ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

水戸藩歴史ウォーキング~二の丸

2013-06-23 06:26:31 | 自転車
いつもは自転車で水戸藩の歴史を探るポタリングをしているのだが、今回は、ウォーキングで、水戸郵便局から本丸まで歩いてみた。

水戸郵便局は、ほぼ三の丸のはずれに位置する。

郵便局の北側の通りは、並木道と三の丸小学校の白壁がいい感じだ。



現在の三の丸小学校の敷地はもともとは弘道館の敷地であった。現在の三の丸のかなりの面積が弘道館だったのだ。弘道館は、水戸藩の藩校である。たぶん、今の感覚でいうと純然たる文系の大学のイメージではなく、防衛大学校的な存在だったのではないだろうか。確認していないが敷地内に馬場や射撃が少しできるような場所があったようだ。

並木道を歩いて、角を左折すると、弘道館がある。
正面の門には、弾痕がある。よほど近づいて探さないとわからない。
幕末にここで戦闘があったのだ。藩内部の闘争である。天狗税をほぼ駆逐した諸生派は、王政復古とともに逆賊として討伐の対象となる。諸生派は、一時、新潟のほうにまで行き、旧幕府軍とともに闘う。しかし、戦況が変化し、どうすべきかというときに、諸生派を追う水戸藩の兵士が留守のところを狙って水戸城を奪取しようと企てる。
行き場がなくなり、追い詰められた諸生派の市川らがここ弘道館に立て籠もり城を攻撃したという。そのときに弘道館の建物が焼けたという。



弘道館の正面には橋がかかっている。
この橋を渡ると二の丸になる。
渡るときに橋の下を見ると、三の丸と二の丸の間の昔の掘りの跡が道路として利用されていることがわかる。
二の丸辺りは現在文教地区である。学校だけがある。
水戸二中は、昔の雰囲気を感じさせようと白壁造りですべてを覆っていた。学校の門も歴史的な建造物をイメージさせる。反対側は、附属小学校と水戸ニ高だが、残念なことに白壁ではなくフェンスで味気なく囲まれている。
ここには、大日本史を編纂した彰考館があった。彰考館は、江戸、水戸二の丸、最後は偕楽園へと移転している。


彰考館の碑。
この近くに水戸城関連の瓦などを展示する小さなギャラリーがある。

ちなみに江戸時代の地図を見ると、水戸城の櫓は水戸二高の敷地内に建てられていたようだ。

この白壁造り沿いに歩くと、左手に樹齢約450年の老木がある。水戸藩の栄枯盛衰の歴史を見ていた証人とも言える老木である。

さらに進み、橋を渡ると本丸に至る。橋の下は掘りの後であり、今は水郡線の鉄路になっている。
中に入ると、門がある。
水戸一高の校内に移設された薬医門である。佐竹氏の時代まではここが城の中心であったようだが、徳川の時代になり、中心は二の丸となったらしい。


この後は、弘道館の北側の公園の敷地内を散策し、要石などを見た。
弘道館の公園は観梅の季節を除くとほとんど人がいない。静かで緑も豊かで
散策にはとてもよい。
散歩には、ここはお勧めコースだ。


今回は、距離があまりに短いので徒歩で歩いてみたが、これも自転車とは違った魅力がある。
徒歩はじっくり考える時間がとれるところがいいと思う。

水戸藩歴史ポタリング~水戸八景(北の4つ)

2013-06-17 08:21:45 | 自転車
いちど、水戸八景巡りを仲間としようということになり、6月16日にポタリングを企画した。

しかし、前日はかなりの雨、16日の朝になっても、小雨模様。
当初参加表明していた10名は次々に不参加表明。
結局、3名で小雨の中を走ることになった。
どんなところを走ったのか、その場所などを備忘録的に残しておこう。
今回は友人の顔がばっちり写っているので、掲載できる写真がない。


今回は、変速機付きのママチャリが参加するので、無理をせずに、水戸八景のうち半分を回ることにした。

ところで、水戸八景だが、「水戸市の八景」ではなく、「水戸藩の八景」だ。

水戸八景を定めたのは第九代藩主斉昭公(烈公)である。
天保4年(1833年)に武事鍛練し、藩士弟の士気鼓舞を目的とした。
当時は、諸外国の脅威を感じつつあったのだろう。いざ外国から攻められたときに備えて鍛えておこうという狙いがあったのだ。

