ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

久慈川サイクリング~

2012-10-30 20:50:29 | 自転車
茨城県にもいくつかサイクリングコースがあるが、書籍などでは筑波りんりんロードや霞ヶ浦などが取り上げられることが多い。

県北部に住むサイクリストは久慈川沿いを走ることが多い。
久慈川は茨城県の北部を流れる河川であり、明治や大正の頃はたびたび氾濫した。
もっともひどいときは500人くらいの犠牲者がでたこともあるらしい。
氾濫を抑えるために川の両側に堤防が築かれた。
この堤防上にサイクリングロードが設けられている。
太平洋に面した河口から川沿いに上流へと約20キロある。
信号もないのでスイスイ走りやすい。
休日にはサイクリストの姿をけっこう見かける。しかし、それでも混雑するほどではない。
堤防の上にあるから眺めがいい。
上流に向かうと、左側にゆっくりと蛇行しながら流れ、キラキラと輝く川面が見えることがある。
白鷺が飛び交うのを見かけることがある。少し上流に白鷺の群生地があるのだ。
右手には広々とした田圃や点在する家を見ることができる。
その奥には山が見える。
久慈川のあたりは、関東平野の北限で、この辺りから平野が終わり山が始まる。阿武隈山脈の南端である。
サイクリングコースを少し走ると右手に山が見える。大理石を採石しているあたりだ。そこの近くに真弓神社がある。八幡太郎義家が戦勝祈願をしたという。
当時の状況からすると、このあたりまでが朝廷の支配が及んでいる範囲である。これをすぎると陸奥になる。
義家も、関東平野を離れ、いよいよ、戦いの場に行くのだという気持ちになり、祈願したのではないか。
久慈川の田圃の上を吹いてくる風はどことなく草の香りがする。
秋には黄金色に染まった稲穂が風でさわさわと揺れる。
トンボもひょいひょいと飛んでいる。
空を見上げると、トンビが大きな輪を描いているのを見かけることもある。
久慈川には、ものすごい景色があるわけではない。
史跡がいくつかあるだけかもしれない。
でも、渡しにはそれで十分だ。
風は見たい人だけに見える。
見ようと心を傾ければ何かを語りだす。
何もない自然の田舎の景色が気持ちを落ち着かせてくれる。
だから飽きもせず何度も走るのだ。






水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助

2012-10-30 13:46:52 | 自転車
2012年6月8日の滋賀彦根新聞に,世田谷区の教育委員会が、世田谷区の豪徳寺にある井伊家の墓について墓所改修にともない区教委が調査を行った結果の記事が出ている。
豪徳寺にある彦根藩十三代藩主・井伊直弼の墓に、石室などの埋葬施設が地下3m以内になかったことが、区教委などの調査で明らかになった。
埋葬施設がないということは,遺体が埋葬されなかったということを意味する。
そうなると,桜田門外の変の実行犯が大老の首級を水戸へ持ち去ったという話しも現実味を帯びてくる。
大老の首級を水戸へ持ち帰ったのは,広木松之助らしい。最初から持ち帰るための準備をしていたらしいのだ。
広木は,大老の御首級を密かに水戸に持ち返り,斉昭公のお目にかけた。
それが大老であることを確認した斉昭公は,広木に大老を懇ろに供養すべきこと,死んではならないと仰せになられたという。
首級のことは秘密にされ水戸に置かれた。
一方,広木松之介はその後加賀に行き,供養のために僧となった。
後藤哲之介という者が,広木松之助から事件の話しを聞き,広木のために身代わりとなることを決意し,広木松之助を名乗る。
後藤は,広木の身代わりとして幕府に捕縛され,食を絶ち牢死した。
広木は,越後を経て鎌倉の日蓮宗上行寺に身を寄せた。
その後,広木は,桜田門外の同志が相次いで捕縛され処刑されたことのを聞き耐えがたく自刃する。
鎌倉の上行寺には,広木松之助の墓がある。
ここ妙雲寺にも広木の墓がある。






