遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

立原道造ノート4

2019-09-24 | 近・現代詩人論
立原道造ノート4


ここまで立原道造の短歌習作期の歌をあれこれみてきたが、やがて詩と物語(小説)への契機が同時に訪れるというのも珍しいのではないかとおもう。その前の見ておきたいのは、自らの歌に「実相に観入して自然・自己一元の生写す」という斉藤茂吉の歌論を自らの歌の定義にしようとしていることは注目に値する。内面の真実と外部に現実とを一つの対象として、それは同時に把握する支店を宮中するリアリズムの優位をみとめながらも、淡い夢とほのかなあこがれの気分とを、短歌における「通有性」と認められるものに支えられていることにたいしての、自らの歌へのひそかな自負の念を披瀝しているきがする。後年数年のうちに立原道造はめざましい技巧の進歩と開花を見せることになるが、そのことの予感でもあったろうか。
 さらにさかのぼって、昭和二年の中学時代の出来事に注目してみたい。というのは府中第三中学校の先輩、芥川竜之介が自殺した事件にふれて、当時一年生であた立原はおよそ一ヶ月後に国語の教師の橘宗利に、次のような手紙を書き送っている。

芥川先生の死、夏休みが始まるとすぐ起つたあの出来事、僕があのことを知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も「ある友人に送る手記」の全文、抄出思  ひ思ひに掲げ、在りし日の氏の写真、さうして氏の略伝を添えへて有つたのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして、文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安らかなれとお祈りをいたしました。 併し、どうしてあんな偉い先生が、またどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの 偉い先生だから人生の奥底まで見つめられ、人生というふものに対して或る淋しい感、自然と比べ て短い命を嘆かれああいふことをなったのでせうか。

満十三歳の少年にしては早熟といってもその自殺の真相はみぬけるはずもなんく素朴な驚きのままの表白を先生に送ったのであろうが、この事件をかなりみじかなものとして受け止めるひとつの契機にし

て思春期における人生究極の問題とかかわらせる思いの深まりいく課程となったことはうたがいもない。この頃から漠然とながら死について考えていて不思議ではない。こうした孤独な魂をなぐさせるかのように歌にのめり込んでいく。
だがこうした短歌への熱中も、詩や物語(小説)へと興味の対象が移っていくことによって短歌は下火になっていく。このあたりは堀辰雄との出会いによるものなのか、短歌を四行に分けて書き乍ら、自らの内面が短歌では満たされなくなっていったからか、いずれにしても興味の対象が変わったことはじじつである。
「だいたい、たんかをつくるのはひきょうだぞ、ちゃんと五七五七七とうまくつくれるようにできて居るじゃないか。詩はそんなふうにはいかないんだ。七五兆で作るとか自由詩でいくならかんたん  だけど口語で提携しをつくろうというのは、そんななまやさしいことじゃない。ほんとうに、そういうものが出来るかどうか、その可能性さえまだはっきりしていないんだから。」数年後に立原が親しい友人の杉浦明平にかたったと伝えられていることばである。(杉浦明平「立原道造」)
このような言葉の裏には歌から詩へと移行する意識の決定的な意思を読み取ることも出来よう。まもなく詩と物語へ急速に傾斜していくことになる。                    

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