八景は中国の瀟湘(しょうしょう)八景」にならったという。
水戸八景の北の4つとは、以下のとおりであり、烈公は次のような歌を詠んでいる。
1. 青柳の夜雨 夜雨に小舟くだせば夏陰の柳を渡る風の涼しさ
2. 山寺の晩鐘 つくづくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音ぞ淋しき
3. 太田落雁 さして行く越路の雁の越えかねて太田の面にしばしやすらう
4. 村松晴嵐 真砂地に雪の波かと見るまでに 塩霧はれて吹く嵐かな

今回は、せっかくのポタリングなので、途中にある常陸太田市の珍しい場所を通るルートを設定した。

旧県庁前を出発。

那珂川のたもとにある青柳の夜雨に立ち寄り、その後、国道、旧道を北上する。

那珂市の史跡はパスして進む。
雨にある程度濡れると、走り出す前に嫌だった気持ちもどこかへいってしまう。

まずは、
久慈川の「地獄橋」
沈下橋のこと。那珂市額田東郷、常陸太田市下河合などにある。今回は、久慈川の木島大橋の手前を右折して、地獄橋を渡る。
地獄橋は、増水時の橋が水面下に没した際に流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水がせき止められ洪水になることを防ぐための橋であり、欄干がない。大雨の後など、橋のすぐ下を濁流が渦巻いて流れていくのを眺めることができて、迫力満点である。

地獄橋を渡ると「粟原の釣り堀」にでる。
ここは、蛇行する久慈川を洪水防止のため大規模な河川改修を行い、そのときに流れを変えたために形成された三日月湖である。雨でも釣り人が多かった。
久慈川は現在は堤防が築かれて、洪水の恐れはなかったが、江戸、明治、大正と大洪水がおこり、たくさんの人が死んでいる。


次は「枕石寺」
1212年、雪の夜、日野頼秋という武士の家に、親鸞が一夜の宿を請うた。親鸞は浄土真宗の開祖である。
頼秋は、親鸞に対して「仏道を修する者が、雪や寒さを苦にして、安楽に宿をとるとは何事か」と追い出してしまう。
その夜、親鸞と弟子は雪の降りしきる中を石を枕に一晩を過ごす。
その姿を見た頼秋は、改心し、帰依する。
有名な倉田百三「出家とその弟子」のもととなった話である。もともとは大門にあったらしいが、現在の場所に移転した。


「都々逸坊扇歌」の石碑
都々逸坊は、七歳で痘瘡を患らった。そのときに医者である父親は、医書に書かれたことの真偽を確かめようと痘瘡の病人には大毒といわれる鰹を与えた。そのために都々逸坊は半失明。
都々逸坊は、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍。 その芸は、都々逸をはじめとした唄・三味線だけでなく、「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていたという。
世相を風刺した唄も沢山作ったが、晩年にはそれが幕府・大名批判とされ江戸を追放され、石岡の姉のところで没する。
わかりやすい都々逸をひとつ 「諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた」

西山研修所へ向かうと、太田の落雁がある。
この敷地に「雪村」の石碑がある。雪村は僧であり水墨画家。雪舟を強く意識し尊敬していたようだが、その画風に影響を受けなかったという。関東の水墨画のなかでも極めて独自性が高い画風を確立したらしい。後の尾形光琳は雪村を好んで、模写を幾つも試みており、雪村が使っていたといわれる石印をどこからか入手したという。光琳の代表作「紅白梅図屏風」に、雪村筆「あくび布袋・紅梅・白梅」(三幅対、茨城県立歴史館蔵)の影響があるとする意見もあるらしい。石碑の字は横山大観が書いている。

「梅津福次郎」
常陸太田出身の実業家。地元では有名らしい。四分の一主義と称する処世訓がある。純益を四つに分けて、その一つは資本、即ち商店部に繰り入れ、一つは不動産の資金に、一つは有価証券に、残りの四分の一を家の生活費に入れるという堅実は分配方法であった。「人には容易に真似の出来ないことをして、体の続く限り、精魂を傾けて、働けるだけ働く」。梅津は、故郷の恩を忘れず、稼いだ金を生まれ故郷の常陸太田に送ってくれたという。西山研修所は、梅津が作った修養道場がもとになっているらしい。

西山研修所から下り、太田二高の前を通り、鯨が丘と呼ばれる台地に上る。常陸太田は坂の街なのだ。かなりの急勾配の石畳の坂道が脚にこたえる。

上りきると、昔の街を感じさせる家が残る街並みに出る。

若宮八幡へ立ち寄る。
樹齢500年というケヤキの老木が何本も残っていて、厳かを感じる境内を散策。

「舞鶴城跡」の石碑
太田小学校の敷地内にある。石碑の後ろには、佐竹氏の歴史が書かれており、常陸太田が佐竹の街であったことがわかる。
現在、城の跡はまったく見られない。常陸太田は、武家屋敷の街並みではなく、商いの街なのだろう。城下を感じさせるものはほとんど見あたらない。

