近代詩人論は最近は余り活発ではない。いま、詩人論は時代から外れてしまってみむきもされなくなったのかもしれない。
でも、続けていくと決めているので、宜しくお願いします。
森の宝庫の寝間に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のような眼を持って、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。 (「藍色の蟇」全行)
この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模様だ。
「藍色の蟇」では、森はたしかに動植物にとっては宝庫といえるだろうか。藍色という発想も詩人らしい。藍色の蟇は、作者の想像物だと思うが、蝦蟇という一見、背中がぶつぶつ突起した気味の悪い生物と一般的には嫌われやすい生物と思うがその「蟇」に何を夢見ようとしたのか。黄色い息を吐く、ということで、視覚が嗅覚へと写り「ひつの絵模様をかく」とふたたび視覚の世界を呼び覚ます。それはまた「暗い暖炉」に火をつけて暖をとるといったほのぼのとした安堵感をもたらす意味につながっていく。この詩の主人公である「太陽の隠し子のようなひよわな少年」は、作者のことと受け止めることも出来るが、行くよ行くよと勇ましくではなく、いさましげである。「空想の狩人」をひ弱な少年はひきつれて狩り出かけるというのか。太陽の隠し子である少年は「美しい葡萄のような眼を持つ」といわれて、ふと短歌の春日井健の「未成年」が脳裏をよぎった。
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり 春日井健
旅に来て惹かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子 右同じ
大手拓次より四分の一世紀後の歌人が二十歳の時に発表し三島由紀夫に絶賛されたという短歌を振り返える。大手拓次が生涯妻を娶らなかったということが、童貞という春日井健のみずみずしい歌をふりむかせた。だがこの歌は大手拓次はしるよしもない。私の勝手な想像でしかないのだが、白秋を深く敬愛し、白秋の歌誌に作品を発表し続けた十五年という歳月、おどろくことには、ただのいちども訪れたことがないという極端に顔みしりなのか、内気な性格が、憂鬱な幻想の世界で夢想にみちびかれ、ただひとり詩を書き続けることに何の悔いるところがなかったのだろう。逆に言えば詩作しつづけることの強靱な意志の強さを感じることになる。大手拓次の詩の世界を鮎川信夫は次のようにのべている。
「性的抑圧者に特有の官能への執拗なもだえを秘めており、そこに純血なものに焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義とが同居していて、その世界をいやがうえにも特異なものにしている」。
つまり「純血に焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義」が同居しているということである。
大手拓次の詩的世界は、病的な異常感覚の世界に見えるということだろう。だが異常の世界を異端者として非難するつもりはまったくない。
それどころか閉ざされた幻想の世界でじっと耐えるように自らの詩的世界をつむぐ。耐えるということばをつかったが、大手拓次は耐えることが苦痛ではなく、ひとり孤独の部屋でたとえば、美しいみどりの蛇の妄想とたわむれていたというまえに、大学を卒業するまで美少年を愛し続けたと云うことと無関係ではないのだろうか。
でも、続けていくと決めているので、宜しくお願いします。
森の宝庫の寝間に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のような眼を持って、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。 (「藍色の蟇」全行)
この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模様だ。
「藍色の蟇」では、森はたしかに動植物にとっては宝庫といえるだろうか。藍色という発想も詩人らしい。藍色の蟇は、作者の想像物だと思うが、蝦蟇という一見、背中がぶつぶつ突起した気味の悪い生物と一般的には嫌われやすい生物と思うがその「蟇」に何を夢見ようとしたのか。黄色い息を吐く、ということで、視覚が嗅覚へと写り「ひつの絵模様をかく」とふたたび視覚の世界を呼び覚ます。それはまた「暗い暖炉」に火をつけて暖をとるといったほのぼのとした安堵感をもたらす意味につながっていく。この詩の主人公である「太陽の隠し子のようなひよわな少年」は、作者のことと受け止めることも出来るが、行くよ行くよと勇ましくではなく、いさましげである。「空想の狩人」をひ弱な少年はひきつれて狩り出かけるというのか。太陽の隠し子である少年は「美しい葡萄のような眼を持つ」といわれて、ふと短歌の春日井健の「未成年」が脳裏をよぎった。
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり 春日井健
旅に来て惹かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子 右同じ
大手拓次より四分の一世紀後の歌人が二十歳の時に発表し三島由紀夫に絶賛されたという短歌を振り返える。大手拓次が生涯妻を娶らなかったということが、童貞という春日井健のみずみずしい歌をふりむかせた。だがこの歌は大手拓次はしるよしもない。私の勝手な想像でしかないのだが、白秋を深く敬愛し、白秋の歌誌に作品を発表し続けた十五年という歳月、おどろくことには、ただのいちども訪れたことがないという極端に顔みしりなのか、内気な性格が、憂鬱な幻想の世界で夢想にみちびかれ、ただひとり詩を書き続けることに何の悔いるところがなかったのだろう。逆に言えば詩作しつづけることの強靱な意志の強さを感じることになる。大手拓次の詩の世界を鮎川信夫は次のようにのべている。
「性的抑圧者に特有の官能への執拗なもだえを秘めており、そこに純血なものに焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義とが同居していて、その世界をいやがうえにも特異なものにしている」。
つまり「純血に焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義」が同居しているということである。
大手拓次の詩的世界は、病的な異常感覚の世界に見えるということだろう。だが異常の世界を異端者として非難するつもりはまったくない。
それどころか閉ざされた幻想の世界でじっと耐えるように自らの詩的世界をつむぐ。耐えるということばをつかったが、大手拓次は耐えることが苦痛ではなく、ひとり孤独の部屋でたとえば、美しいみどりの蛇の妄想とたわむれていたというまえに、大学を卒業するまで美少年を愛し続けたと云うことと無関係ではないのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます