ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

天狗党を追う~下諏訪から大垣

2012-12-24 07:37:04 | 自転車
この日は下諏訪から大垣まで移動することにした。
下諏訪から飯田までは輪行。
飯田から下清内路峠越え、妻籠、馬籠、中津川へ自転車で。
中津川から大垣は輪行。
どうしても日程的な制限があるので、このようなスケジュールにせざるを得なかった。

下諏訪神社秋ノ宮の近くのホテルに宿泊した。
5時すぎに起床し,ホテルを出ると外はまだ真っ暗だった。
ライトをつけて駅に向かって走り出すと,神社のほうから太鼓の音が聞こえてきた。
神主さんたちは早朝にもかかわらず儀式を行っているのだ。
昔,お寺のお坊さんに話を聞いたことがあったが,世界の平和を祈念しているのだという。
神社の森から聞こえた音で,とてもすがすがしい気持ちになった。

その後,下諏訪駅に向かった。
下諏訪駅について,自転車を輪行袋に入れた。
駅舎の階段を上り,反対側のホームに移動したが,自転車の重さを感じた。
肩にかけるベルトの部分が食い込む感じで長い距離を持ち運ぶことはとてもできない。
ちょっとかついで歩いては下ろしての繰り返しでやっとホームにたどり着いた。
自転車の輪行袋を担いでいるのを見て,「あれは自転車の輪行をしているんだ」と話している青年がいた。
もしかしたら,自転車乗りなのかもしれないが,離れていたので話しかけることもなく終わってしまった。
下諏訪駅では,それほど多くの人は乗らなかったが,その後,時間が7時を過ぎるにつれてどんどんと高校生が乗り込んできた。
満員電車になった。
高校生たちは,それぞれテキストを見ながらぶつぶつとつぶやいたり,マーカーを引いたところを隠しては何度も見ていた。
どうも,テストが近いらしい。
懐かしい気分になった。

輪行中の車窓から見た風景。天狗勢もこの風景を見ながら南下していった。


輪行袋を置く場所。
電車に乗る前に、駅員さんに自転車を置けそうな場所を聞いていた。この写真は高校生が全員下車してから撮影したもの。
かなりの時間、通学のための高校生で車内は混雑をしていた。


飯田駅前。
実は、自転車を組み立てて走り出そうとしたらギアがもっとも重いところに入っていたため、こぎ出しでこけて恥ずかしい思いをした。


清内路峠へ向かう道。坂道が続く。


途中で上ってきた道を振り返って撮影をした。傾斜がわかる。


谷間の先の方を撮影した。だんだんと谷が深くなっていく。
民家は傾斜地にある。平地はほとんどない。


清内路の中学校の校舎。鉄筋コンクリートで立派。


清内路の旧道。


清内路峠近くの石碑。
ここまでの傾斜はきつい。途中で何度も下りてしまった。
自動車がエンジン音をうならせがなら上っていく。
天狗勢はやっとここまで上ってきて、ここで陣形を整えて峠を越えたらしい。


清内路トンネル
この右側に旧ルートがあるが、閉鎖されていて、自転車では通行できない。
やむをえず、この新しいトンネルを通ることにした。
たまたまトンネルでは追い越されなかったが、自動車の音が反響してものすごい音で迫ってくるので、恐怖を感じる。


トンネルをくぐると、えんえんと下る。
これまで稼いだ標高を使いながら、妻籠へ向かう。
こんなに下るのかと何度も思ってしまった。
途中で、左側に見えた集落を撮影した。


体が冷えたので、途中で休憩し、近くの山を撮影。


妻籠へ到着。自転車を押しながら歩いた。
午後3時を過ぎていたので、観光客はそれほど多くなかった。


ふと、上を見上げると真っ赤にもえた紅葉を発見。
ものすごく美しかったので、しばし見とれていた。
それを見ていた観光客が同じように上を見上げ、きれいねと感嘆していた。


