岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

M大VW(ワンダーフォーゲル)部

2006-08-14 15:18:10 | ノスタルジー
いやはや驚いた。
あれから30年、こういう機会が訪れようとは。
この写真は、現在の現役学生たちが、10名ほどのOBを迎えてくれている光景。

この天狗高原の、この場所で、まさに今から30年前に、私はBC(ベースキャンプ)係りを命ぜられ、仲間と一緒に、各パーティを迎えるための設営準備に追われていた。
当時は、部員も50名は越えていたように思うが、石鎚や剣など四国の山々を、女子班も入れて6パーティが、このBCで集合する計画になっていた。

実を言うと、体育会系のこういう運動部は、イマドキの学生たちからは敬遠されて、とっくに青息吐息の状況になってるものとばっかり思っていた。山登りなどという、どちらかというとダサイと思われがちな倶楽部に、現代の学生たちがそれ程興味を持っているとは思わなかったからだ。
でもこうして夏合宿スタイルが存続し、陣容はかなり少なくなったようだが、それでも昔のままのユニフォームで部旗を持って迎えられると、見事に当時の情景が甦った。
他のOBの方にお聞きすると、やはりと言うべきか、WV部活動の紆余曲折も存続が危ぶまれた時など色々とあって、最近やっと復活しつつあるんだそうだ。特に昔と違って、女性がこうした倶楽部活動は敬遠するのではないか、とこちらは勝手に先入観を持っていたが、意外に女子学生も何人か交じっていて心強い限り。

夜の空いた時間に、岡目八目が持参していた当時の写真アルバムを、現役の四年生部員に見せると、キスリング(横幅の広い布製のザック)や白黒写真に驚いていた。今の部員はアタックザックになっていて、体に合った縦長のタイプ。
で、聞いてみた。「カニ族って分かるか?」・・、ハハ、案の定もう既に死語となっていた。キスリングの形からそう呼ばれていたことなどレクチャー。
他にも、布製であれほど重かったテント(雨天などは重さが倍増)は、軽くて丈夫、カラフルなナイロン製だし、今頃は牧で飯盒炊さんをすることもめったに無いそうだ。もっぱらホエブス(携帯ガスコンロ)での食事準備。時の流れは容赦なく、カルチャーショックに類することも多々あったが、それでも久々に学生時代に戻り、得がたい一時を過ごすことが出来た。

30年振りの一つ上のS先輩にも、予想通りの変わらぬフィーリングを感じ、決して短くはない時の流れが一瞬に埋まってしまった。
第一、この人が山の頂上でキスリングに座り、うまそうにくゆらす煙草の煙に魅せられて、初めての煙草を吸った私である。それ以来、学生時代のハイライトは、山行の際の私の必需品となった。その煙草も今はもう全く吸わなくなって久しいが、当の先輩は、今もヘビースモーカーであるらしい。ともかく、面倒をよく見てもらった先輩だった。


天狗高原

2006-08-14 14:05:40 | 季節感
久々に、天狗高原まで遠出しました。

日本三大カルストの特異な地形が見られる、この愛媛・高知両県境の稜線コースは、標高が千メートルを越える涼しさもあって、夏は大勢の観光客でにぎわう。

ただ、今回岡目八目が出かけたのはワケアリで、何と30年振りに大学の先輩に会う為だった。
かつて、M大学VW(ワンダーフォーゲル)部に所属していたのだが、今年は天狗高原で夏合宿をするとのこと。OBであるS先輩も来られるとのことで、お誘いを受け、一も二もなく出かけることに。

RCお堂

2006-08-10 23:51:47 | 建見楽学
中山にて。

山村集落を巡っていると、こういう風変わりなお堂に出会った。
RC打ちっ放し、と呼ばれるコンクリート製のお堂。
言い方を変えれば、安藤忠雄バリのお堂。
意外にシンプルで、これも悪くないか、と思ってしまった。
南予の野村、城川など、西予市に多い茶堂のスタイルで、三方吹き放しのお堂が、ここ中山にも集落ごとに見受けられ、地方文化の隠れた魅力となっている。

しかも、この地域にはミニ四国、つまり四国八十八箇所巡りのミニチュア版(地四国・じしこく・とも呼ばれる)が3箇所にあり、その内の二箇所では、今も春と夏にお接待の行事が行われている。
写真中央に見える石像は、モチロンお大師さんである。

石積みの命名

2006-08-09 19:55:13 | Weblog
昨日、ヲタ福さんに案内してもらった中山のとある民家。

青石のこういう独特な石積みは、佐田岬半島から大洲、内子、中山エリアに見られます。
節理として、細長く、あるいは扁平に割れる特徴を持つ緑泥片岩は、通常の石積みのセオリーを、ある種無視するかのように積まれているところが面白い。
不思議なのは、同じこの青石の層が走る徳島県の吉野川以南では、よく見かけるのが平積みで、あまりこういう大胆な積み方は見られない。緑泥片岩の石質が、粘性か何か微妙に違うのかどうか、まだ解けない岡目八目の個人的なナゾである。

