置(現在で言えば都市計画)について考えてみます。
城の基本的な目的は、防衛ですから城を中心に防衛のため区割りをしていくのが城下町の基本です。つまり、城→重臣屋敷→一般武家屋敷→町人屋敷→社寺となるわけです。一般には城を中心に同心円状に広がっていくのですが、水戸の場合は舌状台地でしたので、東西に広がりました。水戸の場合は、北に那珂川、南に千波湖がある舌状台地ですから、円形には広がりません。横に広がるイメージです。水戸の上市と下市という双子的性格の街が出来上がった原因はこのようなことにあります。

平成12年頃に茨城大学と水戸の観光協会が作成した水戸城下町の地図。現代と江戸時代を重ね合わせているところが面白い。


あまり気づかないかもしれませんが、ある地域に水戸の社寺が集まっているところがあります。
なぜ集まっているのか、理由は城下町の街作りにあります。
お寺が街の外に配置されるというのは、宗教的には死と関連する場所であるからかもしれませんが、城下町作りの観点からは、別の理由があります。
昔は、社寺が大きな建物であり、戦闘をするときの拠点となり得たからです。
お寺が戦闘の場所になり、焼き払われるということが歴史には多くありましたが、理由は兵士がそこに立てこもったりして攻防が行われるからです。
ぜひ、社寺の固まりがあるところを水戸の地図で確認しておいてください。

では、防衛のための工夫ですが、地図からわかりやすいのは道路です。
城下町では敵が真っすぐ侵入しては困るので、食い違い、かぎ型道路、T字路、遠見遮断が設けられています。現在では三の丸、二の丸、本丸くらいしか残っていませんが、古地図からはそれらあったことがわかります。

このほか、水戸は西側から侵入される危険があるので防衛のため西側に5重の堀とそれ以外に城を囲むように水堀が造られました。
今は無いですが気象台のところ、大工町のところに南北に走る大きな堀がありました。

水戸の古地図ですが、実は昔のものはありません。
せいぜい江戸時代以降のものしか見当たりません。
図書館や博物館などでコピーをしてきました。
正保、嘉永、明治の各地図を見ていきます。
ちなみに現在の三の丸ホテルが建っている場所は、江戸時代には水堀でした。現在の駅南のほとんどは江戸時代に千波湖でした。現在は、水戸城の水堀はどこにも見当たりません。もし、水堀が残っていたら、風情があったろうなと想像することがあります。

明治42年の地図を見ると、銀杏坂の下あたりから千波湖を横断する渡し船があった旨記載があります。これは地図で発見したことで、驚きです。この頃には、すでに常磐線、水郡線が走っていました。しかし、現在の青柳のあたりですが、まだ船の渡しが行われており、川に橋がかけられていませんでした。

水戸城はどんな感じだったのでしょうか。現存する建物はありません。
明治の頃に新政府軍により水戸城の実測図が造られました。
これをもとに、CGで水戸城を再現したものがあります。
これによると現在の水戸三高、附属小学校がお城の中心でした。そこに天守閣はありませんが、三階櫓がありました。外見は3階ですが実際には5階建てという奇妙な構造になっているのは、武家諸法度への配慮です。

水戸城の歴史ですが明治元年に弘道館の戦いがあり、また、その後不平士族による放火があり、城の建物が焼けました。それでも三階櫓は残ったのですが、昭和20年の空襲で焼失しました。残念なことに空襲などのために、水戸には江戸時代からの古い建物はほとんど残っておらず、現在は、弘道館、薬医門、それに土塁や堀くらいです。現在からは想像できないかもしれませんが、江戸時代には水戸にはかなり立派な城下町がありました。

三の丸小学校の通り。白壁が歴史を感じさせます。


弘道館の正面


街歩きの際に、古地図をもとに水戸の城下町がどんな感じであったのかを思い浮かべて楽しんでいただければ幸いです。

ところで、水戸の歴史を見るためには、水戸の歴史をほぼ徳川の歴史と考えて、頼房,光圀,斉昭の3人を中心に押さえて見ていくとわかりやすいと思います。加えて可能なら大日本史からの思想(水戸学)を押さえるとよいと思います。


初代 頼房公の像


2代目 水戸黄門御一行の銅像


9代目 斉昭公の銅像


歴史の流れの中でものをとらえる習慣を身につけることをお勧めします。
これによって自分の視点が相対化していき、物事が立体的に見えてきます。
歴史的なことがわかっていると今までに気がつかなかった物が立体的に見えてくることがあります。ちょっと昔にマジカルアイという立体視の本がありましたが、平面で模様しかないはずなのに見え方のコツがつかめると、不思議なことに立体が浮かび上がってくる。あれによく似ていると思います。

最近感じるのは、我々はいったい何者であるのかということです。水戸人に対してお前は何者かと問うて答えられるでしょうか。おそらくないでしょう。
水戸の街と人にも魅力があるはずですが、気がつきません。これは見ても見えない状態です。これを見えるようにする学びが必要です。
歴史についてのリテラシー教育が必要ですが、水戸の歴史について物語化する作業が必要です。
私たちが物語として消化するためには、水戸学とは何かという問いに向き合う必要があると思います。私たちは水戸学から何を学ぶのか、水戸の歴史から何を受け継ぐのか、この問いを皆さんとずっと考えていきたいと思います。