妻籠宿の本陣跡
天狗勢が宿泊した。


展示されていた銃。
天狗勢のころもこのような銃を使用していたのだろう。
どのくらいの射程距離があるのかなどを調べたいと思った。


ふたたび紅葉の樹木を撮影。
ほんとうに美しかった。


馬籠峠の途中にあった中山道の道。
この道を天狗勢が通ったのかと想像した。


中山道。石畳の道。


馬籠峠の頂上。
妻籠から馬籠峠へもきつい坂だった。
なんどか、下りて自転車を押した。


馬籠。
ほとんど夕暮れの時間帯だった。


馬籠本陣跡。
藤村記念館。


馬籠宿をくだる。
正面は恵那山。


馬籠宿を出るときには日が落ちていた。
暗くなった中をライトを点灯しながら坂を下った。


中津川駅。


名古屋へ向かう電車の中。



自転車旅行~一日の走行距離

2012-12-20 08:39:32 | 自転車
天狗党を追う旅をするまで、自転車で複数日にわたる旅はしたことがなかった。
一日の旅とかロングライドのイベントへの参加は結構こなして、一日に230km走ったこともあり、巡航時速30キロで走ればまあ160kmなら軽くいけるだろうと考えていた。今年はそれなりに走っていたので自信があった。
しかし、よく考えてみたら、使用するのがクロスバイクで搭載する荷物が多く、ほとんど荷物を積まずに走るロードバイクとはまったく違う。
そこで、念のため、試験的に11月初旬に茨城県北部の里山を走るハーフセンチュリーに荷物を搭載したクロスバイクで出場してみたが、やはりロードバイクの走りとは違う。あっという間にロードバイクに引き離され、ノロノロと一人旅をせざるを得なかった。
こんなはずはない。もっと走れるはずだと頑張ったがやはり走れない。この体験を踏まえて、当初、一日150kmくらいは楽勝と甘く考えていた計画を変更せざるを得なかった。
では、どのくらいが適当かというと、道中、峠があり、適当に立ち寄り観光したり写真を撮りながらだとすると1時間に10kmくらいのペースで考えたほうがよいのではないかというのが結論である。
晩秋だと朝9時から午後4時頃までの7時間が安全に走れる時間帯だろう。こう考えると70kmくらいがいい感じである。
今回の旅では峠越えがあったので平地の巡航速度は20km以上30kmくらい、下りは相当な速度を出しており、ノロノロと走ってはいない。それでも平均一日80~100kmくらいであった。
どこかで標高200mにつき1時間を考えると無理がない計画が立てられると読んだ記憶がある。今回は1000から1500mの峠越えをしているので4時間くらいは余計にかかる計算だった。
実際に、クロスバイクに荷物を積んで走ってみて振り返ると、標高200mを上るにつき1時間はなかなか実践的なアドバイスだなと思う。
今回の旅程で、樽見から越前大野の温見へは当初は大垣から越前大野までを考えていた。しかし、前日に、ちょっと無茶かもしれないと考え直した。
それで、出発地点を樽見に変更し、大垣駅からの電車の時刻を一本前倒しにした。
結果的にこれは正解だった。もし、当初の予定通りだったら峠越えは午後3時か下手すると4時頃になっていただろう。そうなれば、あの温見峠の急峻で荒れた細い道を温度は零度を下回る頃に下ることになる。今から振り返り想像するとゾッとする。危険極まりない無謀な旅行になるところだった。
今回の旅は、自転車で史跡を回りながら峠越えをする上で有益だった。
もし、同じような自転車旅を考えておられる方がおられたら参考になれば幸いである。




天狗党を追う~和田峠の闘い

2012-12-15 10:43:21 | 自転車
和田峠を下ると,途中で新道にぶつかる。
新道を下る途中の右側に西餅屋村跡がある。これは新道を少し入ったところで中山道の道である。天狗勢はこの道を下ってきた。


西餅屋の茶屋の跡。
ここには4軒の建物があったらしい。
天狗勢が着いたときには,松本藩や高島藩によりこのあたりは焼き払われていた。


西餅屋をさらに下ると樋橋村に入る。
この村は諏訪への下りの途中にある。
高島藩と松本藩は,樋橋村の端にある山の神の森といわれるあたりに陣を構えた。
当初,松本藩は東餅屋村で天狗勢を迎え撃とうと考えていたが,高島藩からの熱心な説得によりこの地で共同戦線をはったのだ。
彼らにはおよそ1000名の兵がおり,天狗勢とほぼ同数であった。
この地に,天狗勢からの攻撃から身を守るために木を切り倒し,土を盛り,障壁を作ったようである。
峠からの下り道は幅が狭く,少人数でしかおりてこられないので,そこを狙い撃ちにしようと考えたのだ。
峠を下ってきた天狗勢側から見ると,谷間の細い道を下っていき,少し広くなったと思ったところに高島藩,松本藩が陣地を設けて身を隠しながら狙い撃ちしてくると見えたろう。
この案内板は,激戦が行われた場所の入り口付近に立っていた。


戦死者を弔うための石碑。


和田峠での戦いの100年記念の碑。


奥に立てられていた浪人塚の碑と案内板


この戦闘で死亡した天狗勢の3名の塚と石碑。
天狗勢の死者は7名,負傷者は多数であった。
松本藩の戦死者は5名,高島藩は6名。


塚と石碑の全体。
塚と石碑は,松本藩,高島藩が陣を構えた場所の天狗勢(山から下ってくる)に対して左側にある。
この塚の後ろに傾斜地があるが,傾斜地はずっと上まで続いている。後に述べるように天狗勢はこの傾斜地の上を気づかれないように迂回して攻撃をした。


松本藩,高島藩の陣地から見た天狗勢が下ってきた道。
現在は,自動車が通れるように拡幅されているが,当時は細い道であったろう。
その谷間の道を歩いてくる天狗勢を狙い撃ちしようとした。


下ってきた道へ近づいてみた。


下ってきた道へさらに近づいてみた。


戦闘は午後3時頃に始まり,膠着状態となった。
西日が松本藩,高島藩の向こうに落ちて,天狗勢からは狙いが定まらなくなった。
軍師山国兵部は,このままでは勝利できないと考え,作戦を立て直した。
松本藩,高島藩の陣の両側にある山を迂回させて挟み撃ちにする作戦である。
そのため,気づかれないように,正面からの攻撃をはげしくさせ,両側に迂回させた。
迂回した軍勢は,沢を渡り,急傾斜地をのぼり,左右後方付近に回り込むことに成功した。
ほぼ3方向から挟み撃ちにされた松本藩,高島藩の軍勢は総崩れになった。
松本藩,高島藩は,ここに陣を築くときに左右の山が急峻であることから天狗勢が左右から回り込むことは予想せず,正面から攻撃することだけを考えていたのだ。
この写真は,松本藩,高島藩からすると左側の山の斜面の一部を撮影したもの。


この写真は,松本藩,高島藩からすると右の山の斜面の一部を撮影したもの。ここも傾斜がある。この後ろをそっと迂回して天狗勢は攻撃を仕掛けてきた。


樋橋村のはずれから,戦闘のあった地域を遠めに撮影したもの。真ん中に白い建物が建っているが,その左側のあたりが戦闘のあった地域。
両側が急峻な山に囲まれた谷あいの土地であることがわかる。
天狗勢は正面の細い道を強行突破しようとしているように見せかけ,注意を正面に引きつけて,両側から回り込んで奇襲攻撃を加えたのである。


下仁田で戦闘があったのは,11月16日であり,和田峠で戦闘があったのは11月20日のことであった。
わずか4日間の間に,休む間もなく峠を越えて行軍し,2度の戦闘をしたのだ。
下仁田戦争での軍師山国兵部の戦術と和田峠の戦術は共通していることがわかった。
いずれも,両翼を突く奇襲攻撃で勝利を手にしている。
奇襲攻撃が成功したのは,戦闘が行われる土地について地元民の話を聞き,相手が予想もしない山などの地形を利用して奇襲したことにある。




