遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡

2017-12-16 | 昭和歌謡曲の軌跡
女流関東節の第一人者で早くから歌謡浪曲に意欲を燃やしていた二葉百合子がキングの専属となって独自の境地をひらき、やがて「岸壁の母」をリバイバル・ヒットさせ、浪曲ファン以外にもその存在を知られることになる。

九州熊本在住の文芸浪曲家華井新に師事し華井新十郎として人気を持っていた真山一郎は、昭和32年上京して豊田一男について歌謡曲を学び、、35年キング専属となり「刃傷松の廊下」で脚光をあびる。

初代天光軒満月の弟子で優月と名乗っていた大木伸夫は、三波、村田に続く第三の男として37年「青年よ大志を抱け」でポリドールよりデビュー、派手な人気は出なかったが、師の小池青磁作曲の「涙の酒」は、今なお歌い継がれて数多くの歌手がレコードにしている佳曲である。

天津羽衣の「お吉物語」、59年に競作となった二代目木村友衛の「浪速節だよ人生は」などは、これからも一種の演歌スタンダードナンバーとして残るであろう。

三代目玉川勝太郎も、福太郎時代から流行歌を意欲的に吹き込んでいるし、「呂昇物語」屋「父ちゃんのポーが聞こえる」などを十八番にする松平洋子湖もいるし、「会津の小鉄」などの京山幸枝若、二代目春日井梅鶯も健在である。今は第一線をひいてはいるが扶養軒麗花の「両極炭坑節」も見過ごせない。

浪曲出身ではないけれども。北海道から上京し、浅草で流しをしていた双生児のこまどり姉妹の作品をみても、いかに日本人の心情に浪曲的思考が根強く残っているかがよくわかるだろう。
彼女たちについて語られる履歴は、~都会と地方の格差であり、消費革命の中の貧しさの強調であり、純朴さとデビューまでの苦労話の強調~にしてからがひどく浪花節的である。
「浅草姉妹」にはじまる一連のヒット曲はすべてハーモニーでなくユニゾンで歌われる。そこには伝統的な流行歌への回帰があり、同時期、やはり双生児コーラスとして話題を集めたザ・ピーナッツのハーモニーと対照的様相を示している。
それは、こまどり姉妹の「未練ごころ」とざ・ピーナッツの「大阪の女」を比較するとさらにはっきりする。

死ねといわれりゃ 死にもしょう
それ程あなたが 大好きでした
私はやっぱり だめなのね
あヽだめなのね
忘れたいのに 今日もまた
夢であなたに 逢いました
(西沢爽作詞、遠藤実作曲「未練ごころ」)

まるで私を 責めるよに
北の新地に 風が吹く
もっと尽くせば よかったわ
わがまま言って 困らせず
啼いて別れる 人ならば
(橋本淳作詞、中村泰士作曲「大阪の女」)

「未練ごころ」に描かれる女性は、ただひたすら待ち耐えることを知っている。未練の中に身を沈め、あふれる涙を糸切り歯を噛んでこらえて、ただ、待つ。「大阪の女」のヒロインは〈夢を信じちゃいけない〉と自分に言い聞かせ、〈悪い噂も聞いたけど〉私には優しかったからそれでいいし、〈何かいい事起きるから〉京都あたりに行こうとする。比較した場合、前者が義理人情を生活の規範とした女性の女らしさを描いてることは明瞭だろう。
遠藤実というヒットメーカーがこまどり姉妹に託したものは、まさに伝統的演歌の再現であった。
こうした浪曲的世界は、北島三郎、都はるみと言った演歌の担い手たちに受け継がれて、現在もいきつづけていると言ってもいいだろう。

次回は「安保闘争が残したもの」を書きたいとおもう。

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