ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

水戸歴史探訪サイクリング~どこをめぐるか

2012-10-22 13:07:38 | 自転車
とりあえず,1日で巡るとして考えてみました。
数が多いので、きちんと見ると回りきれないと思います。できれば何回かに分けたほうがいいでしょう。

どこをめぐるかを考える際には歴史的視点が大切です。

独断ですが,
ものすごく大雑把にいうと
水戸の歴史は水戸徳川家の歴史といえます。

そのなかでも,
頼房,光圀,斉昭の3人を押さえると,いろいろな史跡をめぐったときに理解しやすいと思います。

水戸藩主は参勤交代を行わず藩主は常に江戸にいました。
ごく稀に水戸へ来るくらいでほとんど江戸暮らしをし,なかにはまったく水戸へ来たことがない藩主もいたとか。

では,3人のお殿様についてのおおざっぱな説明をします。

頼房公は,水戸藩の基礎を固めた藩主です。
業績として備前堀を整備,殉死の禁止,東照宮の建築などがあります。
はげしい性格らしく,家康公から何が欲しいかと聞かれて天下が欲しいと言ったとか。
この時代は,やっと徳川が天下を握った時代です。武力でやっと天下を取ったけれども,いつひっくり返されるかわからない状況にあったと思います。
家康が水戸に子どもを送ったのは,北への防備のためでしょう。北に伊達という油断ならない勢力が存在しますからね。
また,もともと佐竹氏が治めていた土地を引き継いだこともあり,統治する上での苦労もあったろうと思います。

光圀公は,頼房の子で,若い頃は暴れ者でいろいろと悪さをしたようですが,史記の伯夷伝で目覚めたと言われています。
光圀公は,長男でもない自分が水戸藩を継ぐのはおかしいと考え,高松藩主の兄から養子をもらい水戸藩を継がせました。伯夷伝の影響です。
この時代は,徳川の秩序が徐々に形成されいく時期です。安定した社会を実現したい。武力を自慢という世の中ではなくなりつつあったのでしょう。
安定した社会の基礎となる思想や学問が必要とされていきます。
光圀公は,日本に本格的な歴史となる書物を作りたいと考えます。歴史に照らしてものごとを判断しようということです。
それで,大日本史の編纂に着手しました。金食い虫的な事業だったようです。完成は,なんと明治で,どこまで書かれているのかというと南北朝が統一された時期まです。
そのため優秀な学者を彰考館に集めました。テレビで有名な助さん格さんは実は学者です。
光圀公は,儒教を基本にすべきと考えました。それで,乱れた寺院を整理しました。光圀公により廃された寺院は多いのです。
この大日本史が幕末には尊皇攘夷に,それで水戸が幕末の混乱した時期に注目されることにつながります。
おそらく光圀公は遠い将来に尊皇が幕府を倒す根拠となるとは考えもしなかったでしょう。
彼が考えたのは,徳川の支配の正当性をはっきりさせることだったのではないかと思います。
徳川は武力で他を制圧した,しかし,武力だけで支配を正当化することはできません。
根拠が必要です。では,根拠はというと,徳川が天皇から任されたことにある。
では,さらに天皇の正当性の根拠は何かという疑問が出てきます。そこで,歴史を遡り,それを明らかにする。
おそらくこんな感じではなかったでしょうか。
光圀公は,亡命者の朱舜水に学びました。初めてラーメンを食べた人といわれてます。ラーメンは朱舜水から教わったとか。水戸に黄門ラーメンというのがあります。
隠居後は常陸太田の西山に住みました。テレビのように日本全国を漫遊して歩いたというのは事実ではありません。