水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~井伊直弼の謎

2012-10-28 17:59:21 | 自転車
見川の妙雲寺

千波大橋を過ぎて、右折し、千波湖の南側を西に走る。
すぐ近くには県立美術館があり、傾斜した芝生の上には動物の形に刈り込まれた樹木が見える。
右手には千波湖が見える。
湖を回るようにランニングコースが設けられていて、ジョギングや散歩を楽しむ人たちがそれぞれ楽しんでいる。
湖沿いに南側を走り、しばらくすると左側に壁に囲まれ、屋根だけが瓦の城門のような建物の一部がチラッと周りの壁の上に見える。
映画「桜田門外の変」のロケセットである。
桜田門外の変は、ご存じのとおり、水戸藩を脱藩した浪士たちが雪の日に登城する大老井伊直弼を襲撃した事件である。
襲撃されたのは幕府の要人であり、この事件を契機として幕府の威信が大きく揺らぐこととなった。
経緯は吉村昭の「桜田門外の変」(上下)が詳しい。映画を見ると事件がとてもよくわかるが本も読んでおきたい。
ロケセットを過ぎると、国道6号線に出る。
道の向こうは公園である。
横断歩道はないが、信号があるので道路を横断することにした。
公園内は自動車やオートバイは通行が禁止されているが、散歩用の舗装路があるので自転車は通行ができる。
芝生が広々として気持ちがいい。
水戸あたりだと高層の建物が少ないためか空が広い。
公園にはコスモスがたくさん植えられ、風に揺れていた。
ちょうど夕方近くだったので花びらを西日が透過し透明感のある鮮やかな色で、とてもきれいだった。

公園を横切り、道路に出て、右に、上り坂になっている。
二つ目の信号を左折し、次の信号を右折して、少しで妙雲寺に着く。
妙雲寺の創建は慶長元年(1596)法雲院日道聖人が開山したのが始まりと伝えられ、延宝6年(1678)に藩命により現在地に移った。
天保14年(1843)には、徳川斉昭公が大砲鋳造のため、各寺院に梵鐘の供出を命じた。
しかし、妙雲寺はこれに応じなかったため廃寺となった。
その境内は家老の武田耕雲斎に与えられ、後に敷地の一角に妙雲寺が再興したという。

実は、ここには不思議なものがある。
桜田門外の変で襲撃された大老井伊直弼の首級がしばらくここに置かれていたという話があるのだ。
事件後すぐに大老の首級は取り戻されたはずだ。
なのになぜここに?
まるでミステリーのような話だ。
実は、事件の際、首を取られたのは大老の他にももう1人いたらしい。
彦根藩士が取り戻したのはもう一人のほうで、大老の首級は行方不明になったということなのだ。
詳しいことは他のホームページで探しいただくとよいだろう。
首級は襲撃した水戸浪士の1人広木松之介が持ち帰ったという。
そして、井伊掃部守直弼の首を祀った井伊掃部守直弼台霊塔がこの妙雲寺にあるのだ。


水戸歴史探訪サイクリング~笠原水道

2012-10-27 18:01:11 | 自転車
笠原水道は、水戸の下市の飲料水供給のために光圀公が造らせたものだ。

南町スクランブル交差点を南に走る。
すると千波大橋に出る。
千波大橋は常磐線の上に架かっている。橋の上から南西を見ると千波湖が見える。
湖というが本当は遊水池である。
しかし、千波湖の周囲には柳や樹木があり、ぐるっと回るように遊歩道が整備されている。
遊歩道を走るランナーや散歩する家族やカップルが見える。
千波大橋を渡り、文化センターの交差点を過ぎて、御茶園通りの交差点に差し掛かると、右手の浅い谷に緑地が現れる。
逆川緑地である。

水路沿いが公園として整備されているので、自転車の乗り入れができる。
少し走ると小さな子どもを連れたファミリーや犬を連れて散歩する人に出会う。

水路沿いをしばらく走ると右手に笠原水道の石碑が現れる。
水道の由来や案内図を見ることができる。案内図は塗装が剥げてしまっている。


階段の下には、水汲み場があり、何名かがペットボトル持参で水汲みをしていた。
おじいさんに話しかけると、美味しい水なので汲みに来ているという。
蛇口は龍の口にあり、龍が水を勢いよく吐きだすのを見た。なぜか龍の眼に力を感じたので写真を撮ることにした。

階段を登ると、崩壊寸前の不動尊の建物があった。
床は抜け、天井も破れていた。不動尊で、ここまで荒れた建物は初めてである。いったいどこが管理しているのだろうか。看板があり、賽銭を取るのは犯罪だと書いてあった。
寂しい気持ちになった。

さらに階段を上ると、水戸神社がある。祭神はお祓いを掌る神でこの水は祓い清める水であり、水戸の水道の守護神として崇拝されていたとのこと。
斉昭公が排仏思想から不動尊を追放して神社に変えたという。
先ほどの不動尊は追放されたものを昭和になってから付近の住民が建てたらしい。





