とりあえず,1日で巡るとして考えてみました。
数が多いので、きちんと見ると回りきれないと思います。できれば何回かに分けたほうがいいでしょう。
どこをめぐるかを考える際には歴史的視点が大切です。
独断ですが,
ものすごく大雑把にいうと
水戸の歴史は水戸徳川家の歴史といえます。
そのなかでも,
頼房,光圀,斉昭の3人を押さえると,いろいろな史跡をめぐったときに理解しやすいと思います。
水戸藩主は参勤交代を行わず藩主は常に江戸にいました。
ごく稀に水戸へ来るくらいでほとんど江戸暮らしをし,なかにはまったく水戸へ来たことがない藩主もいたとか。
では,3人のお殿様についてのおおざっぱな説明をします。
頼房公は,水戸藩の基礎を固めた藩主です。
業績として備前堀を整備,殉死の禁止,東照宮の建築などがあります。
はげしい性格らしく,家康公から何が欲しいかと聞かれて天下が欲しいと言ったとか。
この時代は,やっと徳川が天下を握った時代です。武力でやっと天下を取ったけれども,いつひっくり返されるかわからない状況にあったと思います。
家康が水戸に子どもを送ったのは,北への防備のためでしょう。北に伊達という油断ならない勢力が存在しますからね。
また,もともと佐竹氏が治めていた土地を引き継いだこともあり,統治する上での苦労もあったろうと思います。
光圀公は,頼房の子で,若い頃は暴れ者でいろいろと悪さをしたようですが,史記の伯夷伝で目覚めたと言われています。
光圀公は,長男でもない自分が水戸藩を継ぐのはおかしいと考え,高松藩主の兄から養子をもらい水戸藩を継がせました。伯夷伝の影響です。
この時代は,徳川の秩序が徐々に形成されいく時期です。安定した社会を実現したい。武力を自慢という世の中ではなくなりつつあったのでしょう。
安定した社会の基礎となる思想や学問が必要とされていきます。
光圀公は,日本に本格的な歴史となる書物を作りたいと考えます。歴史に照らしてものごとを判断しようということです。
それで,大日本史の編纂に着手しました。金食い虫的な事業だったようです。完成は,なんと明治で,どこまで書かれているのかというと南北朝が統一された時期まです。
そのため優秀な学者を彰考館に集めました。テレビで有名な助さん格さんは実は学者です。
光圀公は,儒教を基本にすべきと考えました。それで,乱れた寺院を整理しました。光圀公により廃された寺院は多いのです。
この大日本史が幕末には尊皇攘夷に,それで水戸が幕末の混乱した時期に注目されることにつながります。
おそらく光圀公は遠い将来に尊皇が幕府を倒す根拠となるとは考えもしなかったでしょう。
彼が考えたのは,徳川の支配の正当性をはっきりさせることだったのではないかと思います。
徳川は武力で他を制圧した,しかし,武力だけで支配を正当化することはできません。
根拠が必要です。では,根拠はというと,徳川が天皇から任されたことにある。
では,さらに天皇の正当性の根拠は何かという疑問が出てきます。そこで,歴史を遡り,それを明らかにする。
おそらくこんな感じではなかったでしょうか。
光圀公は,亡命者の朱舜水に学びました。初めてラーメンを食べた人といわれてます。ラーメンは朱舜水から教わったとか。水戸に黄門ラーメンというのがあります。
隠居後は常陸太田の西山に住みました。テレビのように日本全国を漫遊して歩いたというのは事実ではありません。
斉昭公は,いろいろと藩の改革をしました。
この時代、国内では苦しい財政状況,海外ではアヘン戦争などがあり,日本の独立が脅かされるのではないかという時代状況がありました。
そのため、文武奨励,農村復興,武備充実,藩士の土着,藩校及び郷校の建設,軍事演習(追鳥狩),偕楽園の建設に着手。
猛烈な仏教嫌いであったようで,なんと水戸東照宮から寺をなくしたり,大砲を作るために鐘を供出させたりしました。
ちょっとやりすぎたため藩が保守派と改革派で争うもとを作ってしまったともいえます。
井伊直弼と激しく対立。安政の大獄で処分されます。その後,脱藩した藩士らが桜田門外の変をおこします。
ブレインに藤田東湖,会沢正志斎がいました。
尊皇攘夷です。これは,当時の危機的な状況を打破する思想であったわけです。
そのため,ある時代,水戸は全国各地から水戸学を学ぶ人たちが訪れました。吉田松陰もその一人です。
