岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

末永家、⑤

2007-03-28 19:26:57 | 建見楽学


主屋とは別棟の「百帖座敷」と呼ばれる建物にある襖(ふすま)絵と欄間。
昭和2年の建築と目される。

末永家、④

2007-03-28 19:21:27 | 建見楽学


中庭の状況。
離れへの渡り廊下や風情のある植栽、銘石などがこの建物の歴史を物語る。
いつかの地震で倒れたのか、石灯篭が横たわっている。

末永家

2007-03-28 18:58:19 | 建見楽学


長浜大橋の近くに、この末永家がある。
戦前期に長浜町長だった末永四郎平の家でもある。因みに、彼の退職金を元にして建築されたのが今も残る昭和11年築の旧長浜町役場(現・大洲市役所長浜支所、国登録有形文化財)。

で、この家も赤橋と同じく、戦時中の空襲被害を受けている。座敷の敷居やトイレの白タイルには、その時の被弾跡が今もナマナマしく残る。

ここにも。

2007-03-23 02:21:51 | 土木遺産


目が慣れてくると、相当数の弾痕がアチコチで見つかる。
右岸側だとの親柱、上流側の鉄骨、開閉部の下流側、左岸側だと上流側の鉄骨。
目安はそんなところ。
(因みに右岸左岸は、川の流れる方向、つまり下流に向いて右左。)

戦時遺産としての赤橋。

2007-03-19 23:20:45 | 土木遺産


殆ど知られていない赤橋のもう一つの姿、戦時遺産。

この穴は、戦時中に米軍機の銃撃によって空けられた弾痕である。
長浜は、当時度々こうして空襲を受けている。
高知沖土佐湾の洋上にいる航空母艦から飛び立った攻撃機が呉や広島、松山などを空襲した帰りに長浜上空を通り、その際の機銃掃射だと言われる。
この赤橋にはそうした穴がアチコチに空いていて、その時のすさまじさをリアルに伝えている。

ただ、バスキュール式開閉橋、あるいは国登録有形文化財の説明は、案内看板やパンフレットに書かれているが、こうした地域にとってとても大切な歴史の記憶が、あまりにも説明されていない。
そのことをいつも残念に思っている。

動態保存の勇姿。

2007-03-19 23:05:30 | 土木遺産


赤橋の開閉は、現在はこの角度が最高。
昔は垂直に開閉していたが、戻らなくなる恐れがあり、無理をしないのだそうな。それでもかなり頑張って上げてくれた。

何故こうした割高な橋の計画が当時されたかというと、木材三大積出港として一世を風靡していた長浜は、この上流部に江湖港があり、製材所も数ヶ所あったことによる。船の行き来が今では想像も出来ないくらい頻繁にあったことが最大理由。ともかく、母なる川肱川は、上流から木材や木炭を中心に多量の物資が運ばれて、長浜を豊かにしていた時代だった。
(三大積出港の他の二つは、秋田の能代と和歌山の新宮)

動態保存の赤橋。

2007-03-19 22:54:59 | 土木遺産


予め予約をして、赤橋を開閉してもらった。

警報音が鳴り、しばらくの間交通が遮断される。長浜港に港務所があり、この橋を管理しているのだが、こうして観光用に団体の依頼があれば開閉をしてくれる。粋な計らいだ。