ロングライド~磐梯熱海へのツーリングの写真

2012-10-25 07:33:03 | 自転車
常陸太田市から磐梯熱海までの写真です。
通り道で気になったものは立ち寄るようにしています。
常陸太田市から白河までは写真があります。
選んだのは,旧道です。
国道と平行して,絡み合いながら走っている道です。
今回,白河から国道4号を北上しましたが,街の印象はあまり印象はありません。
同じような風景なのです。

旧道は何となく生活や暮らしを感じるのですが、大きな国道となると大量に効率的人や物を運ぶため無機質さを感じます。
直線的で道路と民家が遠くなります。
自動車がバンバン走る国道沿いは騒音があるので,あまり民家はありません。どちらかというと商業施設,店舗や事務所などでしょう。これらは近代的な建物です。
そのためか,新しい国道であればあるほど,どこも同じような風景であり,風情がありません。
旧道は,江戸時代や明治の頃の道であることが多く,舗装されて若干幅員が広がっているもののゆるく蛇行しながら続いています。
昔の宿の中を通っています。旧家らしき建物や屋敷も目にすることも多く,100年前くらいの木造家屋がけっこう残っていたりします。
その宿らしい雰囲気を感じることができます。
自転車で走るなら旧道がいちばんだと思います。


常陸太田市の町田という集落の谷間に町田焼釜跡があります。徳川斉昭公が殖産興業のために設けたものとのこと。
財政難の水戸藩を何とかしたいと考え,いろいろな事業にチャレンジしたことがうかがえます。



常陸太田市の里美地区にある大中神社。市の指定文化財となっています。創建は,807(大同2)年らしいですが本殿が建造された時期は江戸時代中期らしいです。
このときは,氏子さんたちが境内を大掃除していました。



茨城県常陸太田市里美地区から福島県境に向かうと,明神峠があります。そこで撮影した交通案内標識です。
峠の坂を上っていくと,空が青く澄んでいました。峠を上るのは苦しいけれども,峠のてっぺんに立って空を見上げるのは,空に舞い上がれそうで,どことなくいい気分になります。


久慈川沿いにはサイクリングロードが2本あります。一つは日立市の河口から常陸太田市の山田川の途中まで,もう一つは棚倉から矢祭。
いつもは山田川のサイクリングコースを走るのですが,今回は,矢祭から塙まで久慈川沿いのコースを走ってみました。
晴天の土曜日なのに誰も走っていません。


サイクリングコースに久慈川を横断する場所があります。その橋の上から川をのぞいてみました。上流のせいか水が澄んでいます。
夏なら,下りて足を川に浸してみるのが気持ちよいでしょう。


塙の代官所跡です。ここは江戸時代に天領でした。農村は荒廃し民衆はすさんでいた時代があったようです。
寺西重次郎はそれらを救済すべく、「向ヶ岡公園」を造成したといわれ,名代官として名が残っています。
「寺西八ヵ条」は、こういったものでした。
一、天はおそろし
二、地は大切
三、父母は大事
四、子は不憫・可愛
五、夫婦むつましく
六、兄弟仲良く
七、職分を出精
八、諸人あいきょう


歴史的なものではありませんが,あまりに奇抜なものだったのでつい写真を撮ってしまいました。


都都古別神社
社伝によると、日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現し,味耜高彦根命の鉾を授けたとのこと。
日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたらしい。


棚倉城跡。
建物は現存していないようで,塁と堀が残っています。


白河へ向かう道でした。まっすぐに走っています。北海道でも走っている気分になりました。ずっと遠くに那須山脈,磐梯山が見えます。


白河の山道に迷い込んでしまいました。アップダウンがありました。下るところで9%の標識があったので撮影しました。


水戸歴史探訪サイクリング~人物

2012-10-23 21:07:25 | 自転車
水戸の街の中には、歴史的人物の像があります。

何となくそれらしい雰囲気があると思います。人物のイメージをつかむのによいと思います。

これらはいずれも自動車では行きにくい場所にあります。気づかずに通り過ぎてしまうおそれがあります。自転車で巡るのがよいと思います。

まず頼房公
水戸徳川の初代藩主。
弘道館の近くにあります。大手橋を渡った所。
何となく意思が固そうな益荒男の印象ですね。


光圀公
水戸黄門として知られています。
実は水戸のいろいろな場所に像があります。
例えば、
駅北口のペデストリアンデッキ。
助さん格さんと三人で並んでいる像があります。これはテレビのイメージのものですね。
他にも探してみてください。光圀公は本当は体が大きかったようです。
ところで、これは千波湖にあります。


