遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

転写する幻影(現代詩)

2017-11-12 | 現代詩作品
転写する幻影

人はじぶん自身が見えない。水に映るわが姿に恋して水仙と化したギリシャ神話のナルキッソスではないが、じぶん自身を写すというのは、じぶん自身を描くことでもなれば、自身の素顔や容姿とはおよそ無関係な想像力を介入するまなざしのいとなみのことであろう。


誰もじぶん自身の顔がみえないのだ。しかも鏡のなかにみる〈わたし〉とは、ほんとうの〈わたし〉であるわけもなく、一つの像をなぞるようにしておもいえがいたのが自画
像といわれるものであろう。他者の目でじぶん自身を見ることができないむろん、まなざしの不幸を


歎くというのではない。他人の言葉を書き写しながら、じぶんを写す行為とは、他者の眼としてのカメラにゆだねる行為といえるだろう。仮にもそれはファインダーを鏡にむけるのであれ、そのレンズのまえにわたし自身をさらすことであれ、わたしのこの眼を、それらに預けることであり、それは淋しい眼の行為の放棄といってもいいに違いないのだ。


もはやすすんで〈盲〉になる行為だ。それでも自画像ではない自写像は、すでに〈わたし〉という見えないものの幻影なのではない。じぶん自身をうつすというのは、自身の肉眼からはるかに遠く。カメラという無人称の視線を想像することができるだけである。そして物が影であるのと同じ次元にじぶん自身を転写するのだ。その意味ではじぶん自身を写す行為であるといえるだろう。……転写する不安な像もある。


(小窓いち面にこびりつく夜明けの粉雪がいつか出社前の私の心に手足にまとわりついた寒冷期の関係の類比のような転写の淋しさ。〈わたし〉が〈わたし〉に対する無知をさらけだすことでしか想像力のまなざしは機能しないのだろう。こうして罪のように他人の言葉を書き写しているに過ぎないとしても)

  
人はじぶん自身が見えない。見えないもののかげりなのだろう。それはなんというたゆたいなのか。そのたゆたいのなかにじぶん自身を放つことになる。〈わたし〉に〈わたし〉を重ねるといういとなみのなんという空しさ。


想像力の介入のはてで〈わたし〉が茫然となるときも、転写する疵。移動する持久力。眼差しの眼底を擦過する捏造の幻影。それでもひとはレンズをじぶん自身にむけるのだろう。神話のナルキッソスのように。




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