斉昭公は,いろいろと藩の改革をしました。
この時代、国内では苦しい財政状況,海外ではアヘン戦争などがあり,日本の独立が脅かされるのではないかという時代状況がありました。
そのため、文武奨励,農村復興,武備充実,藩士の土着,藩校及び郷校の建設,軍事演習(追鳥狩),偕楽園の建設に着手。
猛烈な仏教嫌いであったようで,なんと水戸東照宮から寺をなくしたり,大砲を作るために鐘を供出させたりしました。
ちょっとやりすぎたため藩が保守派と改革派で争うもとを作ってしまったともいえます。
井伊直弼と激しく対立。安政の大獄で処分されます。その後,脱藩した藩士らが桜田門外の変をおこします。
ブレインに藤田東湖,会沢正志斎がいました。
尊皇攘夷です。これは,当時の危機的な状況を打破する思想であったわけです。
そのため,ある時代,水戸は全国各地から水戸学を学ぶ人たちが訪れました。吉田松陰もその一人です。
斉昭公の死後,斉昭公のように強力なリーダーシップを発揮する人がいなくなったため,藩内の過激な攘夷論を上手にコントロールできなくなり,混乱、天狗争乱につながりました。
天狗争乱は,横浜の閉港を幕府に求める尊皇攘夷運動でしたが,同時に水戸藩内の改革派と保守派の内紛的要素が強いといえます。
幕末の頃,幕府の政治体制は状況に対応できずメロメロになります。
水戸は,徳川御三家ですから,幕府を倒すということは考えられません。幕府の体制内でなんとか改善措置を講じて危機を乗り切ろうとします。
つまり,尊皇攘夷で体制内改革ということです。
尊皇を強く押し出すと別に幕府でなくとも有能な者がいれば政治を任せりゃいいじゃないのとなります。それが倒幕派です。
水戸の場合は,徳川であるためどうやっても革命まではいかず改革止まりでした。立場的に限界があったわけです。

以下の中でも、特に,弘道館,徳川ミュージアム,偕楽園はゆっくりと見て回っていただきたいと思います。

次のようなところはいかがでしょう。
水戸駅からスタートしましょう。

水戸駅北口(出発)

水戸東照宮(家康公)
銀杏坂の大銀杏(空襲で焼け残った銀杏)
三の丸小学校付近(歴史を感じます)
水戸城土塁,空堀(在りし日の水戸城を思い浮かべて)
弘道館(藩校として有名,斉昭公,慶喜公)
弘道館公園(裏に回ってみて)
大手橋(渡ってすぐに昭和天皇の歌碑)
二の丸 彰考館跡(大日本史編纂の地)
本丸 薬医門(安土桃山時代)

備前堀(下市,水堀)
たまげ橋(水戸街道起点)
吉田神社(常陸三宮)
薬王院(本堂重文)
常照寺(山門よし)


千波湖(白鳥,噴水)
桜田門外の変オープンセット(事件がわかる)
徳川ミュージアム(徳川の宝物)
護国神社(戦没者合祀)
偕楽園(日本三大名園)
常磐神社(水戸光圀公を祀る)
義烈館(小さいながらも宝物あり)
県立歴史館(歴史を学ぶなら)

水戸八幡宮(落ち着いた雰囲気)
祇園寺(禅寺)
保和苑(あじさいで有名)
桂願寺(昔の縁日の雰囲気?)
回天神社(天狗党義士を祀る)
共同墓地(義士の墓地あり)

水戸東武館(歴史を感じる)
吉田松陰の碑(水戸での滞在先)
会沢正志斎宅跡(新論)
藤田東湖宅跡(弘道館記述義)

水戸駅(終点)

ロングライド~磐梯熱海

2012-10-22 11:25:17 | 自転車
2012年10月20日,常陸太田から磐梯熱海までのツーリングしました。
走行距離は、約140キロ、獲得標高は約1100m。

なぜ目的地が磐梯熱海なのかというと仲間との同期会があったのです。
それでせっかくだから自転車で行ってみようと。

この日は晴天でした。
スカッと青空で,それほど寒くもなく風もなく快適な一日でした。

今回、マウンテンバイクを使用、タイヤが太かったため路面との摩擦が大きく速度が出せませんでした。
もちろんそれは知ってはいたのですが,ロングライドすると体にどの程度の疲れがたまるのか,ツーリングに使えるのかを体で知りたかったのです。
結果,マウンテンバイクは,ロードバイクとはまったく別の自転車だと実感しました。
当たり前ですが,体で知ったというのが大切なのです。
マウンテンバイクはせいぜい走行距離60キロくらいにとどめておくのが無難でしょうね。
それくらいなら,快適です。