斉昭公
弘道館の近くにあります。
行動的でリーダーシップを感じます。


斉昭公と慶喜公
千波湖にあります。
ちなみに、慶喜公の像も50号の交差点のところにあります。



藤田東湖
南町スクランブル交差点を南に、協同病院少し過ぎて右手にあります。


會沢正志斎
探してみましょう。街中にあります。

水戸歴史探訪サイクリング~どこをめぐるか

2012-10-22 13:07:38 | 自転車
とりあえず,1日で巡るとして考えてみました。
数が多いので、きちんと見ると回りきれないと思います。できれば何回かに分けたほうがいいでしょう。

どこをめぐるかを考える際には歴史的視点が大切です。

独断ですが,
ものすごく大雑把にいうと
水戸の歴史は水戸徳川家の歴史といえます。

そのなかでも,
頼房,光圀,斉昭の3人を押さえると,いろいろな史跡をめぐったときに理解しやすいと思います。

水戸藩主は参勤交代を行わず藩主は常に江戸にいました。
ごく稀に水戸へ来るくらいでほとんど江戸暮らしをし,なかにはまったく水戸へ来たことがない藩主もいたとか。

では,3人のお殿様についてのおおざっぱな説明をします。

頼房公は,水戸藩の基礎を固めた藩主です。
業績として備前堀を整備,殉死の禁止,東照宮の建築などがあります。
はげしい性格らしく,家康公から何が欲しいかと聞かれて天下が欲しいと言ったとか。
この時代は,やっと徳川が天下を握った時代です。武力でやっと天下を取ったけれども,いつひっくり返されるかわからない状況にあったと思います。
家康が水戸に子どもを送ったのは,北への防備のためでしょう。北に伊達という油断ならない勢力が存在しますからね。
また,もともと佐竹氏が治めていた土地を引き継いだこともあり,統治する上での苦労もあったろうと思います。

光圀公は,頼房の子で,若い頃は暴れ者でいろいろと悪さをしたようですが,史記の伯夷伝で目覚めたと言われています。
光圀公は,長男でもない自分が水戸藩を継ぐのはおかしいと考え,高松藩主の兄から養子をもらい水戸藩を継がせました。伯夷伝の影響です。
この時代は,徳川の秩序が徐々に形成されいく時期です。安定した社会を実現したい。武力を自慢という世の中ではなくなりつつあったのでしょう。
安定した社会の基礎となる思想や学問が必要とされていきます。
光圀公は,日本に本格的な歴史となる書物を作りたいと考えます。歴史に照らしてものごとを判断しようということです。
それで,大日本史の編纂に着手しました。金食い虫的な事業だったようです。完成は,なんと明治で,どこまで書かれているのかというと南北朝が統一された時期まです。
そのため優秀な学者を彰考館に集めました。テレビで有名な助さん格さんは実は学者です。
光圀公は,儒教を基本にすべきと考えました。それで,乱れた寺院を整理しました。光圀公により廃された寺院は多いのです。
この大日本史が幕末には尊皇攘夷に,それで水戸が幕末の混乱した時期に注目されることにつながります。
おそらく光圀公は遠い将来に尊皇が幕府を倒す根拠となるとは考えもしなかったでしょう。
彼が考えたのは,徳川の支配の正当性をはっきりさせることだったのではないかと思います。
徳川は武力で他を制圧した,しかし,武力だけで支配を正当化することはできません。
根拠が必要です。では,根拠はというと,徳川が天皇から任されたことにある。
では,さらに天皇の正当性の根拠は何かという疑問が出てきます。そこで,歴史を遡り,それを明らかにする。
おそらくこんな感じではなかったでしょうか。
光圀公は,亡命者の朱舜水に学びました。初めてラーメンを食べた人といわれてます。ラーメンは朱舜水から教わったとか。水戸に黄門ラーメンというのがあります。
隠居後は常陸太田の西山に住みました。テレビのように日本全国を漫遊して歩いたというのは事実ではありません。