天狗党を追う~和田峠上り

2012-12-14 06:15:17 | 自転車
今日は望月宿、芦田、笠取峠、長久保、和田宿、東餅屋、和田峠、樋橋村、下諏訪本陣、歴史民俗資料館、下社秋宮を回った。

約80キロだが、上りがこたえた。笠取峠はそうでもなかったが、和田峠はきつい。
それゆえ、峠の下を通り抜ける有料のトンネルが掘られて、ほとんどの車はそちらを利用している。
トンネルは面白くないし、怖いので走りたくないので、和田峠の上りはもちろん旧道を通った。
笠取峠はそれほど標高がないのでほぼ真っ直ぐな坂道だったが和田峠は日光いろは坂のようにくねくねしながら高度をあげていくタイプの峠道だ。
くねくね峠道は、カーブを曲がるのが面白い。カーブを曲がると何があるのか楽しみなのだ。しかし、きつい上りで何度も繰り返しカーブを曲がりながら上るとその面白さを苦痛が上回り始める。斜度は10%や12%の標識が出ていた。
一時間も上っていると、頂上はまだか、あとどのくらいだろう、あのカーブで上りは終わりかなと自問するようになる。
何度カーブを曲がってもどこが頂上なの見えない。いよいよ頂上だと思い込んでそうでなかったときは、がっかりして何だか裏切られたような気持ちになったりもする。

頂上付近の林は、すべて葉が落ちている。道路には雪が微かに残っていた。
一昨日に雪が降って除雪車が出たと東餅屋の茶店の主が語ってくれた。店は11月には閉めるが、今年は中山道を歩くツアーが来るので頼まれて11月末まで店を開けているという。私はこの時期には相当珍しい客らしく、しばらく話しこんでしまった。

この峠の店を過ぎると、直ぐに和田峠のトンネルに出る。
峠の頂上なのになぜかトンネルだ。
ここのトンネルは信号で片側通行になる。

下諏訪側に抜けると、さらに寒々しい山肌が目についた。1500mもあるのことに納得した。

この旧道の下りは、路面がヒビ割れて、路肩も落ちている所があり、注意しなければならない。もちろんセンターラインはない。
正直、荒れたひどい道路だと思う。ロードバイクなら溝にタイヤをとられかねないだろう。
こんな道路なのにトラックが結構な数通っていた。
途中の水汲み場で聞いた話だと、新道の有料料金を会社が負担しないので止むを得ず通行するらしい。
車にとっても危険な道路に変わりはない。案の定、途中、道から落ちかけたトラックが乗り捨てられていた。

こんな道だから途中にコンビニがあろうはずがない。食べ物をしっかりと準備しないととんでもないことになる。
今朝、望月宿のコンビニで昼飯用にアンパンを買い、和田峠の水飲み場で食べた。昨日も、同じだった。峠越えの昼飯はそんなものだろう。


芦田宿。通りに本陣などの古い建物が残っていた。


芦田宿。


笠取峠。街道沿いに松が植えられている。江戸時代からの立派な松にしばし見とれた。植えられたのが1602年だというから,天狗勢もこの松並木の下を行軍していったはずで,その当時も相当に立派な松並木であったろう。


笠取峠。松並木についての解説。絵を見ると江戸時代の峠の様子がわかる。現在の道路と異なりかなり急な坂道であったろう。


現在の笠取峠。道路工事が行われたことの記念碑。


笠取峠を越えると下りは6%の傾斜。


坂を下ると,長久保宿。現在の道路から旧道に入ると,本陣だった建物などが残されていた。本陣の解説。


長久保宿の本陣。高札が掲げられている。当時は,このような形で住民に情報を告知した。
地面の傾斜を見ていただくとわかるが,本陣前の道路はけっこうな坂道でその両側に家が並んでいた。


長久保宿。うだつを初めて見た。家の前でウロウロしていたら,たまたま中からお使いのために外に出てきたご婦人に「中をご覧になりますか」と声をかけられた。
個人宅のために一般に公開していないのだが,「自転車でおいでになったので特別にご覧いただこうかと思いました」と。お言葉に甘えて内部を見学させていただいた。
昔のままに建物を保存するのはとても大変なことであったにちがいない。感謝の言葉を述べて別れを告げようとしたら「これから和田峠へ行くのでしたら,熊が出ますので気をつけてくださいね」と注意された。笹の藪の中に熊がいるところを見かけた人がいるとのことだった。


和田宿の本陣


和田宿の通り。白壁の倉や昔そのままの宿があり,現在も営業していることがうかがえた。


和田宿のよろずやさん。うだつも建物も立派。


和田宿を過ぎて勾配が徐々にきつくなると,いよいよ和田峠越えが始まる。現在は,峠の下にトンネルが掘られており新道はそちらを通っている。
こちらは旧道を行くことにした。途中,江戸時代の中山道もあったのだが,自転車での走破は難しそうであったので,旧道を走ることにした。
この旧道もそれほど路面の状態がいいとは思えないが,峠越えまでの間に何台かのトラックとすれ違った。
新道の有料トンネルの料金を節約するためにわざわざ峠を越えてくるらしい。
いくらほとんど交通が無い峠道であっても対向車に十分注意をしないといけない。


