今日から、再掲になります。よろしくお願いします。(以前に投稿した文章)
立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。
それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。
立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。
(つづく)
立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。
それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。
立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。
(つづく)
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