岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

戦時遺産としての赤橋。

2007-03-19 23:20:45 | 土木遺産


殆ど知られていない赤橋のもう一つの姿、戦時遺産。

この穴は、戦時中に米軍機の銃撃によって空けられた弾痕である。
長浜は、当時度々こうして空襲を受けている。
高知沖土佐湾の洋上にいる航空母艦から飛び立った攻撃機が呉や広島、松山などを空襲した帰りに長浜上空を通り、その際の機銃掃射だと言われる。
この赤橋にはそうした穴がアチコチに空いていて、その時のすさまじさをリアルに伝えている。

ただ、バスキュール式開閉橋、あるいは国登録有形文化財の説明は、案内看板やパンフレットに書かれているが、こうした地域にとってとても大切な歴史の記憶が、あまりにも説明されていない。
そのことをいつも残念に思っている。

動態保存の勇姿。

2007-03-19 23:05:30 | 土木遺産


赤橋の開閉は、現在はこの角度が最高。
昔は垂直に開閉していたが、戻らなくなる恐れがあり、無理をしないのだそうな。それでもかなり頑張って上げてくれた。

何故こうした割高な橋の計画が当時されたかというと、木材三大積出港として一世を風靡していた長浜は、この上流部に江湖港があり、製材所も数ヶ所あったことによる。船の行き来が今では想像も出来ないくらい頻繁にあったことが最大理由。ともかく、母なる川肱川は、上流から木材や木炭を中心に多量の物資が運ばれて、長浜を豊かにしていた時代だった。
(三大積出港の他の二つは、秋田の能代と和歌山の新宮)

動態保存の赤橋。

2007-03-19 22:54:59 | 土木遺産


予め予約をして、赤橋を開閉してもらった。

警報音が鳴り、しばらくの間交通が遮断される。長浜港に港務所があり、この橋を管理しているのだが、こうして観光用に団体の依頼があれば開閉をしてくれる。粋な計らいだ。

水族館の水槽。

2007-03-19 22:36:44 | まちづくり


飼うのは、海の魚の方が断然ムツカシイと、生徒が言っていた。それでも、毎日の餌やりから水槽管理など、楽しいと話してくれた。

高校の他にも、街中には民間の私設水族館が数多くあり、協力して水族館のまちづくりが行われている。
こうしたきっかけは、戦前期に名町長西村兵太郎が造った県下初の長浜水族館のイメージが地元の人たちに、今も根強く残っているからだろう。
かくいう岡目八目も、小学校低学年の頃に祖母にその水族館に連れて行ってもらったことがあり、入り口の竜宮城のような建物をぼんやりと覚えている。ある時代、長浜と言えば“水族館”だった。

JR長浜駅のそばに観光案内所があるが、それはその建物を意識したものだろう。(ちょっとあまりにも作りがいただけないが。)

西村兵太郎の銅像

2007-03-19 11:21:07 | まちづくり


長浜大橋建設の立役者である当時の長浜町長西村兵太郎は、現在長浜高校の角地に立派な銅像となっている。
彼は、全国的に見ても当時最先端であった開閉橋というハイテク橋梁をこの地に出現させたばかりでなく、他にも長浜水族館の建設、海水浴場の開設、県下初の水道事業の開始、愛媛鉄道事業の設立、等々のプロジェクトを次々に実施していった辣腕町長であった。
しかも、県議会議長まで兼務し(当時はそんなことも可能だったらしい)、加えて“笑破”という号を持つ俳人でもあった。
地方政治家としては、類まれな文化教養を伴ったスーパーヒーローのような人物。

赤橋(長浜大橋)

2007-03-19 11:06:04 | 土木遺産


ある意味、今日の見学メインでもある赤橋は、現役最古の開閉道路橋として有名であり、地域で愛され続けている“動態保存の橋”。

昭和10年に完成したが、設計は当時シカゴ帰りで新進気鋭の土木エンジニア増田洵。発注者は時の長浜町長西村兵太郎。

予約をしているので、昼前には橋を上げてもらうことになっている。