キリストの内にとどまる時、人に罪の意識はない。(ヨハネ伝15-4)
しかしキリストから離れる時、人にすぐさま罪の意識が生じる。
たとえ罪の贖いを自覚したキリスト者であっても・・・。
キリストから離れる、そしてキリスト以外のもの-事業・友人・教義-に心惹かれる。
一度生じた罪の意識は、キリスト以外のものを知れば知るほど熾烈さを増す。
ここでサタンは攻撃の度を深め、彼の境遇を悪くし、罪の意識 . . . 本文を読む
ヨブ記において、年長者のエリファズは言う。
「善人は報われ、悪人は不幸な目にあう」と。(ヨブ記15-20)
本当にそうだろうか?
そう思いたいだけではないのか?
この世にも何か確固とした法則があって、自分の為した善は必ず報われ、
悪は必ず報復される、そう思うことによって、安心したいだけではないのか?
しかし現実はどうか?
善人が虐げられ、悪人が大成功し、善人が黙し、悪人が跋扈する、
. . . 本文を読む
もうクタクタだ。
最近、余りにも多忙な仕事の量に、本当にクタクタだ。
学習塾の校舎を移転したり、会社の代表になって色々と計画したり、
調整したり、動き回ったりと、心身ともにクタクタだ。
毎朝6時30分に起きて、夜の10時30分まで、
物を運んで、汗をかいて、頭を使って、子どもと接して、
一日の終わりには、疲れきって頭を垂れて帰る日々。
疲労困憊とはこのことである。
疲れきって自宅 . . . 本文を読む
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、
あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私捕えます。(詩篇139-7~10)
たとえ私が、下っ端の労働者としてボロ雑巾のように使われていよう . . . 本文を読む
最近の日本社会はどうかしている。
官僚は己の業務を遂行することができず(社保庁の怠慢)、
政治家は自党の繁栄しか願うことができず(自民党の憂慮)、
教師は児童を食い物にし(ロリコン教師の跋扈)、
宗教家は胡散臭い教義を公然と語り(カルト教団の拡大)、
母親が子どもを殺し、少女が学校で出産する時代である。
日本だけではない、世界もそうである。
アメリカは正義の名のもとに世界秩序を乱し、 . . . 本文を読む
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、
真中に置いてから、イエスに言った。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーゼは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。
ところで、あなたは何と言われますか」(ヨハネ伝8-3~5)
人は道徳をもって、わが身を責める。
そして私の良心も、道徳をもってわが身を責める。
私は内より外より、道徳 . . . 本文を読む
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走っているのです。(ピリピ書3-13・14)
人生とは、栄冠目指して走るレースである。
ゴールに待つ者は、われらの主イエス・キリスト。
彼が授け . . . 本文を読む
私は、イエス・キリストが再臨されることを信じる。
彼が再び来たり、私たちをキリストに似たものとし、
善悪の裁きを行ない、神の国を地上に打ち立てることを信じる。
再臨が正統的なキリスト教の教義だからではない、
確固とした理由があって、私は真剣に信じる。
. . . 本文を読む
我は、自分のことに精一杯で他人のことを顧みず、
他人が自分を知ってくれないと日々嘆く人間。
むしろ他人の失敗と弱点を指摘し、
それが無理ならば心の中でほくそえむ人間。
「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ伝23-34)
しかし彼は、他人のために自分の生命を投げ出し、
十字架の死に至るまで他人を救わんとした人間。
むしろ他人の罪をた . . . 本文を読む
人それぞれに苦しみあり。
その苦しみを理解できずして、本当に人を憐れむことはできない。
経済的不安を抱く者に対して、貧しさを一度も知らぬ者は、
決して憐れむことはできない。
持病に苦しむ者に対して、一度も病気にかかったことのない者は、
決して憐れむことはできない。
もちろん、同情することはできる。
自分の進むべき道の途上で、道の路肩に倒れている者を、
やっつけ仕事で同情することはで . . . 本文を読む