武田神社から、要害山へ向かった。
少しずつ傾斜がきつくなってくる。
登坂の途中に、お聖堂様がある。武田信玄の二男の墓だという。生まれつき目が不自由のため仏門に入ったが、武田氏が滅ぼされるときに自害をしたという。
お聖堂様
登坂の途中で。甲府市内が見える。すっきりと晴れて気持ちがよかった。山に囲まれている。盆地というのはこういうものだというのを実感した。
登坂。いかに急勾配かがわかる。
積翠寺。
臨済宗妙心寺派行基が創建し、その後夢窓国師弟子竺峰和尚が一時衰えた寺を興し、武田家の菩提寺として再建した。
この寺は、境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていましたが、後に積翠寺と改められたという。
大永元年(1521年)11月3日、戦火を逃れて避難した信虎夫人は、この寺で信玄を出産したと伝えられている。
中に武田信玄公の像が祀られていた。
水を持たずに出かけたので喉が渇いて仕方がなかったので、和尚さんに、お許しをいただいて、水をいただいた。
脱水症状気味になっていた身体に水が染みわたる。
バケツの中にキュウリとトマトが浮いていて、蛇口から冷たい水が注がれていた。水はきらきらと輝き、とても美味しそうに見えた。
本堂の下で休んでいると、和尚さんから「信玄公の産湯の井戸が裏にあるからご覧ください」と声をかけていただいた。
裏に回り込むと、庭園があった。
信玄公の産湯に使われた井戸。寺の裏にある。庭園を過ぎてかなり奥にあった。
積翠寺を出て、さらに上がる。
要害山の表示が出ていた。
積翠寺の裏には要害山がある。永正17年(1520年)つつじがさき(武田神社のあるところ)の援護地として信虎が築城した要害城跡だ。
本丸に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もよく遺存しており、戦国武将武田氏の城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして重要であるとして、1991年3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
上り口に着いてから、わかったのだが、山頂まではとても自転車でいけるような場所にはなかった。
山城で、急峻なのだ。
しかし、せっかくここまで来て、登らないも悔しいので、にわか登山にチャレンジすることにした。
案内板。かなり本格的な山城があったことがわかる。
この城はふだん生活をするためのものではなく、敵に攻められた時に立てこもるための城であることがわかる。
自転車を降りて、徒歩で上ることにした。
細い山道が続く。
途中にあった仏像。
樹間に甲府の街を見下ろすことができた。当時を想像してみる。いったいどんな景色が広がっていただろう。
国の指定遺跡になっているので、曲輪や門跡などの看板がある。
城跡は、私のような素人には単なる山肌にしか見えないので、このような表示は有難い。
館への道などは防衛の観点から作られている。まっすぐ楽に館へ到着してもらっては防衛からは困る。そこで、いざというとき、いろいろな障害になり得るものが設けられている。
だいたい、人工物について考えるときは、意図があって作られているから、なぜ?と素朴に考えてみると自分なりに答えが見つかり、納得できることが多い。
ここは門の跡。両脇に土塁があり、真ん中を通行するが、そこに門があったらしい。
やっと山頂。ここに館があったらしい。平らになっている。
武田信玄公生誕の地の記念碑。東郷平八郎の揮毫。
水も持たずにやってきたので、またも脱水症状気味。お腹もすいてきて力が入らなくなってきた。
ちょっと見て回るくらいで、すぐに下山することにした。
下山後、要害山の案内板をみた。楽に登れそうなイメージだが、実際にはそうでもない。
要害山から甲府市内へ下る。
私は、城マニアではないのだが、要害山へ上ってみたよかったと思っている。
というのは、要害山城跡、武田神社、甲府城跡の3つを訪ねたことで、中世から近世にかけての城の変遷がなんとなく実感できた気がしたからだ。
少しずつ傾斜がきつくなってくる。
登坂の途中に、お聖堂様がある。武田信玄の二男の墓だという。生まれつき目が不自由のため仏門に入ったが、武田氏が滅ぼされるときに自害をしたという。