斉昭公の死後,斉昭公のように強力なリーダーシップを発揮する人がいなくなったため,藩内の過激な攘夷論を上手にコントロールできなくなり,混乱、天狗争乱につながりました。
天狗争乱は,横浜の閉港を幕府に求める尊皇攘夷運動でしたが,同時に水戸藩内の改革派と保守派の内紛的要素が強いといえます。
幕末の頃,幕府の政治体制は状況に対応できずメロメロになります。
水戸は,徳川御三家ですから,幕府を倒すということは考えられません。幕府の体制内でなんとか改善措置を講じて危機を乗り切ろうとします。
つまり,尊皇攘夷で体制内改革ということです。
尊皇を強く押し出すと別に幕府でなくとも有能な者がいれば政治を任せりゃいいじゃないのとなります。それが倒幕派です。
水戸の場合は,徳川であるためどうやっても革命まではいかず改革止まりでした。立場的に限界があったわけです。
以下の中でも、特に,弘道館,徳川ミュージアム,偕楽園はゆっくりと見て回っていただきたいと思います。
次のようなところはいかがでしょう。
水戸駅からスタートしましょう。
水戸駅北口(出発)
水戸東照宮(家康公)
銀杏坂の大銀杏(空襲で焼け残った銀杏)
三の丸小学校付近(歴史を感じます)
水戸城土塁,空堀(在りし日の水戸城を思い浮かべて)
弘道館(藩校として有名,斉昭公,慶喜公)
弘道館公園(裏に回ってみて)
大手橋(渡ってすぐに昭和天皇の歌碑)
二の丸 彰考館跡(大日本史編纂の地)
本丸 薬医門(安土桃山時代)
備前堀(下市,水堀)
たまげ橋(水戸街道起点)
吉田神社(常陸三宮)
薬王院(本堂重文)
常照寺(山門よし)
千波湖(白鳥,噴水)
桜田門外の変オープンセット(事件がわかる)
徳川ミュージアム(徳川の宝物)
護国神社(戦没者合祀)
偕楽園(日本三大名園)
常磐神社(水戸光圀公を祀る)
義烈館(小さいながらも宝物あり)
県立歴史館(歴史を学ぶなら)
水戸八幡宮(落ち着いた雰囲気)
祇園寺(禅寺)
保和苑(あじさいで有名)
桂願寺(昔の縁日の雰囲気?)
回天神社(天狗党義士を祀る)
共同墓地(義士の墓地あり)
水戸東武館(歴史を感じる)
吉田松陰の碑(水戸での滞在先)
会沢正志斎宅跡(新論)
藤田東湖宅跡(弘道館記述義)
水戸駅(終点)
数が多いので、きちんと見ると回りきれないと思います。できれば何回かに分けたほうがいいでしょう。
どこをめぐるかを考える際には歴史的視点が大切です。
独断ですが,
ものすごく大雑把にいうと
水戸の歴史は水戸徳川家の歴史といえます。
そのなかでも,
頼房,光圀,斉昭の3人を押さえると,いろいろな史跡をめぐったときに理解しやすいと思います。
水戸藩主は参勤交代を行わず藩主は常に江戸にいました。
ごく稀に水戸へ来るくらいでほとんど江戸暮らしをし,なかにはまったく水戸へ来たことがない藩主もいたとか。
では,3人のお殿様についてのおおざっぱな説明をします。
頼房公は,水戸藩の基礎を固めた藩主です。
業績として備前堀を整備,殉死の禁止,東照宮の建築などがあります。
はげしい性格らしく,家康公から何が欲しいかと聞かれて天下が欲しいと言ったとか。
この時代は,やっと徳川が天下を握った時代です。武力でやっと天下を取ったけれども,いつひっくり返されるかわからない状況にあったと思います。
家康が水戸に子どもを送ったのは,北への防備のためでしょう。北に伊達という油断ならない勢力が存在しますからね。
また,もともと佐竹氏が治めていた土地を引き継いだこともあり,統治する上での苦労もあったろうと思います。
光圀公は,頼房の子で,若い頃は暴れ者でいろいろと悪さをしたようですが,史記の伯夷伝で目覚めたと言われています。
光圀公は,長男でもない自分が水戸藩を継ぐのはおかしいと考え,高松藩主の兄から養子をもらい水戸藩を継がせました。伯夷伝の影響です。
この時代は,徳川の秩序が徐々に形成されいく時期です。安定した社会を実現したい。武力を自慢という世の中ではなくなりつつあったのでしょう。
安定した社会の基礎となる思想や学問が必要とされていきます。
光圀公は,日本に本格的な歴史となる書物を作りたいと考えます。歴史に照らしてものごとを判断しようということです。
それで,大日本史の編纂に着手しました。金食い虫的な事業だったようです。完成は,なんと明治で,どこまで書かれているのかというと南北朝が統一された時期まです。
