遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

立原道造ノート③

2019-09-21 | 近・現代詩人論
立原道造ノート(三)短歌から詩へ
         


 立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったのである。」
 このことは逆に立原が詩の形式というものにことさら敏感であったが、一方で、表現すべき自己というものをほとんどいっていいくらいもっていなかったことの譬えでもあろう。新形式の問題は。おそらく詩人としての生き方の問題として微妙に反映してくることになる。 昭和七年の一月に一高短歌会に初めて出席して翌月には「第一高校学友会雑誌」三三五号に「青空」を発表してる。三月から四月の初めてのかけては、僚友と川端康成の「伊豆の踊子」にある道にそって伊豆を徒歩旅行する。またこの夏には堀辰雄の詩集にであう。また、以前北原白秋に出会ってからは道造の短歌は白秋色のこいものになっていくのだがその頃は前田夕暮の歌をよく読んでいて、この二つの言語規範の間で揺れ動いていた。
そうした試行錯誤の過程で作られた短歌をここにしめす。


交番の中で
巡査があくびした。
息が、白く消える雨降りだ。

生といふが
それさえいまはいっしゅんまえのことです。
これがしなのか。

原稿を書き乍ら
蝉を窓に聞いて居る。
秋晴れの日だ。

鍬で、鍬を、
アノンアノンと打つといふ。
月が西に廻りかげがのびてる。



このような破調の歌が多い。これは初心者ではなかなかかけないものである。この破調そのものを理念とするような規範があるからこその歌形式であろう。右の一首の交番の巡査があくびをしたら、その息が白き雨の中に消えたという形象は、やや俳句的なものだが詩人の表現を支えているのは、従来になイメージを描くことによって従来にない新しさを演出しているという意識があって、表現における衝動といったものがあるわけもない。むしろ表現したいものがなにもないということがこの風変わりな表現を生み出しているようにみえる。。この風景を見ている作者の視点はあるのだが、だからといって表現の主格たり得ていない。これはまさに非人称の詩であって、この非人称性をつくりだしているのは、意識的であるなしにかかわらず「モダニズムという表現の装置なのである」(郷原宏)

四種目の「アノンアノン」という擬音語の効果を狙ったおもしろさも月が西に傾きかけているという具体的な叙述によって、訴えてっくるものがあろうか。また「のびている。」というべきところをわざと「のびてる。」と舌足らずに現することによって、口語らしさをいっそう強調するためであったとみえる。
 やがて短歌から詩へを移行をする立原道造について、私はなぜなのか、考えがおよばなかったのだが、このことは郷原宏が次のよう短歌との別れにいたる状態を際立った評論によって論じている。
 「立原道造はおそらく鋭敏な感受性によって、いちはやくこの虚無にきづいていたにちがいない。だから彼は安じて古い規範に身をゆだねることができたのである。そしてそのとき立原道造における歌のわかれは、もはや決定的な段階に達していた。」
 立原はこの後もしばらく口語自由律短歌を書き続ける。それはすでに短歌というよりは詩に近い短歌であった。
  そのまえに忘れてならないのはやはり淡い初恋の記憶の経験が、以後の立原の記憶の中で何度も呼び戻され反芻されていく過程で、やがてひとつの愛の形へと結晶していったことはわすれてはならないことであろう。

  もちの木に
  ヒサコカネダと彫りつけて
眺めあかずに見つめ居しかな。

片恋は夜明淋しき
夢に見し久子の面影
頭にさやか。

ぬばたまの
かみもさやけきHの字
はつかによみしか日の心。

 この歌には恋人同士の心の通い合いというのではなく、ただ一方的な思い込みだけが悩ましく波打っているのである。やがて少女久子の面影はいくつかの時の回廊を通り抜けて、生まれた詩集の中のたとえば「私らは分かれるであろう しることもなしに/しられることもなく あの出会った/着物やうに私らは忘れるであろう/水脈のように」にどこか呼応しあっているようにみえてくる。
さらに短歌は現実における対象との距離が次第に大きくなってゆくのに比例して、幻への依存度がそれだけつよくなっていく。空疎な修辞と口語の多様とがこのことをものがたっていよう。遠ざかっていく少女の代償として定型としての短歌の技巧はいっそう習熟していくようすをうかがいしることになる。