ともかく昨日は、このタイプの石積みを久々に目の前にして、フイと、今日からこの積み方を「バッテン積み」と呼ぼう、そう決めた私であった。
全国の?数少ない読者の方々も、もしこういうヤツをどこかで見かけたら、即座に「あ、バッテン積みだぁ。」と叫んでもらいたい。

八月の布マルチ稲。

2006-08-09 13:53:24 | 季節感
毎日、とてつもなく暑い日々が続きつつも、昨日が「立秋」。
これから少しは涼しくなっていくと信じたい。

さて、我が家の“布マルチ田”のその後はと言うと、ご覧の生育状況(5日撮影)。愛媛でも地域によっては、旧津島町や愛南町など、お盆に稲刈りをするという所もあるようだが、こちら宇和盆地ではまだまだ。ただ、近くの田でも早い所では既に立派な稲穂が出始めている。

その点うちの稲は全くまだ出穂(しゅっすい)の様子が見られないが、この間、近所の農家の方に凄いことを教えてもらった。
稲の一本を少し手折り、その茎の皮を上から丁寧にはいでみると、下の方からは、
ナントお米の赤ちゃんが出てきた。チャンと稲穂の形になったものが、その細い茎の中に仕込まれている。もういくつもの米粒(もみの形)がその中で連なっている。外観上は見ての通りなのだが、既に稲の内部では秋の実りの時に向けて、しっかりと準備が出来ているワケである。
草取り以外、相変わらずの手間かけずで放ってあるに等しいのに、お天道さんのお陰で米が出来上がろうとしているのを目の当たりにして、少なからず感動した。

それにしても、ホタルイ、三角草、ヒエ、それからこの辺で呼ばれるイモガラ。次から次へと草が生えてきて、根負けしないよう、宇和に居るときは、夕方の30分から一時間ほど、田に入るようにしている。そんな時には、決まってアキアカネの群れが、小さな昆虫を狙ってかやってくる。こちらの草取りを励ましてくれるようでもあり、ナカナカ楽しい時間である。


小森古墳、その二。

2006-08-03 11:12:23 | まちづくり
昔は、植林がそれほど高くなくて、この丘の上から宇和盆地(石城平野)全体が見渡せた。
果たして、小丘が二つ接合したものか、本当に前方後円墳なのか、それらについてもこれからハッキリすることになると思われる。

小森古墳。

2006-08-03 11:06:51 | まちづくり
西予市宇和町山田に、小森古墳と呼ばれる遺跡がある。
場所は、県道宇和・三瓶線から少し入った小丘の上。

目下、宇和盆地の石城(いわき)地区では、赤坂古墳や笠置古墳の発掘をはじめ、「古代ロマンの里構想」ということで、里山をイメージした文化ゾーンの創出が企図されている。
この小森古墳は、前方後円墳として、古来からこの辺りの首長墓と目されてきた。今月、愛大の考古学チームによりその実測調査がいよいよ始まる。本格的な発掘調査は、そうした基礎調査が情報整理されてからだから、来年以降ではあるが、今後の全容解明が待たれるところだ。

昔から地元には国木長者の伝説もあり、また、古代人が海(九州)からやってきて、山越しに平地のあるのを眺めて住みついた、とか、あるいは肱川を遡って来たのではないか、とか色々な想像が巡らされて来た。
その意味では、明らかにされることを望みつつも、ロマンのままであることの面白さも捨てがたく、岡目八目は少し矛盾した気持ちになっている。

因みに、看板に宇和町指定文化財とあるのは、現在は西予市指定文化財となっている。

秋の気配。

2006-08-03 10:52:00 | 季節感
酷暑のさ中、秋の気配も無いもんだが、宇和の持ち山に入ると、こんな光景に出会った。

栗の木に、もう実がなっていたのだ。
桧や杉だけでは味気ないので、余地があったり植え替えの際は、ケヤキなど少しづつ広葉樹を植えるようにしているが、ほんの少し栗を植えた場所がある。
長らく行ってなくて、久々に出かけたら、こうして既に自然の方では秋の準備がされていることに、少なからず驚かされた。

お宝写真。

2006-08-01 10:17:29 | まちづくり
この写真は、西予市宇和町にあるかつての開明学校。
今でこそ国の重要文化財だが、当時はこんなにボロボロだった。

では、当時とはいつか。
入り口に立っている学生服の人物が鍵。
実は、岡目八目の八幡浜高校時代の写真でありまして、あまりにも以前なので、いつか忘れた、ハハ

何でこんなレトロ写真?を出してるかと言うと、目下宇和中町(なかのちょう)にある市の先哲記念館にて、6日の「文化の里まつり」までささやかな写真展をやっていて、町並みの昔が少し分かる仕掛けになっている。
元々「文化の里まつり」自体が、シーボルトの弟子でおイネさんを育てた二宮敬作
など、この地に縁(ゆかり)の先哲を法要することから始まっている。
先月20日、左氏珠山(さししゅざん)の命日に墓参(宇和島)をしたが、彼もその先哲の一人。

開明学校の方は、当時のこういう状態を憂えた宇和の有志によって「(社)宇和郷土文化保存会」が設立され、保存されることとなった。その設立基金が、伊予銀行頭取だった末光千代太郎氏から出ている。
その生家、末光家(清澤屋)は、先年、私費修復がなされ、今も中町にあって景観寄与している。