遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート⒑

2019-04-22 | 近・現代詩人論
中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。
 中也は「大正四年のはじめの頃だったか おわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡く
なった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所 「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。
 
一九二〇年四月、県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学にする。成績の方がどんどんとおちていったようだが、読書熱は増す。そして新聞への短歌の投稿をし、歌壇欄に頻繁に掲載されるようになる。短歌会にも顔をだし、益々文学に熱を上げる。「防長新聞」の歌壇欄で瞠目されたのは、(大正十年十月二日)の掲載された「煙」と題する次の二首であろう。

 ゆらゆらと曇れる空を指さして行く淡き煙よどこまでゆくか
  白き空へ黒き煙のぼりゆけば秋のその日もなほ淋しかり

 この二首については福島泰樹が感覚的な視点に触れた解説を寄せている。
「まず視覚的にみてふらつきがない。均整がとれているのである。活字の行間から、モノクロームな風景が煙のようにユラユラと立ち上ってゆくではないか。聴覚的にはさらなる完成度が見られる。十四歳の少年は曇天の空の向こうに、詩の予兆を、ひとりはためく黒旗を見たのか。」。 (『中原中也 帝都慕情』)にさらにつづけて「一首目の、「ラ」行音と{カ」行音からなる連弾の妙!」と別冊『太陽』誌の{曇天の朝」で述べている。ここではまだはっきりと認めにくい「連打の妙」は、のちに発表された「曇天}昭和十一年七月)に連なっていくとみていいのだろう。


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