  君がため
  ここほそ??物思ふ
  泣きぬれしほほの冷たさ悲し。

吾妹はあでにうれしき
吾妹をわれ慕ひそめ
はやひととせ

秋の夜のうすらさむさに
  吾妹をはつかに思ひ
心みだるゝ。

恋すてふ我名は悲し。
  我が思ふ久子も知らず
ひとり苦しむ。

ここまで立原道造の短歌習作期の歌をあれこれみてきたが、やがて詩と物語(小説)への契機が同時に訪れるというのも珍しいのではないかとおもう。その前の見ておきたいのは、自らの歌に「実相に観入して自然・自己一元の生写す」という斉藤茂吉の歌論を自らの歌の定義にしようとしていることは注目に値する。内面の真実と外部に現実とを一つの対象として、それは同時に把握する支店を宮中するリアリズムの優位をみとめながらも、淡い夢とほのかなあこがれの気分とを、短歌における「通有性」と認められるものに支えられていることにたいしての、自らの歌へのひそかな自負の念を披瀝しているきがする。後年数年のうちに立原道造はめざましい技巧の進歩と開花を見せることになるが、そのことの予感でもあったろうか。
 さらにさかのぼって、昭和二年の中学時代の出来事に注目してみたい。というのは府中第三中学校の先輩、芥川竜之介が自殺した事件にふれて、当時一年生であた立原はおよそ一ヶ月後に国語の教師の橘宗利に、次のような手紙を書き送っている。

芥川先生の死、夏休みが始まるとすぐ起つたあの出来事、僕があのことを知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も「ある友人に送る手記」の全文、抄出思  ひ思ひに掲げ、在りし日の氏の写真、さうして氏の略伝を添えへて有つたのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして、文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安らかなれとお祈りをいたしました。 併し、どうしてあんな偉い先生が、またどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの 偉い先生だから人生の奥底まで見つめられ、人生というふものに対して或る淋しい感、自然と比べ て短い命を嘆かれああいふことをなったのでせうか。

満十三歳の少年にしては早熟といってもその自殺の真相はみぬけるはずもなんく素朴な驚きのままの表白を先生に送ったのであろうが、この事件をかなりみじかなものとして受け止めるひとつの契機にし

て思春期における人生究極の問題とかかわらせる思いの深まりいく課程となったことはうたがいもない。この頃から漠然とながら死について考えていて不思議ではない。こうした孤独な魂をなぐさせるかのように歌にのめり込んでいく。
だがこうした短歌への熱中も、詩や物語(小説)へと興味の対象が移っていくことによって短歌は下火になっていく。このあたりは堀辰雄との出会いによるものなのか、短歌を四行に分けて書き乍ら、自らの内面が短歌では満たされなくなっていったからか、いずれにしても興味の対象が変わったことはじじつである。
「だいたい、たんかをつくるのはひきょうだぞ、ちゃんと五七五七七とうまくつくれるようにできて居るじゃないか。詩はそんなふうにはいかないんだ。七五兆で作るとか自由詩でいくならかんたん  だけど口語で提携しをつくろうというのは、そんななまやさしいことじゃない。ほんとうに、そういうものが出来るかどうか、その可能性さえまだはっきりしていないんだから。」数年後に立原が親しい友人の杉浦明平にかたったと伝えられていることばである。(杉浦明平「立原道造」)
このような言葉の裏には歌から詩へと移行する意識の決定的な意思を読み取ることも出来よう。まもなく詩と物語へ急速に傾斜していくことになる。                    

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