ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

タロコ渓谷への旅~自転車パッキング

2013-03-26 06:08:17 | 自転車
飛行機で自転車を運ぶときに心配なのは、運送中に壊れないかということ。
特に何もしないという人もおられるかもしれないが、台湾に着いてから、壊れていたというのでは話しにならない。

出発前に、自転車をパッキングしてみた。

まず、壊れそうな箇所はディレラーなので、そこを保護。
ロードレーサーなら、ディレラーをはずしてしまうのだが、今回はキャリア付きの折り畳み小径車なので外さずに養生することにした。

ディレラーのハンガー部分を保護。
たまたま手もとに発泡スチロール?の柔らかいもので、1cmくらい厚さがあるものががあったので利用。もともとは何のための発泡スチロールかはわからない。



さらに、保護。
段ボールを曲げてタイヤとハンガーの間にいれる。これでハンガーが押されても曲がらない。


輪行バッグに収容。
上下逆さまにしたのは、ディレラーが下になると、持ち運びのときにぶつけられて破損するおそれがあったから。
フロントディレラーとリアディレラーのところに、プチプチを厚めに。衝撃があっても大丈夫なように。
プチプチは、何回か折り畳み、厚みをもたせ、四隅をガムテープで止めた。
プチプチが移動中、落ちないようにガムテープでフレームやタイヤなどに貼り付けた。


あとは、航空会社を信じるしかない。

パンクの原因

2013-03-25 06:53:18 | 自転車
パンクの原因がわかった。
タイヤのサイドが裂けていたのだ。
そこに小さな穴があいていた。
高い気圧がかかっているチューブは、亀裂の入った箇所の小さな穴からプーっと膨らんだに違いない。
それで破裂したから、小さな穴が空いたのだ。
物が刺さっていた場合は、タイヤの内部を指で触って確認できるが、裂けていた場合はわかりにくい。
内部から気圧がかかっていないと、裂けた部分がはっきりしないからだ。
チューブを交換し、空気を入れて、初めてサイドが異常に膨らんでいるのを発見した。そのため、またタイヤをはずさなければならなかった。一苦労である。
なぜ亀裂が入ったのかいろいろと考えて見たのだが、たぶん折りたたんだ際に、ハンドルの突起物、例えばブレーキレバーか何かがタイヤに当たって傷がついたのだろう。
こんなことがあるとは思わないので、いいかげんに折りたたんでしまったのだが、今後は気をつけなければなるまい。しかし、タイヤのサイドは意外に脆い。



パンク

2013-03-24 07:55:14 | 自転車
花連に向けて、小径車を整備しようと思ったらタイヤがペシャンコ。
空気入れで試したが、まったく手応えがなく、スカスカして、空気が入らない。
これは相当に大きな穴が空いているのではないかと思った。
タイヤレバーで、タイヤをはずし、チューブを見たら、穴があいていた。
何かが刺さったというより、噛みちぎられたような5mmくらいの見事な穴だ。
こんなパンクは体験したことがない。
さっそくチューブを交換することにした。
念のため、タイヤの内部を指で触って見たが特に異物は刺さっていない。
ただし、タイヤ内部、横の部分が微妙に裂けようとしている感じだ。
念のため、ガムテープを内部から貼り付けて補強して乗り切ることにしよう。応急措置でしかないけれども、何とか役立つだろう。


歴史ポタリング~額田城址

2013-03-22 06:21:25 | 自転車
暖かくなったので近場の中世の城跡をめぐるポタリングをしてみた。
茨城県には、意外に中世の城跡が多いが、一般にはあまり知られていない。というのは、おそらく城というと天守閣を思い浮かべ、そのような城は見当たらないから、城はないと思い込むからだろう。
かくいう私もつい最近まで神社のある自宅の裏山が城跡だとは気づかなかった。
で、茨城県北部の中世の城を知るためには、徳川がやってくる以前の佐竹氏の歴史を知らなければならない。
 額田城は、鎌倉時代中期(1250年頃)佐竹氏が築き、ここにその一族を城主にしたところから始まった。佐竹氏の本拠地は常陸太田だが、南には久慈川が流れる。額田は久慈川の南に位置する。南側の防御を考えて築いたのではないだろうか。
さて、佐竹本家と佐竹氏傍流である山入氏とは一族であったのに百年近く争った。山入の乱である。額田氏は本家ではなく山入氏側についたため、1423年に佐竹本家により額田城は落され額田氏も滅ぼされた。この後、佐竹氏の家来である小野崎氏や江戸氏の一族が額田城に入り、額田氏を名乗る。
しかし、1591年に佐竹義宣による攻撃を受けて落城する。義宣は常陸国内の統一支配を目指し、目障りな者を次々に滅ぼしていったのだ。
それ以降は城は作られずに放置されたのだろう。城址を歩くと、木が生えているだけで建物などはなく堀跡があるだけである。


