2012年6月8日の滋賀彦根新聞に,世田谷区の教育委員会が、世田谷区の豪徳寺にある井伊家の墓について墓所改修にともない区教委が調査を行った結果の記事が出ている。
豪徳寺にある彦根藩十三代藩主・井伊直弼の墓に、石室などの埋葬施設が地下3m以内になかったことが、区教委などの調査で明らかになった。
埋葬施設がないということは,遺体が埋葬されなかったということを意味する。
そうなると,桜田門外の変の実行犯が大老の首級を水戸へ持ち去ったという話しも現実味を帯びてくる。
大老の首級を水戸へ持ち帰ったのは,広木松之助らしい。最初から持ち帰るための準備をしていたらしいのだ。
広木は,大老の御首級を密かに水戸に持ち返り,斉昭公のお目にかけた。
それが大老であることを確認した斉昭公は,広木に大老を懇ろに供養すべきこと,死んではならないと仰せになられたという。
首級のことは秘密にされ水戸に置かれた。
一方,広木松之介はその後加賀に行き,供養のために僧となった。
後藤哲之介という者が,広木松之助から事件の話しを聞き,広木のために身代わりとなることを決意し,広木松之助を名乗る。
後藤は,広木の身代わりとして幕府に捕縛され,食を絶ち牢死した。
広木は,越後を経て鎌倉の日蓮宗上行寺に身を寄せた。
その後,広木は,桜田門外の同志が相次いで捕縛され処刑されたことのを聞き耐えがたく自刃する。
鎌倉の上行寺には,広木松之助の墓がある。
ここ妙雲寺にも広木の墓がある。
豪徳寺にある彦根藩十三代藩主・井伊直弼の墓に、石室などの埋葬施設が地下3m以内になかったことが、区教委などの調査で明らかになった。
埋葬施設がないということは,遺体が埋葬されなかったということを意味する。
そうなると,桜田門外の変の実行犯が大老の首級を水戸へ持ち去ったという話しも現実味を帯びてくる。
大老の首級を水戸へ持ち帰ったのは,広木松之助らしい。最初から持ち帰るための準備をしていたらしいのだ。
広木は,大老の御首級を密かに水戸に持ち返り,斉昭公のお目にかけた。
それが大老であることを確認した斉昭公は,広木に大老を懇ろに供養すべきこと,死んではならないと仰せになられたという。
首級のことは秘密にされ水戸に置かれた。
一方,広木松之介はその後加賀に行き,供養のために僧となった。
後藤哲之介という者が,広木松之助から事件の話しを聞き,広木のために身代わりとなることを決意し,広木松之助を名乗る。
後藤は,広木の身代わりとして幕府に捕縛され,食を絶ち牢死した。
広木は,越後を経て鎌倉の日蓮宗上行寺に身を寄せた。
その後,広木は,桜田門外の同志が相次いで捕縛され処刑されたことのを聞き耐えがたく自刃する。
鎌倉の上行寺には,広木松之助の墓がある。
ここ妙雲寺にも広木の墓がある。
広木松之助の子孫です。
広木は、上行寺では自害していません。
その後、山形県山形市のある寺の僧となり、そこで天命を全うしました。
私は、その広木松之助の息子 名前は政吉といいますが、政吉は満州鉄道に勤め、そこで私の曾祖母と結婚し、その流れで私がいると親に聞きました。が曾祖父が、広木の息子、政吉となります。
親、親類には広木松之助の歴史上の上行寺自害は嘘であると聞きました。
世に出るべき話しではないですが、たまたま私がこのブログを目にしたので、気まぐれでコメントを残そうと思いついたところです。ただそれだけですので。語り継がれる歴史は、必ずしも真相ではないと言いたかっただけです。
広木松之助の墓は、山形市のあるお寺にあります。
実は井伊大老の首は水戸へ持ち去られていた、という話、とても興味深かったです。
出典などおありでしたら、ぜひお教えいただけるとありがたいです。
>>渡邉様
広木松之助氏が生き延びていたというお話、とてもロマンを感じました。
その山形市のお寺の名前などうかがえませんでしょうか。
また、もしもう少し詳しいお話などおありでしたら、お聞かせ願えますと嬉しいです。