遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡-古賀メロディ-

2017-10-06 | 昭和歌謡曲の軌跡
村島帰之が昭和4年に「カフェ!へ酒を飲み、料理をたべにくるというよりは、むしろ、状況を食べにくるといふのが適当である」(「カフェー」)と書いたカフェーの全盛もこうした時代相と無縁ではありません。
明治末に画家や文士の憩いの場所として松山省三が開業したカフェーは、昭和5年4月の報知新聞が報じたところによれば、東京で8000軒近くを数え、女給の数一万8500人を越え、サラリーマンの急速の場所ともなったとあります。ライオン、タイガー、サロン春、ジャポン、ルパン、サイセリヤ、ゴンドラ、等々…。


当時のヒット曲「君恋し」道頓堀行進曲「浪速小唄」「女給の唄」などそうしたカフェーや女給、あるいはそれらに象徴される都会風俗を主題とした作品でした。また「唐人お吉」や「侍ニッポン」も映画化されてそれぞれヒットし、かなりのエピソードもありますがここでは省略します。

●古賀メロディの登場


昭和6年9月19日の勃発した満州事件。現在ではこの柳条溝(湖)爆破は関東軍によって計画され、特務機関付の今田準太郎大尉により実行されたことは明らかになっていますが、当時の人々はもちろんなにひとつ知らされていません。

武力を持って満蒙の生命線を守り、直接行動をもって国家改造を行わなければならないとする思想が、急速に台頭し、複雑な絡み合いが、外に対して満州事変を引き起こし、内にあっては二・二六事件への道となります。

この時期、この時代を見事にうつして急降下の世界に古賀政男が登場します。先に、古賀メロディーの特徴は書きましたからここでは省きます。
大ヒット曲「酒は泪か溜息か」がいかに当時もてはやされたかについては、この歌をテーマに松竹蒲田が「想ひ出多き女」という映画をつくったこと、この人気に便乗して「夢は泪か想ひ出か」と言う歌がつくられ、これに対して昭和9年4月14日に東京地裁が著作権侵害を認める判決をくだしていることなどからも察知されます。
この歌の大ヒットの余波は、まだ音楽学校在学中であった藤山一郎(本名増永丈夫)が、禁を破ってアルバイトをしたことが学校側に知れ、退学処分になるところを乗杉嘉寿校長の温情で、卒業までレコード吹き込みをしない旨の誓約書を入れて
一ヶ月の停学処分で済んだというエピソードもあります。

藤山一郎が池田憲一の語ったこととして「すでに吹き込んだレコードの曲目リストも一緒に提出させられたが、そのリストに入れておいた「影を慕ひて」は実はまだ吹き込んでおらず、翌7年早々に市政会館二階のスタジオであわてて吹き込んだそうです。なんでも「みぞれの降りしきるひどく寒い日でした」と述懐しています。

こうして古賀政男の属するコロムビアと、西条・中山晋平を擁する日本ビクターとはライバルとして激烈なヒット合戦を展開することになります。
この時期、単に歌手のみでなく、作詞、作曲家もレコード会社の専属となり、ヒット曲をつくる、と言う体制が強化され、同時に一つの歌に対する歌唱はひとりの歌手のみを原則とする形が、以来一般化してゆくのです。

古賀メロディの原点ともいわれる「影を慕ひて」は周知の通り、昭和3年、自ら創立した明大マンドリン・クラブの秋の演奏会(古賀政男にとっては在学最後の演奏会だった)に、佐藤千夜子が歌い、彼女の推輓により昭和4年ビクターから発売されたが、話題を呼ばず、7年に藤山一郎のものがコロムビアから発売されヒットした歌でありました。
(つづく)


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