和田峠への道は,勾配がきつく,くねくねとうねりながら上るもので,しかも路面がひび割れている。


見上げると道路はS字に折り返していることがわかる。


途中で,休憩して上ってきた道路を探してみた。下に走るのは新道である。遠くの山を見ると,浅間山らしきものが見える。


ある程度上ると,尾根沿いに道路が走っている。尾根のあたりの木々は葉をすべて落としていた。
見上げると木々の隙間から青空が見えてスッキリとした気持ちになった。


途中の休憩所。
和田峠が大変なので,旅人に水を飲んで休んでもらおうと作られた建物。


美味しい水が飲めるので,遠くからも水をくみに来る人がいた。コーヒーや水割りに使うと美味しいと言っていた。
ボトルに水を汲んだ。たしかにまろやかな美味しい水だった。
お昼頃になったので,近くの岩の上に望月宿のコンビニで買っておいたパンを食べた。
自転車で和田峠を越える人間が珍しかったのか,この写真のおじさんから声をかけられて,内山峠や和田峠の話をした。
このおじさんは,新道ができる前からこれらの峠を越えていたらしく,その頃の大変だった思い出話をしてくれた。
話し終えて,私が先に出発するとしばらく後からおじさんのトラックが後ろから追い越していき,その瞬間に軽やかにクラクションを鳴らしてくれた。
つい,嬉しくなって大きく手を振ってサヨナラをした。
名前も知らないおじさんでほんの少しの時間を一緒に過ごしただけだったが,なんだか嬉しかった。


熊に注意せよとの立て看板。あまり目立たない。
ちなみに,こんなこともあろうかと自転車にはちいさな鈴をつけてきた。
小さな鈴は軽やかで涼しげにチリンチリンとなるが,どこまで遠くに聞こえるのか不安だった。
それで,ときおり,ベルをチーン,チーンと鳴らしながら走った。


12%の坂。ずっと坂を上っていると平衡感覚がおかしくなっていく。
上り続けて,ここはほぼフラットだと思うのにギアが軽くならない。
劇坂からほんの少しゆるくなっただけで,それが平地に見えてしまう錯覚が起こるのだ。
道路の横の斜面を見て,はじめて相当な傾斜があることに気づいたりする。


和田峠の手前800mくらいにある東餅屋の茶屋。峠の東側で餅を売っているところという意味。
江戸時代には,峠の西にも村があり,西餅屋という名前だった。


開いていたようなので中に入ったら,店主のおじいさんがにこやかに迎えてくれた。
手前のストーブが暖かかった。
お勧めの力餅とお茶をいただき,この付近の話をうかがった。遠い昔には,このあたりに5,6軒くらいの集落があったらしい。


名物力餅。
この峠付近では黒曜石やガーネットが採取されるらしく,それらの原石もお土産で売っていた。


昔,集落があった付近を撮影。いまは藪になっている。


和田峠の本当の頂上は別にあるが,ここは旧道でもっとも高い場所。トンネルは1車線のみで信号で切り換えて通行する方式。
この道路の上を交差するようにビーナスラインが走っているらしい。


トンネルを通過してから振り向いてみた。


向こうの山に見えるのがビーナスラインの道路らしい。


急な下りなので要注意。路面は悪い。ひびが入っているし,路肩が崩れているところがあり,路肩注意の看板がでていた。
荒れた路面は怖い。ゆっくりと下りるのにかぎる。ブレーキレバーをぎゅっと握りながらそろそろと下りていった。



和田峠で天狗勢を迎え討とうとしたのは松本藩と高島藩である。松本藩兵士約400名はまず和田宿に到着し、長久保宿へ進む。ところが長久保宿の者に宿が戦場になるので別の場所へ移るよう懇願され、軍議を行い、急峻な山間部で天狗勢と戦うことに決定。和田宿へ後退、和田峠の東餅屋村へ向かった。松本藩士は、ここに陣地を築く。
他方、高島藩は約400名を和田峠の手前(和田宿とは反対の下諏訪側)の樋橋村に送り、そこに陣地を築いた。和田峠を下ってくる道は細いので天狗勢を狙い撃ちにしようと考えたのだ。
高島藩は松本藩に樋橋村で一緒に戦うことを提案したが一度断られたが、熱心に説得して、最終的に樋橋村で戦うことになった。
彼らは東餅屋村を去るとき、この村が天狗勢に利用されないよう家屋を焼き払って撤退している。このとき、峠の向こう側の西餅屋村も焼かれてしまった。それが11月19日夜のことで、天狗勢は20日昼頃には東餅屋村で休息をとり、松本藩高島藩の連合軍が待ち構える樋橋村へ和田峠を下って行った。


天狗党を追う~佐久、望月宿

2012-12-11 20:23:10 | 自転車
天狗党を追う旅の2日目後半
内山峠を越えて、坂をひたすら下り,佐久、望月宿へ。この日の宿泊は明治から営業しているという古い宿屋さんでした。

内山峠を下ると右手に奇岩が見えたのでちょっと休憩をした。
下りはやはり体が冷える。
下る途中,前腕部のあたりから冷たい空気が少しずつ入り込んできて,だんだんと胸のあたりまでくる。
グローブとジャケットのわずかな隙間から入り込んでくるのだ。
ジャケットの袖口がマジックテープで風が入らないようにぎゅっと絞めることができるので試みてみた。少しは冷たい風がはいるのが防げた。


途中の公園でかわいらしい夫婦の道祖神を見かけたので寄ってみた。石の状態からすると最近に作られたもののような気がする。
2人の顔も仕草からどことなく現代を感じる。夫婦の道祖神を集落の縁に置くのは魔除けのためだと聞いたことがある。
仲むつまじい夫婦の中を邪魔するような輩がいたなら,きっと思い切り蹴飛ばされ,近寄ることができない。
このような像を集落の周縁に置くことで集落に悪しきものが近づくのを防ごうということらしい。
長野の道を走っていると集落の終わり,境界付近に道祖神が建てられていることが多く,それぞれに個性があって興味深い。
この夫婦像を見て,穏やかな気分になった。
この像のすぐ側に岩肌を削って作った神社があったが,先を急いでいることもあり,遠くから手を合わせるだけにした。






平賀宿の表示が現れた。天狗勢が通過した約160年前もこのあたりに平賀村があったのだろう。昔の道を辿りたかったのだが,残念ながらどこが江戸時代に使われていた道なのか判然としなかった。天狗勢は平賀村泊まりとなった。