阿弥陀寺と額田城跡入口の看板


阿弥陀寺参道


阿弥陀寺の境内


案内版


額田城跡 外周


本丸跡


本丸跡から南方向に田


空堀





久慈川サイクリングロード

2013-03-15 07:33:48 | 自転車
暖かくなってきたので地元をサイクリングしてみようと思う。

久慈川サイクリングロードは,地元の自転車乗りにはよく知られている。
サイクリングロードは、久慈川の堤防の上に設けられている。
この堤防はかなり堅固な造りとなっている。

そこで,久慈川の堤防の歴史をひもといてみると,久慈川では洪水が頻発しかなり被害が発生ていたことがわかった。
たとえば,明治23年8月5日、久慈川とその支流の里川、茂宮川が氾濫し大洪水となった。
なんと死者500人余、流失家屋1,800戸、床上浸水家屋は10,000戸にも及んだという。
そのとき,流される屋根の上で助けを求めている人たちがかなりいたという。
そのため,河口の久慈町の漁師さんたちは、漁船で救助活動にあたった。
救助は,上流の東小沢・西小沢・幸久・太田あたりにまで及んだ。

河口から約15キロも上流にある田園地帯である。
その辺は,現在は,静かに田が広がっている地域だが,明治23年には,その上を濁流が暴れ回り,濁流の中,危険を顧みずに,救助のために漁船が助けに来たというのだ。

何度も氾濫し,被害があったため,久慈川の改修,堤防の建設が地元の悲願であった。
久慈川サイクリングロードの背景にはそのような歴史がある。
国道349号の幸久橋のところに,ひっそりと久慈川改修記念碑が立っている。
この記念碑の「窮無澤恵」は当時の内閣総理大臣岸信介の書によるものだという。

久慈川の河川改修は、
堤防の建設工事だけではなく、新たに河川の流れを変更工事なども行われた。
たとえば、河川が合流する箇所は氾濫しやすい。
河合周辺や久慈川河口はそのような大規模な工事が行われている。
その昔、久慈港などは久慈川と茂宮川が合流してL字型に北に流れてから太平洋へつながっていた。
大きな砂州があったため入り口が塞がれるような形であることから、大雨のときは氾濫していた。
そのような箇所が改修された場所がいくつもある。



幸久橋近くの菜の花
久慈川サイクリングロードには、このような風景があふれている。

タロコ渓谷への旅~自転車を決める

2013-03-11 06:03:43 | 自転車
しばらくブログを書けなかった。
仕事で時間がなかったこともあるし、何より自転車にほとんど乗っていなかったので、書くネタがなかったからだ。
まあ、何とか時間を作り、本だけは読んでいたので、水戸学の関連で、いったい儒教、特に朱子学はどのような影響を日本に与えたのかについて何冊か本を読んでいたから、今後水戸藩歴史探訪サイクリングのときにふれることができるかもしれない。
で、タロコ渓谷への旅だが、いよいよ出発まで20日しかなくなった。
そろそろ自転車を決めて準備しなければならない。何を持参するかさんざん悩んだ結果、折りたたみ自転車DahonのViscP18を使用することにした。キャリアーを購入したので結構荷物を運べる。
ギアは前2、後ろ9枚の18速だ。
タロコ渓谷は、平均6%くらい、最後のほうの10キロは、斜度が15%を越えるらしい。いくつかの台湾の人のYouTubeを見たが最後の頃は自転車を押して歩く姿があった。
せっかくだから、最後まで乗って上りたい。そう考えて、自転車のリアのスプロケットをマウンテンバイクのものに改造することにした。マウンテンバイクのものは、歯の枚数が多いので、傾斜がキツくても上りやすいと考えたからだ。
それで、近くの、といっても車で30分かかる、日立の大甕にあるバイシクルパークO2に、自転車を持ち込んで相談してみた。
店長さんが言うには、スプロケットだけでなくその他も若干変えないといけないがやれそうだという。それでも、もしかすると1,2枚くらいの組み合わせはギアはしっくりしないかもという。まあ、改造だから多少は仕方がないだろうと諦めることにする。
カタログを見て考えた結果、後ろの歯数は34とした。これで前をインに落とせば、前後の比率はほぼ1対0.9となる。これで壁のような急傾斜が立ちはだかっても、上れるはずだ。欠点は、ギアが軽くなっても所詮小径車なので、タイヤの外周は短く、一回転で進める距離が短いということだろう。
一週間くらいで出来上がるという。
出来上がったら、近くの峠で15%の傾斜のところがあるから試してみたい。