遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

大手拓次再読3田中勲

2019-11-01 | 近・現代詩人論


前号の続きです。

陶器製のあをい鴉
なめらかな母音をつつんでそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。        (「陶器の鴉」)

神よ、太洋をとびきる鳥よ、
神よ、凡ての実在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲の肉体よ滅亡せよ、       (「枯木の馬」)

ある日なまけものの幽霊が
感奮して魔王の黒い黒い電動の建築に従事した。          (「なまけものの幽霊」)

かなしみよ、
なんともいへない、深いふかい春のかなしみよ、
やせほそつた幹に春はたうとうふうはりした生き物のかなしみをつけた。 (「春のかなしみ」)

もじゃもじゃとたれた髪の毛、
あをいあばたの鼻、
細い眼が奥からのぞいてゐる。                   (「笛をふく墓鬼」)

灰色の蛙の背中にのつた死が、
まづしいひげをそよがせながら
そしてわらひながら、                    (「蛙にのつた死の老爺」)

わたしは足をみがく男である。
誰のともしれない、しろいやはらかな足を磨いてゐる。  
そのなめらかな甲の手ざわりは、      (「足をみがく男」)

にほい袋をかくしてゐるやうな春の憂鬱よ、
なぜそんなに あたしのせなかをたたくのか、
うすむらさくのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ、        (「つめたい春の憂鬱」)



 それぞれが詩の冒頭の二、三行目である。タイトルの新鮮さとひらがなのつらなりが、ぬめるような表現で異常な世界の入りたつ読者をさそうことになるのだろう。どちらかというえば、否定的なマイナーな状況を演出している詩的想像力が逆説的な関係において現実的には成立することを証明しているのではないか。大手拓次は群馬県碓氷群西上磯部村(源・安中市)磯部温泉旅館・蓬莱館ノイエにうまれた(一八八七年十一月三日生ー一九三四年四月十八日没)安中中学校から高崎中学校、早稲田大学第三高校予科を経て早稲田大学文学部英文科卒。卒論「私の象徴詩論」。生涯独身をとおす。四十七歳の生涯を茅ヶ崎南湖院で静かに終えた。生前は一冊の詩集も出版していない。死後に終生の友逸見享によって編まれた。また大学お卒業後しばらくしてライオン歯磨きに就職し生涯をすごすことになる。


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