昔の雰囲気を残す建物がいくつかあった。



平賀宿を過ぎて佐久市の中心部へ向かう途中,右側に雪をかぶった浅間山が見えた。佐久市内を走っているときはいつも浅間山がどこかに見えていた。
佐久市は盆地であり,山に囲まれている。大きな山があり,それが毎日見えていれば,きっと山に見守られているという気持ちになるに違いない。
佐久市内を走りながら,どうしても山が気になり,何度も,浅間山がどこにあるのかを探してしまった。
そういえば,私が住んでいる茨城はほとんどが平地でたいした山が無い。茨城の人間が山というのは,ほんのちょっと小高い林のことをさしていることが多い。
友人が茨城を訪れて案内したときに,山がある地域で生まれた友人は茨城へ来てなんだか落ち着かないのは山が見えないからだと言っていた。
生まれ育った環境を意識することはあまりないかもしれないが,無意識のうちに刻み込まれていることは間違いないように思う。




千曲川である。この川が日本海側まで流れているのだ。そして、海の水となり、いつか蒸発して雲となり、空を行き、雨となり、川となる。水はこのように永遠ともいえる循環をしている。いま目の前にある水はいったいどのくらいの時間をかけて日本海に到達するのだろう。若い頃は自然を即物的に見ていたように思う。年齢を重ねるにつれて、次第に繋がりにも気づくようになった。因縁という言葉がある。因は直接的な原因、縁は間接的な原因のことらしい。因だけではなく縁まで拡げて観ると、世界が繋がって見えてくる。現代は即物的的に原因を求める考え方が流行っているので、すぐに関係ないと言いたがる傾向がある。繋がりを断ち切った人間はどこへ行くのだろうか。
千曲川といえば島崎藤村の歌があったことが浮かんだりした。残念だがどんな歌だったか全く思い出せなかった。



野沢村付近。このあたりも天狗勢が通過しているはずだが,今ではそれらしい痕跡はない。とりあえず,地名の標識を撮影した。
内山峠を越えて,空腹感を感じたので,コンビニに立ち寄ってジェルとリポDを補給した。
リポDは糖分とカフェインとタウリンが含まれているためか飲むと2時間くらいは活力がよみがえることがわかった。
天狗勢だが,11月18日にこのあたりで昼飯をとっている。


たぶん野沢村のあたり。自信は無い。


八幡宿の手前、中込村のあたり。天狗勢が通過したらしい。
そのとき天狗勢を見物する者の中に怪しい者がいたので捕らえると偵察を命じられた小諸藩の足軽だった。彼らを縄をかけて望月宿まで連行している。


中山道の標識。ここから中山道を走ることになる。中山道を歩く人のための案内板が充実しているので有り難い。


八幡宿。古い感じの建物が残されている。


中山道の一里塚。
一里は約4kmである。なぜそうなのか走りながら突然ひらめいた。
たぶん,徒歩の人が1時間で歩ける距離なのだ。一里だと1時間,四里だと4時間と歩く場合の目安が立てやすいのだ。
尺貫法もcmで表記すると中途半端な数字になる。しかし,人を基準にすると実に合理的な計測法だといえる。
たぶん同じような発想なのだろう。


なんとなく秋の中山道の道らしさを感じた。


峠には必ず道中の安全を祈願する石仏などが置かれている。


自転車を置いて,休憩。
自転車のちょっと先のほうに左へ下る小道がある。そこが旧中山道であり,細く傾斜がある山道だった。


望月宿へ下る前に西の方を眺めてみた。午後3時を過ぎると日光に勢いがなく,晩秋の夕暮れがもうすぐ迫っていることを感じる。


望月宿の入り口の長坂橋の近くの断崖に建てられていた寺院。



天狗勢は,11月18日に望月宿に宿泊する。
望月宿は現在も古い宿の建物が何軒も通り沿いに残っており江戸時代を感じさせてくれる。
望月宿は,wikiによると
「天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人であった。」
そこへ約1000名もの天狗勢がやってきたのだから宿の手配は大変であったろう。

ここが私が宿泊した宿。


本陣跡にある資料館。残念ながら月曜日であったので休館で入れかなった。


旅籠「大和屋」の真山家は問屋も兼ね、名主だったという。


宿泊先の宿の玄関を入ったところ,明治の造りだそうで,なかなか風情がある。この日は私の他に1組の客しかいなかった。
木造三階建てで,隣部屋との仕切りは襖,廊下とは障子。プライバシーはほとんどない部屋の造りである。
暖房は石油ストーブに,電気毛布であった。



内山峠を越えて望月宿までの天狗勢は,途中で下仁田の戦闘で傷ついた者を治療したり,近くの豪農豪商から献金をさせるなどの行動を取っていた。
望月宿に入った天狗勢は,天狗勢を追う幕府軍や先に待ち構えているだろう松本藩、高島藩が夜討をかけてくるかもしれないと警戒し、篝火を焚き、見張りをたたせ、偵察を馬で四方に放ち、また各宿では襲撃に備え畳を裏返し、武具を身につけたまま寝たという。

旅館の人に天狗党の話しをすると,天狗党がこの周辺の地域の人に無理に献金をさせたためあまり水戸に対する印象が良くないのだと聞かされた。
野沢村から500両、平賀村から200両、八幡宿から200両の献金があった。
幕末の頃の1両はいくらか。
諸説有るようだが,明治大学の小野正弘教授が年代別に割り出した「幕末の貨幣価値」によると1863年当時の1両は14,800円だそうである。
天狗勢はおよそ1300万円の献金を受けたことになる。
ここで「献金」とはいうものの天狗勢から呼び出され協力を求められたときに逆らえば何をされるかわからない,献金の実質は強請りとも言える。
天狗勢の主張は尊皇攘夷であり,横浜閉港にあった。
尊皇攘夷の志が高くとも,現実に行動するには資金が必要で,そのために多くの人に迷惑をかけてしまったのだ。
話しは変わるが,発展途上国において独裁者に抵抗するゲリラ組織が富豪に献金を要求し、薬物を売り、ひどい時には誘拐して身代金を要求するなどのやり方で資金を獲得することが行われる。
そして,革命などが起こると新しい権力は美談を作り上げてしまうが、実際にはかなり酷いことが行われてしまうのだ。
歴史の転換が行われた際に,悪い権力者を弱い者が倒したのだというストーリーが語られるが,善悪と単純にものごとを単純に割り切ってしまうのはあまりに安易すぎるような気がしてならない。

