キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

魔術からの脱却

2007-10-13 03:15:19 | 無宗教主義
人間-それは、その始祖がアダムと呼ばれた反逆の子孫であり、

その最初の妻がエバと呼ばれた誘惑者であり、

その最初の子がカインと呼ばれた殺人者である。

悪い場合にはユダと呼ばれた裏切る者であり、

良い場合でも所詮、ピラトと呼ばれた小人であり、

歴史の長い系列の果てに、メシアを十字架につけた。


神-それは、自分を十字架につける人々のために祈った者であり、

裏切るユダをあえて使徒に選んだ方であり、

ゴルゴダの十字架を己の玉座に選んだ方である。

貧家に生まれることを良しとし、弱き者のために過分の情愛を持ち、

卑下することの中に、己の全能さを定めた方である。


この神と人の鋭い対峙の中で、人の本性があらためて明らかになる。

傲慢と虚栄-身のほどを知らずして自分を高く上げようと欲し、

それゆえに偽りの栄光を求めてやまない存在。

それが、人間の本性である。

神は謙遜の絶下に降って人を救わんとしたのに、

人は傲慢の絶頂に昇って神を蔑ろにせんとする。


神でもない人間が神にならんと欲する、

これ誇大妄想狂である。一種の魔術である。

ある者は自分の全能さを己の能力や外見や事業に求めるが、

それが無理な者は、他の代用物を探して誇大妄想を継続せんとする。

自分の理想を他人に投影し、他人を使って自分を神の玉座に据える。

そうやって現代日本人のような、ネットや家の中(ニート)で自分の全能さを探し、

もしくは社会に出て粘着的な人間関係に安住して、

互いに互いを道具に使って一億総神様となる。


そういう誇大妄想の社会が、社会を誤って導くカリスマを生むのである。

個々の誇大妄想が膨らみに膨らんで、ある時はネロ、ある時はカリグラ、

ある時はナポレオン、ある時はヒトラー、ある時はムッソリーニを生む。

誇大妄想の魔術から脱却しない限り、健全な社会の建設は不可能なのである。

私がブログにてキリスト万歳を唱えるのは、

何もキリスト教が好きだからとか、神学が趣味だからとか、

あるいはキリスト教的な洗練されたイメージが好きだからでもない。

キリストを受け入れるか否かは、健全な社会を望むか否かの分水嶺だからである。



エリヤは言った。
「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。
私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である」
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そこで、彼らは与えられた雄牛を整え、
朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。
「バアルよ。私たちに答えてください」
しかし何の声もなく、答える者もなかった。
そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。
「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。
きっと何かに没頭しているか、席をはずしているのか、旅に出ているのだろう。
もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう」
(列王記Ⅰ24~27)



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