斉昭公は,いろいろと藩の改革をしました。
この時代、国内では苦しい財政状況,海外ではアヘン戦争などがあり,日本の独立が脅かされるのではないかという時代状況がありました。
そのため、文武奨励,農村復興,武備充実,藩士の土着,藩校及び郷校の建設,軍事演習(追鳥狩),偕楽園の建設に着手。
猛烈な仏教嫌いであったようで,なんと水戸東照宮から寺をなくしたり,大砲を作るために鐘を供出させたりしました。
ちょっとやりすぎたため藩が保守派と改革派で争うもとを作ってしまったともいえます。
井伊直弼と激しく対立。安政の大獄で処分されます。その後,脱藩した藩士らが桜田門外の変をおこします。
ブレインに藤田東湖,会沢正志斎がいました。
尊皇攘夷です。これは,当時の危機的な状況を打破する思想であったわけです。
そのため,ある時代,水戸は全国各地から水戸学を学ぶ人たちが訪れました。吉田松陰もその一人です。
斉昭公の死後,斉昭公のように強力なリーダーシップを発揮する人がいなくなったため,藩内の過激な攘夷論を上手にコントロールできなくなり,混乱、天狗争乱につながりました。
天狗争乱は,横浜の閉港を幕府に求める尊皇攘夷運動でしたが,同時に水戸藩内の改革派と保守派の内紛的要素が強いといえます。
幕末の頃,幕府の政治体制は状況に対応できずメロメロになります。
水戸は,徳川御三家ですから,幕府を倒すということは考えられません。幕府の体制内でなんとか改善措置を講じて危機を乗り切ろうとします。
つまり,尊皇攘夷で体制内改革ということです。
尊皇を強く押し出すと別に幕府でなくとも有能な者がいれば政治を任せりゃいいじゃないのとなります。それが倒幕派です。
水戸の場合は,徳川であるためどうやっても革命まではいかず改革止まりでした。立場的に限界があったわけです。

以下の中でも、特に,弘道館,徳川ミュージアム,偕楽園はゆっくりと見て回っていただきたいと思います。

次のようなところはいかがでしょう。
水戸駅からスタートしましょう。

水戸駅北口(出発)

水戸東照宮(家康公)
銀杏坂の大銀杏(空襲で焼け残った銀杏)
三の丸小学校付近(歴史を感じます)
水戸城土塁,空堀(在りし日の水戸城を思い浮かべて)
弘道館(藩校として有名,斉昭公,慶喜公)
弘道館公園(裏に回ってみて)
大手橋(渡ってすぐに昭和天皇の歌碑)
二の丸 彰考館跡(大日本史編纂の地)
本丸 薬医門(安土桃山時代)

備前堀(下市,水堀)
たまげ橋(水戸街道起点)
吉田神社(常陸三宮)
薬王院(本堂重文)
常照寺(山門よし)


千波湖(白鳥,噴水)
桜田門外の変オープンセット(事件がわかる)
徳川ミュージアム(徳川の宝物)
護国神社(戦没者合祀)
偕楽園(日本三大名園)
常磐神社(水戸光圀公を祀る)
義烈館(小さいながらも宝物あり)
県立歴史館(歴史を学ぶなら)

水戸八幡宮(落ち着いた雰囲気)
祇園寺(禅寺)
保和苑(あじさいで有名)
桂願寺(昔の縁日の雰囲気?)
回天神社(天狗党義士を祀る)
共同墓地(義士の墓地あり)

水戸東武館(歴史を感じる)
吉田松陰の碑(水戸での滞在先)
会沢正志斎宅跡(新論)
藤田東湖宅跡(弘道館記述義)

水戸駅(終点)

ロングライド~磐梯熱海

2012-10-22 11:25:17 | 自転車
2012年10月20日,常陸太田から磐梯熱海までのツーリングしました。
走行距離は、約140キロ、獲得標高は約1100m。

なぜ目的地が磐梯熱海なのかというと仲間との同期会があったのです。
それでせっかくだから自転車で行ってみようと。

この日は晴天でした。
スカッと青空で,それほど寒くもなく風もなく快適な一日でした。

今回、マウンテンバイクを使用、タイヤが太かったため路面との摩擦が大きく速度が出せませんでした。
もちろんそれは知ってはいたのですが,ロングライドすると体にどの程度の疲れがたまるのか,ツーリングに使えるのかを体で知りたかったのです。
結果,マウンテンバイクは,ロードバイクとはまったく別の自転車だと実感しました。
当たり前ですが,体で知ったというのが大切なのです。
マウンテンバイクはせいぜい走行距離60キロくらいにとどめておくのが無難でしょうね。
それくらいなら,快適です。