天狗党を追う~内山峠越え

2012-12-10 07:12:18 | 自転車
天狗勢が下仁田を出発したのは11月16日で,現在だと12月の終わり頃になる。
下仁田の町を流れる鏑川沿いに西に向かった。
途中,銃撃されたり,橋を落とされたり,ふさがれたりしたため16日は本宿で泊まった。

下仁田を出てしばらくすると妙義方面に行く道と分岐する,天狗勢は17日早朝に本宿を出発し,およそ四里西にある内山峠へ向かった。
この道は昔,姫街道と呼ばれていた。姫街道とは,wikiによると,「本街道に峠道・川越えなどの難所、厳しい関所などの面倒があった場合に、それらを避けるための別ルートが選ばれる場合があった。また、本街道と比べると人通りが少なく、犯罪に巻き込まれる可能性が少ない・警備が楽、といった事情もあった模様である。女性旅行者がこれらの理由から選ぶ道というイメージがあったことから、それらの別ルートが「姫街道」「女街道」と呼ばれることがあった」という。


本宿にある西牧関所跡。現在は建物はなく,案内板だけがあるのみだ。下仁田の町を出てからずっと上りになる。交通量はそれほど多くはないが,トラックなども走っている。


しばらく走ると,旧道との分岐を示す標識が出ていた。もちろん,旧道を行く。旧道は鏑川沿いを上流に向かう。旧道に入ると極端に自動車の通行はなくなった。


旧道沿いに集落がある。しかし,人を見かけない。鏑川の刻んだ谷に道路が作られ,その脇に家が建てられている。平地がないのでどうしても道路沿いに縦長に集落が形成されてしまうのだろう。


最後の集落を過ぎると,傾斜する岩を削った道路がくねくねと続く。それなりに斜度はあるので,ギアを軽くしないと上れない。ハアハアと息をつきながら,ゆっくりと上っていく。


途中で,新道が見える場所に出た。ほぼ斜め上を見上げると新道が走っている。新道が上下に2本見える。新道もS字を描きながら高度を上げているのがわかる。


さらに旧道を進む。途中で鏑川の水の流れる音が左側の谷底から聞こえていた。路面は,ご覧のように荒れている。谷間から見える紅葉した木々に太陽の光があたっていて輝いていた。温度も5度ほどで,日陰だったので,深呼吸をすると落ち葉の香を含みながらも乾燥した冷たい空気が肺に届き,心地よかった。


ある程度上ると,谷が深くなり瀬音はかすかになるが,さらに上り頂上に近づくにつれて谷が浅くなり渓流となる。両側は岩とほぼ垂直に近い壁のような谷だが,上を見上げると青空と岩肌と紅葉がすっきりと見えた。
奥深い谷間で,せっせと落ち葉拾いをしていた老夫婦がいた。年は70歳くらいだろうか。なんとなく人の良さそうな感じがにじみ出ていたので,声をかけてみた。
「道路掃除されてるんですか」
「いや,肥料にするんだ」
「下仁田の方ですか?」
「そう,ネギを作っているんだ」
落ち葉を集めて,腐敗させて肥料にするらしい。
少しの時間だが,人と他愛の無い話しをすることが楽しかった。思えば,昨日から旅館の人をのぞいては会話らしい会話をしていなかった。
別に人が嫌いだというわけではなく,自転車で走っていると下りているときくらいしか人と話す機会がなく,今回,走ってきたルートに人があまりいなかったこともある。
「お元気で」と声をかけてさらに進むことにした。


また,新道が現れた。新道はなんども折り返すようにグニグニとしており,坂道をのぼるトラックやら自動車がエンジン音をあげて坂を上っていく音が聞こえてきた。
内山峠を越えようとする天狗勢を阻止しようと峠に近い村の農民は橋を落とし,大木を切って道を塞いだが,天狗勢は大木を倒して橋を架け,その上に戸板や布団を敷き,土をかけて通行できるようにしたという。


やっと新道に出た。旧道を進むつもりが道を誤り,ちょっとだけ新道を走ってしまった。新道は深い谷にいくつも橋をかけている。


途中で看板があったので,旧道の入り口がどこにあるのかがわかった。上ってきた道を下り,旧道へ入る。しかし,誰も通らないのだろう。藪になっていた。晩秋なのでそれほど草木も障害とならないと考え自転車を降りて押していくことにした。


新道にかかった橋の上からほぼ真下をのぞいたところ,ヘアピンのような形のカーブを描いている。


旧道を走る。勾配がきつい。カーブを曲がって後ろを振り返ったところ。相当にきついカーブだ。


旧道は急激に高度を上げて新道を見下ろすくらいになった。写真の真ん中にあるのは峠のドライブインで,その上にある白い物が旧道のガードレール。
カーブを曲がって旧道はこの写真の視点の位置になり,新道はほぼ真下に見える。この高さを比べてもらえると旧道がいかにひどい斜度であるかがわかる。
つい,こんなにひどい上りだったのかと感心して写真を撮ってしまった。
下仁田での戦闘で負傷した天狗勢の何名かは内山峠を越える際に絶命したというが,なるほどと納得した。


現在は,ほとんど自動車は通行しないが,昔は通行していたらしく,転落しないように呼びかける標識があった。道が細く,斜度もある急カーブなのでガードレールがないところが多いので,うっかりとカーブで曲がりきれずに転落してしまう事故が多かったのだろう。


