遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

星と砂と-日録抄・瀧口修造論のためのメモ

2017-10-05 | 近・現代詩人論
 瀧口修造の『星と砂と日録抄』には、浅草と新宿というふたつの街が、夢みる現場のように現れる。銀座や渋谷ではない、まして六本木や赤坂、麻布界隈ではない。それは偶然のようにふたつの限定されたこの場所は、あたかも取りかえしのつかない未生の夢が降る街であるかのように、氏の創造の現場をうつしだすからだろうか。


 それは「星と砂と」いう物質の夢。鳥や植物という儚い命がかがやく夢。あるいは「現れる自然、消える自然」の中で生きぬく人間たち。おそらく私たちの綱渡りのような「存在証明と不在証明」の接線をみつめながら、その可能性を問うのだけれど。瀧口氏は、「あの頃は、カミナリ・オロシが空へ舞いあがったものだ」と思わせる仲見世での懐かしい夢から覚めて、いきなり、太平洋戦争でついに還らなかった若い画家の大塚耕一を偲びながら「彼はなぜ最後に、淡いタッチで、誰も乗らない自転車など描いたのか。」と、書きしるすその哀悼が胸にしみるだろう。
自然は隠れることを好む。
ヘラクレイトスを読んで以来、なぜか私はこの言葉を時折想いだす。
然しその意味は微妙である。
 と、イヴ・パティスティーニの簡潔な訳文が、瀧口氏を恣意的な連想に誘うらしい。(その註記のとおり)瀧口氏は、意味の契機や受け取り方に微妙な差のあることを告げる。この湿り気のない乾いた言葉はどこからくるのか。肯定も否定もせず、ただ中間項であろうとするかのような留保という思惟による不断の思索。さらに、星も砂もたんなる物質ではないもう一つの輝かしい生命体でもあるかのようにその語源を科学的に探ろうとする。
 言葉に絶体の純度を求めてやまない瀧口氏の意志の強さあるいは脆さが光源化するのだ。

星にも一生があると謂う
石にも成長があると謂う
〈略〉
醒めた夢は
おのれの掌が五つの運命を
指さすのを知る 
見えぬ引力に支えられながら
この透明を(「星または石」より)       

 「星または石」というこの言葉の強度な透明感は「肉眼の夢」ではけっして見えないものかもしれない。地上に墜ちてくる鳩や雀を目撃することはあっても、それはまれであり「彼らは、どこへ、みずから姿を消すのか。自らの死を隠すかのように。」確かに自然の死の姿は私たちには見えない、まるでだれかの手によって隠されているかのようにだ。
あるいは、「枯葉は植物の部分死か! 」
 この小さな一行の問の向こうには自然の摂理を超えて見えてくるものがあるのだろうか。「時間を領有することのできぬ人間が、空間を領有することができるか?」という瀧口氏の問は、なぜか問のままである。はじめから答を求めない問。問の中に潜む答さえ期待しない。それは、かつて世界の時空間の中で沈黙を強いられた自由という束縛の恐怖から永遠に逃れられないといった悲しみのせいかもしれないと思う。あまり旅行をしないたちの瀧口氏が「新宿の地下道で、与論島のスター・サンド(星砂)といって、学生風の男から、ひとつまみの白っぽい砂らしいものを買った。私は、こうしたものの存在も名前すら知らなかった。」と、夜、帰宅して、半信半疑ながら星型の微粒を顕微鏡で見ておどろく。
 「この骨片のような星形」の存在に、瀧口氏は無言の衝撃を受ける。そして、そこから無限のように思惟が発展していくのだけれど。「これは岩石から削がれ、水に流され、波にもまれた海辺の砂ではない。おそらく珊瑚礁あたりの生物の残骸ではないかと想像したが、私にはすぐ確かめるよすがもない。」この好奇心に満ち満ちた現場から生まれた言葉から、詩人の歓びのようなものまでが感じとれる。

夜 私の肉眼の夢が魅せられたもの/何処から見ても/すべての角度が五つの稜線で支えられた/水晶/それはすべてを指で示している/人の生と性の運命のすべてを(「星または石」より)

 右の引用は冒頭の詩「星または石」の二連目である。「星砂」は、その形状や存在について訪問客のたれかれとなく話題にするが、確かなことは分からず、意を決して科学博物館に訊く。
 「私は意を決して科学博物館の普及課を訪ね、そこで分館の小菅技官に紹介された。」この行動力にまず驚いた。「訪ねるまでもなく、即座に快答をいただけた。要するに、これは海中に住む原生動物の一腫で、有孔虫目で、単細胞のアメーバの類の残骸、ということである。」とその正体が分かる。(このことは無知な私自身も初めて知った。確かに、アメーバの残骸には驚いた。)



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