今回,紙の地図を用意したのですが,出発前の慌ただしさのせいで家に忘れてしまいました。
それで,iPhoneの地図アプリを利用してみました。
地図アプリを、カーナビみたいに使えるのじゃないかなと。
しかし,期待は禁物です。
途中、棚倉と白河の山道で迷ってしまいました。

本来,考えていたルートは里見,矢祭,塙,棚倉を過ぎてから,浅川方面,そして須賀川へと向かうルートでした。

塙では代官所跡を見学。小さな建物が一つだけ残っています。
解説板に,建物等の配置図がありました。
見ると,白州の位置が書いてありました。建物のすぐ右隣でした。

天狗党の田中愿蔵が,裁きを受けたのは塙の代官所です。
田中愿蔵の部隊は,栃木宿の焼き討ち事件などを起こしたことから天狗党本体から除名処分を受けました。
その後,愿蔵は日立市の助川海防城を占拠し,善戦したのですが,防戦できずに八溝山まで逃げ延び,隊を解散します。
八溝山の中をさまいながら,塙の農家の小屋にたどりつき,捕縛されます。
江戸で裁きを受けたい,そこで自分の尊皇攘夷の主張を堂々と述べたいと主張したのですが,受け入れられませんでした。
そして,近くを流れる久慈川の河川で処刑されました。
国道118号の道の駅はなわの駐車場の南側には,田中愿蔵処刑の地という石碑が建てられています。

その後,北上し,棚倉城跡を見学。
水堀と塁が残っていました。
櫓や天守閣などはありません。
近所の子ども連れが遊具で遊んでいました。

城跡を出たのはよいのですが,住宅地に迷い込んでしまい,方角がわからなくなってしまいました。
それで,アプリを利用。
信じて進むと,だんだんと民家が少なくなり,谷間へと。
上を見ると本来走るはずだったバイパス道路の橋が見えました。

どこかで合流するはずだからと進みました。
途中,自動車が入れないようにとガードレールで入り口がふさがれているところがあったのですが,自転車ならなんとなく行けそうな感じだったのでそのまま進みました。
まったく民家はありません。
谷津田があるくらいです。
稲刈りが終わっていない田んぼを眺めると,黄金色で,風に稲穂がそよいでいました。
風の谷のナウシカの映像が浮かびました。

しばらく行くと,地元のおじさんが散歩していました。
山の中で行き止まりになると困るので,このまま進んでも大丈夫かと尋ねてみました。

おじさんは,こんな道で人に会うことに驚いた様子でしたが,別の道につながっていると教えてくれました。
さらに,進むとたしかに他の道につながっていました。
でも,道につながる手前50メートルからは土が40センチくらいに積み上げられていて通行できませんでした。
自動車が進入しないようにとのことでしょう。
やむを得ず,バイクを担ぎ上げて,ガードレールをまたぎ,横のたんぼ道を使ってなんとか脱出しました。

自分は浅川方面に向かっているとばかり思い込んでいましたが,逆方向。
アプリを見ると,目的地まで48キロ。
アプリなりに最短ルートを割り出してくれたのだろうと思い,そのまま進み,白河の山道に誘導されました。

アップダウンが続きます。
マウンテンバイクは下りの惰性を利用して次の坂を上るのには効率が悪すぎます。
坂の途中,およそ4割くらいからは自力で漕いで上がらないといけません。
華麗にダンシングしながら上りたかったのですが,フィッテイングしていないため,どうもダンシングしづらいのです。

途中,ものすごく小さな交差点がありました。
左へ行けとアプリは指示します。
近道なんだろうと従いました。
行くにつれてだんだんと道が細くなります。
これはどうかなと不安に思っていました。
案の定,1kmくらい進んだら,ついに舗装が切れました。
そこからは,雑草が生い茂る田んぼ沿いの道でした。
さすがに,このまま行くと藪の中に突入し,藪こぎで時間を浪費することもあり得るので,そこで引き返すことに。
その付近は,携帯の電波が入らないので,遭難?すると大変です。

路面の悪いところがありました。
ダンプカーなどのために轍の段差がすごい道がありました。
下手にハンドルを切ると,間違いなく転びますね。
道の悪いところでは,マウンテンバイクの特性が十分に発揮できました。