今回,紙の地図を用意したのですが,出発前の慌ただしさのせいで家に忘れてしまいました。
それで,iPhoneの地図アプリを利用してみました。
地図アプリを、カーナビみたいに使えるのじゃないかなと。
しかし,期待は禁物です。
途中、棚倉と白河の山道で迷ってしまいました。

本来,考えていたルートは里見,矢祭,塙,棚倉を過ぎてから,浅川方面,そして須賀川へと向かうルートでした。

塙では代官所跡を見学。小さな建物が一つだけ残っています。
解説板に,建物等の配置図がありました。
見ると,白州の位置が書いてありました。建物のすぐ右隣でした。

天狗党の田中愿蔵が,裁きを受けたのは塙の代官所です。
田中愿蔵の部隊は,栃木宿の焼き討ち事件などを起こしたことから天狗党本体から除名処分を受けました。
その後,愿蔵は日立市の助川海防城を占拠し,善戦したのですが,防戦できずに八溝山まで逃げ延び,隊を解散します。
八溝山の中をさまいながら,塙の農家の小屋にたどりつき,捕縛されます。
江戸で裁きを受けたい,そこで自分の尊皇攘夷の主張を堂々と述べたいと主張したのですが,受け入れられませんでした。
そして,近くを流れる久慈川の河川で処刑されました。
国道118号の道の駅はなわの駐車場の南側には,田中愿蔵処刑の地という石碑が建てられています。

その後,北上し,棚倉城跡を見学。
水堀と塁が残っていました。
櫓や天守閣などはありません。
近所の子ども連れが遊具で遊んでいました。

城跡を出たのはよいのですが,住宅地に迷い込んでしまい,方角がわからなくなってしまいました。
それで,アプリを利用。
信じて進むと,だんだんと民家が少なくなり,谷間へと。
上を見ると本来走るはずだったバイパス道路の橋が見えました。

どこかで合流するはずだからと進みました。
途中,自動車が入れないようにとガードレールで入り口がふさがれているところがあったのですが,自転車ならなんとなく行けそうな感じだったのでそのまま進みました。
まったく民家はありません。
谷津田があるくらいです。
稲刈りが終わっていない田んぼを眺めると,黄金色で,風に稲穂がそよいでいました。
風の谷のナウシカの映像が浮かびました。

しばらく行くと,地元のおじさんが散歩していました。
山の中で行き止まりになると困るので,このまま進んでも大丈夫かと尋ねてみました。

おじさんは,こんな道で人に会うことに驚いた様子でしたが,別の道につながっていると教えてくれました。
さらに,進むとたしかに他の道につながっていました。
でも,道につながる手前50メートルからは土が40センチくらいに積み上げられていて通行できませんでした。
自動車が進入しないようにとのことでしょう。
やむを得ず,バイクを担ぎ上げて,ガードレールをまたぎ,横のたんぼ道を使ってなんとか脱出しました。

自分は浅川方面に向かっているとばかり思い込んでいましたが,逆方向。
アプリを見ると,目的地まで48キロ。
アプリなりに最短ルートを割り出してくれたのだろうと思い,そのまま進み,白河の山道に誘導されました。

アップダウンが続きます。
マウンテンバイクは下りの惰性を利用して次の坂を上るのには効率が悪すぎます。
坂の途中,およそ4割くらいからは自力で漕いで上がらないといけません。
華麗にダンシングしながら上りたかったのですが,フィッテイングしていないため,どうもダンシングしづらいのです。

途中,ものすごく小さな交差点がありました。
左へ行けとアプリは指示します。
近道なんだろうと従いました。
行くにつれてだんだんと道が細くなります。
これはどうかなと不安に思っていました。
案の定,1kmくらい進んだら,ついに舗装が切れました。
そこからは,雑草が生い茂る田んぼ沿いの道でした。
さすがに,このまま行くと藪の中に突入し,藪こぎで時間を浪費することもあり得るので,そこで引き返すことに。
その付近は,携帯の電波が入らないので,遭難?すると大変です。

路面の悪いところがありました。
ダンプカーなどのために轍の段差がすごい道がありました。
下手にハンドルを切ると,間違いなく転びますね。
道の悪いところでは,マウンテンバイクの特性が十分に発揮できました。


国道4号線に出てからは,同じような風景が続き,つまらない印象です。


走るなら田舎道が景色も,自動車も少ないのでいちばんです。