お聖堂様
登坂の途中で。甲府市内が見える。すっきりと晴れて気持ちがよかった。山に囲まれている。盆地というのはこういうものだというのを実感した。
登坂。いかに急勾配かがわかる。
積翠寺。
臨済宗妙心寺派行基が創建し、その後夢窓国師弟子竺峰和尚が一時衰えた寺を興し、武田家の菩提寺として再建した。
この寺は、境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていましたが、後に積翠寺と改められたという。
大永元年(1521年)11月3日、戦火を逃れて避難した信虎夫人は、この寺で信玄を出産したと伝えられている。
中に武田信玄公の像が祀られていた。
水を持たずに出かけたので喉が渇いて仕方がなかったので、和尚さんに、お許しをいただいて、水をいただいた。
脱水症状気味になっていた身体に水が染みわたる。
バケツの中にキュウリとトマトが浮いていて、蛇口から冷たい水が注がれていた。水はきらきらと輝き、とても美味しそうに見えた。
本堂の下で休んでいると、和尚さんから「信玄公の産湯の井戸が裏にあるからご覧ください」と声をかけていただいた。
裏に回り込むと、庭園があった。
信玄公の産湯に使われた井戸。寺の裏にある。庭園を過ぎてかなり奥にあった。
積翠寺を出て、さらに上がる。
要害山の表示が出ていた。
積翠寺の裏には要害山がある。永正17年(1520年)つつじがさき(武田神社のあるところ)の援護地として信虎が築城した要害城跡だ。
本丸に至る通路や枡形、曲輪、堀切、見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もよく遺存しており、戦国武将武田氏の城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして重要であるとして、1991年3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
上り口に着いてから、わかったのだが、山頂まではとても自転車でいけるような場所にはなかった。
山城で、急峻なのだ。
しかし、せっかくここまで来て、登らないも悔しいので、にわか登山にチャレンジすることにした。
案内板。かなり本格的な山城があったことがわかる。
この城はふだん生活をするためのものではなく、敵に攻められた時に立てこもるための城であることがわかる。
自転車を降りて、徒歩で上ることにした。
細い山道が続く。
途中にあった仏像。
樹間に甲府の街を見下ろすことができた。当時を想像してみる。いったいどんな景色が広がっていただろう。
国の指定遺跡になっているので、曲輪や門跡などの看板がある。
城跡は、私のような素人には単なる山肌にしか見えないので、このような表示は有難い。
館への道などは防衛の観点から作られている。まっすぐ楽に館へ到着してもらっては防衛からは困る。そこで、いざというとき、いろいろな障害になり得るものが設けられている。
だいたい、人工物について考えるときは、意図があって作られているから、なぜ?と素朴に考えてみると自分なりに答えが見つかり、納得できることが多い。
ここは門の跡。両脇に土塁があり、真ん中を通行するが、そこに門があったらしい。
やっと山頂。ここに館があったらしい。平らになっている。
武田信玄公生誕の地の記念碑。東郷平八郎の揮毫。
水も持たずにやってきたので、またも脱水症状気味。お腹もすいてきて力が入らなくなってきた。
ちょっと見て回るくらいで、すぐに下山することにした。
下山後、要害山の案内板をみた。楽に登れそうなイメージだが、実際にはそうでもない。
要害山から甲府市内へ下る。
私は、城マニアではないのだが、要害山へ上ってみたよかったと思っている。
というのは、要害山城跡、武田神社、甲府城跡の3つを訪ねたことで、中世から近世にかけての城の変遷がなんとなく実感できた気がしたからだ。
当方、城郭マニアでもなんでもありませんが、ただのお城好きとして、百名城を自転車で巡る旅をブログ上でやってみたいです♪
この旅で甲府の街は武田の街なのだと感じました。この後は、信玄公とその家族の墓を訪ねて、さらに甲府五山と呼ばれていた禅寺を訪ねてみました。武田家には京都の都へのあこがれのようなものがあったのではないかと感じました。