国道4号線に出てからは,同じような風景が続き,つまらない印象です。


走るなら田舎道が景色も,自動車も少ないのでいちばんです。





水戸歴史探訪サイクリング~吉田付近

2012-10-15 17:21:04 | 自転車
備前堀のたまげ橋を南に向かい,坂にさしかかる。その右側にあるのが,吉田神社である。

日本武尊が東夷平定の帰途、常陸を過ぎて兵をこの地朝日山に留めて憩わせた故事を以って、この地に神社を創建し尊を奉祀したという。ここから,下市方面が見渡せる。


さらに,水戸街道を南に向かう。
道路は昔の街道の上に作られているためか,幅が狭く,自転車乗りにとってはちょっとつらい。
ちょっと行くと道路の右側に薬王院がある。

本堂は国指定重要文化財に指定されている。約500年の樹齢の銀杏があるほか緑が多く,落ち着いた雰囲気がある。


薬王院を出て水戸街道を戻り,途中で,右側の路地に入る。

住宅の間の細い道路をすぎると,東側にこんもりとした緑の山が見える。

ここに常照院がある。回り込むように北側に行くと,山門がある。
山門から階段を上っていくのだが,雰囲気がすばらしい。自転車から下りて,階段を歩いて上ると,京都あたりの寺にいるような気がしてくる。



水戸歴史探訪サイクリング~下市付近

2012-10-15 11:23:53 | 自転車
水戸の街は,北を那珂川,南を千波湖と桜川に挟まれた馬の背中のような台地を中心としている。
この馬の背台地は東側にいくにほど先細りとなっている。
その先細りの先端部分に,水戸城の本丸があり,西に向かって二の丸,三の丸,そして上市が台地上に展開している。
台地の下側には,下市という街がある。
上市と下市は,城をはさんでおおざっぱにいうと東西方向にある。
上市のほうは,太平洋戦争末期に空襲を受け,焼け野原となってしまったことから歴史を感じさせる木造建造物はほとんど見当たらない。
下市のほうには,ところどころ木造家屋が残っている。
下市に,備前堀がある。ここに水が流れている。堀の両側に柳があり,いい感じだ。

備前堀の途中で,水戸街道の起点であった橋があるたまげ橋という。
江戸へ旅立つものとここで別れたという。

備前堀沿いに進むと、染物屋らしき建物がある。昔は、堀を流れる水を使って染物をしていたのだろうか。

水戸歴史探訪サイクリング~馬の背台地

2012-10-15 10:19:18 | 自転車
水戸の街は,北を那珂川,南を千波湖と桜川に挟まれた馬の背中のような台地を中心としている。
この馬の背台地は東側にいくにほど先細りとなっている。
その先細りの先端部分に,水戸城の本丸があり,西に向かって二の丸,三の丸,そして上市が台地上に展開している。
本丸から三の丸にかけては、学校や図書館や公園があり、緑が多い。
台地の下側には,下市という街がある。
上市と下市は,城をはさんでおおざっぱにいうと東西方向にある。
城を挟んで、近いところから武家屋敷、そして町人の屋敷と広がっていたらしい。
上市のほうは,太平洋戦争末期に空襲を受け,焼け野原となってしまったことから歴史を感じさせる木造建造物はほとんど見当たらない。
下市のほうには,ところどころ木造家屋が残っている。
下市に,備前堀がある。ここに水が流れている。堀の両側に柳があり,いい感じだ。
備前堀の途中で,水戸街道の起点であった橋があるたまげ橋という。
江戸へ旅立つものとここで別れたという。
明治になってから、常磐線が通るようになった。
水戸のどこを通すかだが、馬の背台地の南側の崖下を台地に沿うように線路がもうけられた。
線路は昔の桜川、仙波沼を埋め立てて作られたのだろう。
上野方面から水戸に近づくと、左側に台地が見えてくる。
偕楽園である。南側斜面には梅の木が植えられており、春には車窓から白梅、紅梅の花が見られる。
右には、仙波湖が見える。
この周辺は、都市型公園としてはセントラルパークに次ぐくらいの大きさらしい。
週末になると、多くの人がジョギングや散歩を楽しんでいる。








水戸歴史探訪サイクリング~大手橋とニノ丸

2012-10-12 20:32:02 | 自転車
弘道館の正門の前に大手橋がある。

橋の下を見下ろすと道路が見える。
これはニノ丸と三ノ丸の間にある空堀を利用したものだ。

この大手橋を渡ると右側に昭和天皇の歌碑がある。終戦後すぐにおいでになった時の歌である。

道路は左に曲がる。
そこに白塀と立派な門が現れる。
水戸二中である。

門の近くには、彰考館の石碑がある。彰考館は、大日本史の編纂をしたところである。

大日本史は明治になってからやっと完成した。大事業であったのだ。

この編纂にあたった学者に、安積澹泊という人がいる。
水戸黄門漫遊記の助さん格さんのモデルになった人である。テレビとは異なり、彰考館の総裁まで勤めた優秀な学者であった。
その像もある。

