遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

現代詩「転写する幻影」

2010-11-22 | 現代詩作品
転写する幻影



人はじぶん自身が見えない。水に映るわが姿に恋して水仙と化したギリシ
ャ神話のナルキッソスではないが、じぶん自身を写すというのは、じぶん
自身を描くことでもなれば、自身の素顔や容姿とはおよそ無関係な想像力
を介入するまなざしのいとなみのことであろう。


                     誰もじぶん自身の顔がみえ
ないのだ。しかも鏡のなかにみる〈わたし〉とは、ほんとうの〈わたし〉
であるわけもなく、一つの像をなぞるようにしておもいえがいたのが自画
像といわれるものであろう。他者の目でじぶん自身を見ることができない
むろん、まなざしの不幸を


            歎くというのではない。他人の言葉を書き写し
ながら、じぶんを写す行為とは、他者の眼としてのカメラにゆだねる行為
といえるだろう。仮にもそれはファインダーを鏡にむけるのであれ、その
レンズのまえにわたし自身をさらすことであれ、わたしのこの眼を、それ
らに預けることであり、それは淋しい眼の行為の放棄といってもいいに違
いないのだ。


      もはやすすんで〈盲〉になる行為だ。それでも自画像ではな
い自写像は、すでに〈わたし〉という見えないものの幻影なのではない。
じぶん自身をうつすというのは、自身の肉眼からはるかに遠く。カメラと
いう無人称の視線を想像することができるだけである。そして物が影であ
るのと同じ次元にじぶん自身を転写するのだ。その意味ではじぶん自身を
写す行為であるといえるだろう。……転写する不安な像もある。


                             (小窓い
ち面にこびりつく夜明けの粉雪がいつか出社前の私の心に手足にまとわり
ついた寒冷期の関係の類比のような転写の淋しさ。〈わたし〉が〈わたし〉
に対する無知をさらけだすことでしか想像力のまなざしは機能しないのだ
ろう。こうして罪のように他人の言葉を書き写しているに過ぎないとして
も)

  
  人はじぶん自身が見えない。見えないもののかげりなのだろう。それ
はなんというたゆたいなのか。そのたゆたいのなかにじぶん自身を放つこ
とになる。〈わたし〉に〈わたし〉を重ねるといういとなみのなんという
空しさ。


    想像力の介入のはてで〈わたし〉が茫然となるときも、転写する
疵。移動する持久力。眼差しの眼底を擦過する捏造の幻影。それでもひと
はレンズをじぶん自身にむけるのだろう。神話のナルキッソスのように。




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