常陸太田で食事。
有名なのはいずみ屋のぶっとい饂飩だ。麺の太さは小指くらいある。啜って食べるのではなく、噛んで食べる類の麺だ。最初食べた時に、ホウトウの親戚ではないかと感じた。

お菓子は、笹団子とそっくりの「ちまき」を元祖「なべや」でいただく。風情のある店構えが残る。
ここは100年以上の老舗で、お菓子は手作りなのだ。

常陸太田市から久慈川に戻る。

「防人の碑」
久慈川の幸久橋のたもとにある。入りにくい場所なので、ほとんど訪れる人はいない。
奈良時代755年頃,筑紫国(現在の北九州地方)へこの地方から防人が派遣された。『万葉集』には常陸国出身の防人の歌が10首ほど掲載されたという。碑に刻まれた歌の作者は丸子部佐壮。「久慈川は 幸くあり待て 潮舟に ま梶しじ貫き 我は帰り来む」「久慈川よ,清い流れのままで変わらず待っていてくれ,私は潮舟に梶をいっぱい通し,急いで帰ってこよう」という意味。「幸久」という地名は「幸く」というところにちなんでつけられたらしい。

「久慈川の洪水」
すでに述べたところだが、久慈川は昔、たいへんな暴れ川だったようだ。たとえば、
明治23年(1890)8月に入って雨が降り続き、8月5日、久慈川とその支流の里川、茂宮川が氾濫し大洪水にみまわれた。その被害状況をみると、死者500人余、流失家屋1,800戸、床上浸水家屋は10,000戸にも及んだ。流される屋根の上で助けを求めている家族の人たち、すでに助けを求める気力を失いぼう然としている人、そして堤防などに衝突するとともに家が壊れ、濁流渦巻く水中にのまれていく人、まさにその悲惨な状況は、この世の地獄を見る思いであったという。久慈町の勇敢な漁師たちは、その悲惨な状況を聞き鰹船でかけつけ、河口に近い坂本や、それより上流の東小沢・西小沢・幸久・太田町の被害を受けている地域の救助に全力を尽くしたという。このような悲劇があったことから、久慈川の堤防が築かれ、その上に、サイクリングコースが作られた。下流に向かってサイクリングをするときに、田んぼの中の集落を見ていただきたい。洪水の際には、屋根くらいまで水がきていたことを想像して欲しい。

「常陸風土記」
風土記があるのは数少ない。そのうちの一つの常陸風土記の中にこの久慈川周辺についての記述がみられる。
昔、郡家の南近くに、小さな丘があり、そのかたちが鯨に似てゐたことから、倭武の天皇が、久慈と名付けられた。
 郡家の北二里のところに、山田の里がある。新しい田が多いことから、名がついた。里の清き河は、北の山から流れ出て、近くの郡家の南を通って、久慈の河にそそいでゐる。人の腕ほどの大きさの鮎がとれる。河の岸を石門といふ。どこまでもつづく林の中から流れ出る清き泉がここにそそいでゐる。日差しをさへぎる深い青葉の下を風が舞ひ、川底の白砂の上を波が踊る。夏には、あちこちの村里から、暑さをのがれて、足並みを揃へ、手をとりあってここに来て、筑波の歌垣の歌を歌ひ、久慈の美酒を飲む。人の世のちっぽけな悩みなどみんな忘れてしまふ。この里の大伴の村の河の崖には、鳥が群らがり飛んで来ては、黄色の土をついばんで、食べてゐる。
これを読むと、久慈の名称が「小さな丘が鯨に似ていた」ことから名付けられたらしいことがうかがえる。
また、久慈川支流の山田川で大きな鮎が捕れたことがわかる。

久慈川サイクリングコースを河口付近まで下りて、その後、国道245号を南下して、村松の晴嵐を訪れ、さらに南下して那珂湊へ出て、那珂川沿いを水戸まで走る。

村松晴嵐の碑の下辺りには虚空蔵尊と神宮がある。ここは光圀も訪れている名所なのだが、今回、そのあたりの詳しい歴史は調べておかなかった。残念だ。いつか、調べてみたい。

このように今回は、ざっと70kmくらいの距離である。

ところどころで歴史の解説を交えながら、まったりとポタリングしたが、反省としては、もうちょっと知識を仕入れておけばよかったという点だ。
郷土史を訪ねる小さな旅も面白いものだ。