二中を過ぎてさらに進むと、また橋が現れる。
本城橋。この下も空堀である。下には水郡線が走る。
橋の奥には、水戸一高がある。
中に入ると、移築した門が見られる。薬医門。佐竹氏時代、安土桃山時代のものといわれる。

水戸一高の場所が本丸である。
あまりに狭いので、実際はニノ丸に櫓が建てられていた。

これがそうで、現存しない。建っていたのは、現在の水戸三高のあたりらしい。櫓は見た目は三階建てだが中は五階建てとなっていたという。城に対する規制を免れるために見かけを三階としたらしい。





水戸歴史探訪サイクリング~弘道館公園

2012-10-12 20:14:57 | 自転車
弘道館館公園のメインは弘道館だ。
そのため、弘道館の建物だけを見学して帰ってしまう人が多い。水戸に住んでいる人もじっくりと公園内を歩いていない。だから、弘道館の裏側に、梅林、鹿島神社や孔子廟、石碑があることに気づかない人がいる。
せっかくだから、それらも見ていただきたい。

案内図

梅林。散策によい。

種梅の碑

要石
行く末も踏みな違たがそ あきつ島 大和の道ぞ 要なりける。
神社の要石と教育の要をかけている。

中に弘道館記の碑がある。



水戸歴史探訪サイクリング~三ノ丸続き

2012-10-10 20:33:20 | 自転車
銀杏坂を上ると、白壁に囲まれた三ノ丸小学校がある。
昔の弘道館の敷地内に立てられている。
左折すると左右に並木道があり、風情がある。
途中に本間玄調の銅像がある。

それを過ぎると、右側に図書館がある。
さらに進み道路に突き当たり、常陽芸文の門右折すると、水戸警察署があり、それを過ぎてすぐのところに、水戸城の歴史についての看板がある。
大雑把にいうなら水戸城が整備され始めたのは、徳川の前の佐竹氏の時代からである。佐竹氏が江戸氏を追い払って、整備を始めたら、すぐに秋田へ国替えとなり、その後に徳川が乗り込んできたということになる。その後、現在につながる街が形成されたといえる。
水戸城は水堀がない。
本丸、ニノ丸、三ノ丸といずれも空堀である。
きちんとした空堀が残っているのは、三ノ丸と大町のみだ。
ここの空堀にはたくさんの桜があり、春には桜の花が満開となり、誠に見事である。
空堀の内側には、県立図書館と旧県庁の建物がある。
旧県庁の建物はレンガや石造りで風格がある。
そのため、ドラマや映画の撮影場所となっている。
さらに奥に進むと梅林があり、そこは弘道館の裏になる。
梅の季節に散歩すると、梅の花の香りがよい。
大勢の人がいることはないので、気持ちが落ち着く場所である。






水戸歴史探訪サイクリング~三ノ丸

2012-10-09 07:32:25 | 自転車
水戸駅北口から銀杏坂の上り口にある銀杏の木を右手に上ると三ノ丸にでる。
真正面に白壁が見える。
なかなか趣きがある。
この辺りはもと弘道館だった所だ。

白壁沿いに右手へ回り込むと、弘道館の正門が見えてくる。
弘道館は水戸藩の藩校で、徳川斉昭公が造らせたものだ。
斉昭公の銅像は弘道館の向かいにある。人々を導かんとする烈公の人柄が滲み出ているように思う。


藩士の学びの場であり、文館、武館、医館が設けられた。現代なら大学というべき位置づけになるのだろう。
残念ながら、幕末の戦闘で幾つかの建物が消失したがそれでも主たる建物は残っている。
正門の柱などに弾痕を見つけることができる。
ここは最後の徳川慶喜公が謹慎した場所でもある。
現在は、残念なことに震災で建物などが破損し建物内部への立入はできず入場無料となっている。
庭を歩きながら建物を眺めるだけだが、庭木に見事なものがあり、なかなか落ち着いた雰囲気がある。
多くの人は、弘道館の裏手にあるものを見ようとしない。
せっかくだから裏手に回り、何があるか見て欲しい。