くねくねと続く。上っていて,まだ続くのか,この上りはいつ終わるのかと何度も思ってしまった。


荒船山がみえる。まるで航空母艦のような形だ。


やっと上りきった。ここからは峰沿いに行く道になる。


まっすぐ行くと内山峠に至る。向こうから,たぶん牧場を目指す自動車が現れた。


分岐点。ここを左に下りると新道のトンネル入り口あたりに出るらしい。下りそうになって,地図を確認してまっすぐに行くことにした。


ほぼ内山峠の頂上付近から下仁田方面,高崎方面を眺めてみた。標高は1066m。
あの谷底からここまで上ってきたと思うと,達成感がわき上がってきた。
しかし,寒い。走っていないと温度が低いのですぐに体が冷えてしまう。ほぼ0度ではなかっただろうか。
ゆっくりすることもできず,写真を撮ってすぐに走り出す。


山頂付近は,木々は葉を落として丸裸で,寒々しい。
風が吹くとヒューという風を切る音がしていた。
峠の頂上付近には,荒船山へ登山をする人たちの自動車が何台も停まっていた。内山峠はここが頂上だという標識がなかった。頂上付近はフラットな道路なので最高点が分かりづらく、気付かずに通り過ぎてしまったようだ。
ところで、天狗勢は午前9時頃には峠の頂上に着いたらしい。きつい上りにもかかわらず,かなりにスピードで進軍をしていたことが分かる。大砲もあったし相当な荷物を抱えての行軍である。峠には当時無人の茶屋があり,そこで休憩し,長野側の内山村を目指したという。現在は茶屋らしいものは見当たらない。


下りは快調である。しかし,走ったことが無い道路なので路面がどのようになっているのか想像がつかない、また、自動車が上ってくる可能性もあり、道が狭いので30kmくらいでゆっくりと下りていく。
少し下ると新道に合流する。下ってきた道,内山峠方向を振り返ってみた。


新道は路面が良いので,走りやすい。ただ,トラックなどの轍の跡もわずかにあるため,気を遣いながら下る。
下りは,体力を使わないので楽なのだが,風があたり寒い。
上りでかいた汗がインナーにしみこみ,乾かないうちに冷やされていくので,寒い。
途中で,意味も無くペダルを漕いでしまった。


内山峠の長野県側のふもと。このあたりが昔の内山村だろう。
天狗勢は,内山村で昼飯をとったという。


天狗党を追う~下仁田戦争

2012-12-06 22:38:09 | 自転車
今回の天狗党を追う旅は11月18日に群馬県下仁田町から始めた。
ここは天狗勢と高崎藩兵による大きな戦闘があったので、以前からぜひ訪れてみたいと思っていたのだ。

天狗勢は西暦1864年(元治元年)10月23日に那珂湊を脱出して大子へ向かい、その後、京都の慶喜公を頼って西上の旅を始める。各地の藩と衝突を避けながら行軍し、現在の栃木県、群馬県を通過して伊那路へ向かっていた。
天狗勢が下仁田に着いたのは11月15日であり、翌16日未明から高崎藩兵と戦闘になる。
高崎藩士は36名の戦死、天狗勢は4名の戦死だが、天狗勢には深手を負った者が多く、内山峠越えで絶命した者が多いという。

天狗勢が通った峠
このような道を通って下仁田に降りてきた。


下仁田戦争の全体の地図
この地図をもとに現地を歩いてやっと全体がつかめた。



武田耕雲斎が本陣を置いた桜井家


梅沢峠
高崎藩兵が侵入した峠道、ここを下ってきた


高崎藩兵が本陣を構えた里見家
壁に当時の弾丸の痕がある。


最初はこの付近で戦闘、天狗勢側から見たもの。正面から両軍が衝突した。膠着状態となる。


軍師山国兵部は、密かに右翼と左翼に別の部隊を迂回させた。
こちらは、左に回り込んだ部隊からの視点。高崎藩本陣と西牧川を挟んだ対岸から高崎藩本陣方面を見たところ。


もう一つは右の伊勢山に登り、迂回して山上から攻撃した。
ここは登り口


伊勢山へ迂回した天狗勢は現在のふるさとセンターのあたりから高崎藩本陣を見下ろす形となる。高崎藩兵を上から狙い打ち。上から現れた軍勢を高崎藩兵は援軍がかけつけたと誤解した。
写真は高崎藩本陣を上から見たところ。真ん中にある建物が高崎藩本陣


ふるさとセンターの高台から下ったところ、この付近で高崎藩兵は天狗勢に上から撃たれた。
正面、左右の三面から攻撃されて総崩れになる。高崎藩本陣前で戦死した者が多い。
ここには高崎藩士戦死之碑が建立されている。碑文は勝海舟が書いたもの。


高崎藩兵は安導寺へ後退し、追う天狗勢とさらに戦闘。ふるさとセンターの高台から戦闘のあった安導寺方面を眺めた
遠くにガスタンクがあるがその付近が激戦地


下仁田の戦闘で高崎藩兵に右腕を斬り落とされ、足手まといになることを憂慮し自害した野村丑之助(13歳)の墓
わずか13歳の少年、今なら中学生の年頃である。
彼の辞世の歌は
「亡骸は程なく土に変わるとも魂は残りてみ国を守る」


捕虜となった高崎藩兵の切腹の地
青岩河原
橋の影が河原にかかったあたりが切腹の場所


義烈千秋の碑



国道157号福井県側

2012-12-04 21:23:28 | 自転車
国道157号の温見峠を越えると福井県側に入る。
峠の標高は1040mである。
夏などであればそれほどたいした標高ではない。
今回の自転車でのツーリングは11月下旬であったので、もうすぐ157号線が雪のために通行止めになる直前の頃だった。
ご存じのとおりこの国道は雪の季節になると4月頃まで通行止めになる。
峠の左側にある能郷白山はもう白い雪をかぶっていた。
真っ白というわけではないもの3日前くらいに雪が降った名残りがあった。