そのため優秀な学者を彰考館に集めました。テレビで有名な助さん格さんは実は学者です。
光圀公は,儒教を基本にすべきと考えました。それで,乱れた寺院を整理しました。光圀公により廃された寺院は多いのです。
この大日本史が幕末には尊皇攘夷に,それで水戸が幕末の混乱した時期に注目されることにつながります。
おそらく光圀公は遠い将来に尊皇が幕府を倒す根拠となるとは考えもしなかったでしょう。
彼が考えたのは,徳川の支配の正当性をはっきりさせることだったのではないかと思います。
徳川は武力で他を制圧した,しかし,武力だけで支配を正当化することはできません。
根拠が必要です。では,根拠はというと,徳川が天皇から任されたことにある。
では,さらに天皇の正当性の根拠は何かという疑問が出てきます。そこで,歴史を遡り,それを明らかにする。
おそらくこんな感じではなかったでしょうか。
光圀公は,亡命者の朱舜水に学びました。初めてラーメンを食べた人といわれてます。ラーメンは朱舜水から教わったとか。水戸に黄門ラーメンというのがあります。
隠居後は常陸太田の西山に住みました。テレビのように日本全国を漫遊して歩いたというのは事実ではありません。
斉昭公は,いろいろと藩の改革をしました。
この時代、国内では苦しい財政状況,海外ではアヘン戦争などがあり,日本の独立が脅かされるのではないかという時代状況がありました。
そのため、文武奨励,農村復興,武備充実,藩士の土着,藩校及び郷校の建設,軍事演習(追鳥狩),偕楽園の建設に着手。
猛烈な仏教嫌いであったようで,なんと水戸東照宮から寺をなくしたり,大砲を作るために鐘を供出させたりしました。
ちょっとやりすぎたため藩が保守派と改革派で争うもとを作ってしまったともいえます。
井伊直弼と激しく対立。安政の大獄で処分されます。その後,脱藩した藩士らが桜田門外の変をおこします。
ブレインに藤田東湖,会沢正志斎がいました。
尊皇攘夷です。これは,当時の危機的な状況を打破する思想であったわけです。
そのため,ある時代,水戸は全国各地から水戸学を学ぶ人たちが訪れました。吉田松陰もその一人です。
斉昭公の死後,斉昭公のように強力なリーダーシップを発揮する人がいなくなったため,藩内の過激な攘夷論を上手にコントロールできなくなり,混乱、天狗争乱につながりました。
天狗争乱は,横浜の閉港を幕府に求める尊皇攘夷運動でしたが,同時に水戸藩内の改革派と保守派の内紛的要素が強いといえます。
幕末の頃,幕府の政治体制は状況に対応できずメロメロになります。
水戸は,徳川御三家ですから,幕府を倒すということは考えられません。幕府の体制内でなんとか改善措置を講じて危機を乗り切ろうとします。
つまり,尊皇攘夷で体制内改革ということです。
尊皇を強く押し出すと別に幕府でなくとも有能な者がいれば政治を任せりゃいいじゃないのとなります。それが倒幕派です。
水戸の場合は,徳川であるためどうやっても革命まではいかず改革止まりでした。立場的に限界があったわけです。
以下の中でも、特に,弘道館,徳川ミュージアム,偕楽園はゆっくりと見て回っていただきたいと思います。
次のようなところはいかがでしょう。
水戸駅からスタートしましょう。
水戸駅北口(出発)
水戸東照宮(家康公)
銀杏坂の大銀杏(空襲で焼け残った銀杏)
三の丸小学校付近(歴史を感じます)
水戸城土塁,空堀(在りし日の水戸城を思い浮かべて)
弘道館(藩校として有名,斉昭公,慶喜公)
弘道館公園(裏に回ってみて)
大手橋(渡ってすぐに昭和天皇の歌碑)
二の丸 彰考館跡(大日本史編纂の地)
本丸 薬医門(安土桃山時代)
備前堀(下市,水堀)
たまげ橋(水戸街道起点)
吉田神社(常陸三宮)
薬王院(本堂重文)
常照寺(山門よし)
千波湖(白鳥,噴水)
桜田門外の変オープンセット(事件がわかる)
徳川ミュージアム(徳川の宝物)
護国神社(戦没者合祀)
偕楽園(日本三大名園)
常磐神社(水戸光圀公を祀る)
義烈館(小さいながらも宝物あり)
県立歴史館(歴史を学ぶなら)
水戸八幡宮(落ち着いた雰囲気)
祇園寺(禅寺)
保和苑(あじさいで有名)
桂願寺(昔の縁日の雰囲気?)
回天神社(天狗党義士を祀る)
共同墓地(義士の墓地あり)
水戸東武館(歴史を感じる)
吉田松陰の碑(水戸での滞在先)
会沢正志斎宅跡(新論)
藤田東湖宅跡(弘道館記述義)
水戸駅(終点)