ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

久慈川サイクリング~久慈川河口の歴史

2012-11-02 12:28:31 | 自転車
日立市久慈町に,お魚センターがあり,買い物客で賑わっている。
その近くに,久慈川を埋め立てた工事の記念碑がある。
久慈川河口工事の祈念碑は,サンピア日立の隣の敷地内にある。
ほとんどの人はこの記念碑に気づくことはない。
この記念碑の図板を見ると,現在,国道が走っているところは,工事前は久慈川の河口付近であったことがわかる。



今はその面影はほとんどないが,久慈川はたびたび水害を引き起こしてきた。
かなりの犠牲者が出ていた。
そのために,河口の工事が必要とされた。
河口付近は,現在の様子とは全く異なっていた。
現在は,久慈川と茂宮川は合流せずに太平洋に流れているが,河口にいたる直前に久慈川は茂宮川と合流していた。
そして、合流後,砂州があるためにこれに沿って北ヘクランク状に曲って2キロメートル北上し、そこから東へ曲って太平洋に注いでいた。
このような地形が,流れを阻害し河口付近の住民に水害をもたらした。
台風の襲来ごとに洪水がおこり,東小沢、坂本、西小沢世矢、石神などの町村が被害を被る。
そのため,久慈川河口を開削し,まっすぐに太平洋につなぐ工事が求められていた。
しかし,そのような工事をすると漁船の出入りに障害が出るのでやめるべきだと久慈村は主張した。
このように久慈村と下流地方の村々は、開削をめぐり長い間,対立を続けていた。
やっと昭和44年から開削工事に着工し、昭和50年に完成した。これによって,その後は洪水による被害はなくなった。
久慈川サイクリングコースを走るときに,思い出して欲しい。
サイクリングコースから久慈川の左右に田んぼが広がり,そこに集落があるのが見える。
それらの集落の多くは,昔,洪水のために苦しめられていたのだ。
なかには,集会所に洪水に備えて船が置かれいる場所もあるという。
一見のどかにみえる風景もちょっとさぐってみるとそこに人と自然との闘いの小さな歴史がある。

水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~三木之次夫妻の墓。

2012-11-02 11:52:35 | 自転車
妙雲寺には,いろいろな人の墓がある。

たとえば
三木之次夫妻の墓。
光圀公は実は水子にされるところだった。
父頼房公は、三木之次に水子にせよと命じた。ところが,三木は頼房の養母・英勝院と相談して頼房公には知らせずに、母である谷久子を三木邸に引き取り、三木夫妻の子として育てた。
その三木邸跡は,水戸駅の近くにあり,現在は,水戸黄門神社が建てられている。

光圀は,三木が亡くなったときに「三木之次をいためる詞」と題して和歌12首、漢詩2編を贈っている。
和歌12首の頭文字を右から読むと、南無妙法蓮華経となるという。
その一つ。
なき人のかたみにのこす水くきのなかれのとまらぬ泪なりけり

ちなみに,三木夫妻を祀る神社(末社)が常磐神社内にある。
常磐神社は、水戸藩を代表する2代藩主徳川光圀公・9代藩主徳川斉昭公を祀る神社だ。
光圀公の育ての親なので,三木神社が作られたのだ。
ところで,
三木之次の末裔に,三木啓次郎氏がおられる。
啓次郎氏は、松下電器創業者の松下幸之助氏が苦労されていた若い頃にずいぶんと援助をされたという。
そのような縁から、鎮座の際は松下幸之助氏より多大な浄財が奉納されたらしい。
余談になるが,
テレビドラマ「水戸黄門」はパナソニック,ナショナル,つまり松下電器がスポンサーとなっていた。
それは創業者の松下幸之助氏と三木啓次郎氏との縁をもとに,さらにはその祖先である三木之次と水戸黄門がつながったからである。