岐阜県揖斐方面から温見峠方向を目指して上ってきたのだが、ずっと遠くからも能郷白山が雪をかぶっているのが見えた。
晴天なら気分もよかったが、能郷白山方面はどんよりとした雲がかかっており、天気が荒れそうな気配もあった。
空模様は、なんとはなしに不安を感じるものだった。
近づくにつれて、雲が近づき、その雲から今にも雪が降り出しそうであった。
朝から昼頃までかけてやっとたどり着たのだから、峠の頂上に着いたときは、すごく嬉しいはずなのだが、どんよりとした天気のせいで雪が降るのではないかという思いが強かった。荒れる前に、一刻も早く大野市へ降りなければと思った。
この峠には能郷白山への登山口があった。天気さえよければ散歩したいところだが写真を撮ってさっさと下ることにした。

峠の福井県側を見たところ


福井県側のくだり。最初は緩い感じ。


ほんの最初だけ舗装がきちんとしていたが、カーブ曲がると路面が割れていた。ここは急斜面でジェットコースター気分が味わえるところ。しかし、路面のヒビが酷い。タイヤを取られると左の崖に落ちる危険性がある。
左にはガードレールがない絶壁で、本当に怖い


ずっと下ってきて峠の方向を見上げたところ。Z字型に急傾斜の道路が続く。ブレーキレバーは握りっぱなし。おかげで、ブレーキシューが激減りした。


左側は崖。本当にV字の谷。覗くと足がすくむ。


岩を削った道路。ガードレールはない。ワイルドである。


道路の左側はほぼ垂直の崖と谷


途中で谷に落ちた自動車を発見。自動車のさらに奥は急な谷。あまりに道路が狭いので落ちた自動車を引き上げることはできないのだろう。岐阜県側は警察が落ちた場所に看板を出して警告していたが岐阜県側はなかった気がする。狭いが見通しがきかない急カーブはあまりないということか、それとも崖の恐ろしさにビビって慎重な運転をする結果なのか。


ある程度下ってからの風景。紅葉した草木が見られる。急に高度が落ちるので、上の方は葉を落とした寒々しい風景だが下は紅葉が見られる。


道路は水浸し。こんな場所がけっこうあった。


福井県側に、ある程度下ると突然2車線の道路が現れた。たぶん、こちら側は紅葉を見にくる人や山登りの人がいるのだろう。概して岐阜県側よりも整備されている気がした。しかし、道路は整備されているが人が住んでいる民家はない。途中、建物は見かけたがおそらく夏から秋にかけてしか利用されていないものだろう。


途中の土砂崩れ。


いくつかトンネルがあった。工事が行われており、ダンプカーが走っているのでそれなりに注意が必要だ。


真名川ダムは紅葉がきれいだった。しかし平日なので人はいない。


ずっとダム湖の脇を下るが景色はよく路面も快適。車はときどきダンプカーが走っているくらい。


えんえんとダム湖の脇を走る。路面もよい。楽に速度が出せていい気分。


ときどきダム湖の途中で止まり、湖面を眺めてみた。


真名川ダム


やっと民家が現れた。頂上から30kmくらいあったようだ。157号線は補給するところがないのでしっかりと食べ物を持参しないととんでもないことになる。


大野市郊外を走っていたら夕日が沈むのが見えた。雲を突き抜けた光線が田んぼや集落を照らすのが美しい。

国道157号の写真

2012-12-02 13:01:30 | 自転車
峠越え、岐阜側からの前半の写真です。
この国道を走るには相当覚悟が必要です。

11月下旬。道路が閉鎖される前に157号線を自転車で走ってみました。


冬季の長期間通行止め 12月から5月頃まで
幅が狭い 3mくらいしかない
ガードレールがあまりない 
カーブが多く見通しがきかない ときどきダンプカーがくることもある
路面が荒れている 割れているところがある
水が流れている 道路の上を
車、人がほとんど通らない 走りやすいけれども落ちたら最後である
たまに砂防ダム工事の大型車とすれ違うおそれがある 怖い 
民家、店がない 助けを呼べない。補給ができない。
熊が出る 鈴を鳴らす必要がある。
携帯電話は使えない
傾斜がきつい 10%くらいのところがある
など


























国道157号の思い出

2012-12-01 23:34:03 | 自転車
国道157号線

旅から帰って、思い出にふける毎日です。

その中でもきわめつけは国道157号線です。

岐阜から福井へ抜ける国道ですが、酷道マニアに有名な道路です。
右側が急峻な谷、底までおそらく200mはあるでしょう。
底を流れる川の音さえ聞こえないし、覗いても底が見えないくらいでしたから。

この道路のすごいところは、そのような急峻な谷底まっしぐらのカーブでもガードレールがないところです。
で、まったくガードレールがないかといえば、ところどころにガードレールがありました。
これらのガードレールですが、すべてボコボコに曲がっていました。
最初は、車がぶつかったのかなと思っていたのですが、ほぼすべてのガードレールがボコボコなのです。
さらに、標高があがるにつれて一本のガードレールに曲がっているところが増えていきます。ひどいと10カ所くらいあるのです。よくみると支柱と支柱の間がすべて曲がっているものがある。

これはおかしい。異常です。
それで気づきました。
ここでは、ものすごい豪雪の重さにガードレールが耐えきれずに曲がってしまうのだと。
急斜面の道にガードレールをつけても、急斜面をずり落ちてくる雪の重みでガードレールは曲がってしまい、次第にその雪の重さに耐えきれずにガードレールは谷底へ落ちてしまうのです。
この道路では、たぶん、いくらガードレールを作っても雪の重みで谷底へ落ちてしまう。だから、ガードレールを作るのをあきらめたのでしょう。

そして、ガードレールがないのでたまに車も転落してしまうことがあるのです。
落ちたら、たぶん、命はないでしょう。

機会があれば、ぜひ、皆さんに国道157号線にチャレンジしていただきたいと思うのです。
えんえんと数も数えられないくらいに続く無限カーブの緊張もすごいものがありますが、頂上を過ぎてからの傾斜もジェットコースター気分を味わえること間違いないでしょう。

折れ曲がるガードレール


雪の重さで根元が曲がる樹々